#45 本当の自分
本をパタリと閉じ、私はリヒトの柔らかな寝顔を見つめる。私に子供はいないし、持とうと思ったことも無いが、子供は可愛いと感じる。
幼ければ、外の世界に夢を見られる。
十四歳なら、これから世界にも出るだろう。いろんな場所を旅したり、様々な人との交流も待っている。
寂しく少年時代を過ごした私とは違って、この子には可能性が残っている。私は、それを壊したくないと思った。
窓の向こうに目をやると、もう日は沈みかけていて、藍色の空に星達が顔を出しているのが分かる。それらを見ながら、ぼんやりと思考に耽る私の前に、黒い靄が姿を現す。新しい血の請求だろうか。
「随分のんびりとしていますねぇ……まさか、あの戦場で三千年前と同じ失態を犯すとは。貴方が戦場のリソースを中途半端にしか使わなかったために、負傷ですんだ人間も沢山いましたし」
「三千年前とはわけが違うだろう」
「なにが違うものか。貴方がやることは復讐でしょう? 復讐に容赦はいらない。ただ、奪いつくせばいいだけの話。それだけのことが、どうしてできないんです?」
靄達が集まって人の形になり、長い前髪から覗く緋色の目が冷たく私を睨みつける。
「人間を信用したところで、どうせいつか死ぬ。永遠なんてない……貴方が思い描く理想は続かない」
「……」
「でも、私なら永遠に貴方を愛せる。満足させられる。貴方の事を全て理解した私なら」
悪魔の真っ白な指が私の腕、首をゆっくりと這う。それに身を震わせながら、じっと耐える。
「悪魔……復讐を、やめたい。もう奪いたくない」
その瞬間、ピシリと空気が凍る音がした。悪魔から発せられる針のように鋭い殺気が微妙に勢いを増す。
「ふふっ……ご冗談を。貴方が憎んだ人間達はまだ殺しきっていない……ねぇ、そうでしょう?」
「ああ……でも、もう殺したくないんだ。怖い。これ以上の闇にはまってしまうのが怖いんだ」
「怖い? 貴方は誰にも負けない力を持っている。今さら何を恐れる必要があるんです?」
「自分が、自分でなくなってしまうことが怖い。それが一番の恐怖だ」
「ああ……そんなくだらない事に我が主は悩んでいたなんて……ご安心下さい。もう、とうの昔に貴方は壊れていますから。貴方の殺戮衝動をいじるのは結構簡単な事ですし」
悪魔の手が私の額に触れた瞬間、電流を流されたかのような強いショックが体中に回った。あまりの痛みに、思考が制限される。
殺せ。奪え。憎め。お前は殺戮者でなければならない。そんな命令が、頭の中を駆ける。
「ッ……!!」
「あはは……苦しいでしょう? 憎いでしょう? 数日、人間との戯れの時間を与えてあげます。快楽は落差があってこそ、面白いものですから……どうぞ、お楽しみください」
「悪魔……いい加減にしろ!!」
「歯向かう気ですか? この私に? 死にたくないから生かしてくれと喚いたのは何年前だったか……ククッ……貴方が私との契約を破れば、貴方はすぐに命を落とす。それは知っているはず」
「ああ、知っている。それでもお前の言うとおりには……ぐぅっ!!」
「人間如きが私に逆らおうと思うな」
吐き捨てるように悪魔はそう言い、闇に消える。私は、爪のあとがくっきりと残る首を押さえる。
悪魔は、ずっと私を助けてくれた。いつ、どんな日も一緒にいて願いを叶えてくれた。それを今さら裏切られるのは、きっと悲しいだろう。
じんじんと疼く傷の痛みに、私は悶える。負けてはいけない。あの悪魔に支配されてはいけない。それは分かっている。……でも。
「私は……殺し続けるしかないのか」
己の手を見つめる。この手で、何人もの命を奪ってきた。自分の耳で、幾つもの叫びを聞いた。
足掻こうとする人々を容赦なく踏み、傷つけ、己の足にも泥を塗ってきた。私は、どうすればよかったのだろう。どうすれば幸せになれたのだろう。
「どうすれば、誰も傷つけずにすむんだろう」
ああ、分からない。私は守りたいのに。やっと自分の居場所を見つけたのに。悪魔に遊ばれるぐらいなら、もうこんな苦行はやめてしまいたいのに。
なのに、止められない。まだ手放すことを怖がっている自分がいる。悪魔に愛されていたいと願ってしまう自分がいる。
「生きるということは、誰かを犠牲にする事もある。ただね、君は犠牲にしすぎだ」
「ディニタス……出ていろと言ったはずだが」
「君の忠告をやすやすと聞くような人間じゃないよ。そこは似たもの同士と言ったところか。まあ、出ている間にある人間と約束を取り付けてきたけどね」
「ある……人間?」
呆然とする私の前に、見覚えのある人間が現れる。忘れもしない。私をあの孤城に閉じ込めた、憎めども憎みきれない男、タレス・フォーケハウトの遠い息子だ。
「アルト……フォーケハウト。なぜ貴様がここに!!」
「騒ぐな。そこのお嬢さんが起きてしまうだろう? ディニタス先生から話は聞いた。話をしようじゃないか……赤目の人々について」
「赤目の……人々について?」
「ああ、そうだ。赤目の差別制度をどうするかだな。領主のレグルス・ベルガ公爵も一緒だ。お前さんにとって悪い話じゃないだろう?」
その提案は、私の心を大きく揺さぶった。赤目の人々が助かるなら、私は――。
目を開いて、じっとアルトを見つめる。嘘はついていない。それは分かる。だが、一つの疑問がどうしても心に残っていた。
「赤目の人々は何も悪いことはしてこなかったはずだ。私が封印を破るまでに、なぜそんな簡単なことに誰も気づかなかった? 騒ぎ立てて、傷つけて、そして被害が出てから私にやめろと?」
「……スィエル。お前さんの言うことは正しい。行動は間違っていても心は正直だ。私達は、間違っていた」
「それは……」
本に記された名前を見て、私は絶句した。《Tares Forkehaut》と書かれたその手帳は、間違いない。三千年前にあの城で戦った者の名前だ。
「どうして……三千年前の記録を……私はあの城で全て……」
「スィエル。お前さんの事はこの記録に全て保管されている。レグルス・ベルガの屋敷にあったのを、彼の執事が見つけたんだそうだ。自分の生い立ちを君は知らないだろう」
「母さんの名も、父さんの名も私は知らない。なのに……なぜ領主の元に」
「君は、伯爵家の息子。そして、領主の家は崩壊した君の家を吸収したそうだ。その時に、持ち込まれたのだろう……」
「知らない……私は何も知らないんだ。伯爵家出身ということは聞いていたのに……ああ、思い出せない。昔の事を思い出そうとすると、頭が痛くなるんだ。そして、止まらない……呪いみたいだ」
悪魔の仕業だろう、とは思っている。だが、なぜと考えると分からないのだ。記憶も思い出せないのは正直、苦しい。これが罰だというのなら……私は多くの罰を背負っているのだろう。
「スィエル。先程も言ったが、不滅のまじないがかかっているこの手帳には様々な事が書かれている。君が知っているその先の自分を……知りたいか」
「……ああ」
「なら、話していこう。君が三千年間、避け続けていた自分とようやく向き合うときだ」




