#43 出会い
「ねえ、スィエルは大人になったら何がしたい?」
「空を見てみたい。図鑑で見たんだ。君が言ったとおりだった」
「そっか……」
黒いパンが、檻の隙間から僕の元に届けられる。
食事すら、まともに取れない僕は細い棒のような両手を皿のようにして、パンを包み込む。
「ごめんね、いっつも黒パンで。たまには普通のものもあげたいんだけど……かたいよね」
「ううん、大丈夫。パンなんて贅沢品だもの。勉強の合間に食べるよ」
「また勉強? この前もそう言ってたじゃないか……あんな分厚い本、読んだら疲れちゃうよ」
「優秀じゃないと実験台にされちゃうからね」
「僕、君に術式で勝てる気がしないよ……あ、そうだ。木の実もこっそり取ってきたんだ……あげるよ」
見たことのない木の実を一つつまんで、まじまじと見つめる僕を彼は笑った。
「それ、外じゃ普通に取れちゃうからあんまり珍しいものでもないよ?」
「うん……そうかもしれない。でも、僕にはこの木の実は外を知れる貴重なものなんだ。ありがとう」
「じゃあ、今度機会があったらいーっぱい取ってくるから。スィエル! また来るね!」
「うん!」
涙が出るほど懐かしい夢。名前はやはり、思い出せない。でも、顔ははっきりと見えた。紫紺の髪を揺らしながら微笑む少年の姿が、目覚めた私の脳裡に焼き付いている。
悪魔に奪われた記憶が少し戻ったのだろうか。
だとしたら、これからも少しずつ思いだしていけるかもしれない。
「……」
私の体には幾本ものチューブが繋がれ、パック状のものからは透明な液体が、一定のテンポで滴り落ちている。
一瞬、軍の孤児院で過ごした頃に受けた人体実験の様子を思い出すが、空気が違う。
あの時とは違って、悪意がない。
薄く薔薇の香りも漂っており、窓の向こうには地平線から朝日が顔を出しているのが見える。
「ああ、そういえば……病院に行くと言っていたな……」
上半身を起こし、周囲の状況を確認する。
二床のベッドのうち、私は一つに横たわっているらしい。カーテンをそっと開けると、青い髪の少女がすうすうと穏やかな寝息を立てて寝ていた。
私は気まずくなり、またカーテンを元の位置に戻す。異性と二人だなんて、私には経験がないのだ。
……恋愛感情は持たないが、緊張はする。
頭をかいて、しばし悩んだあげくに術式で生成した魔術の分厚い本を読むことにした。
しかし、気になる。まるで集中ができない。
なぜ個室でなくて、一緒にさせたのだろうか……私が対人恐怖症というのは、恐らくここに連れてきたディニタスは理解している。だが、もしもこの行為に意図があるとするなら。
「私に会いたい……か」
この青い髪の少女こそ、私を呼んだ子供なのだろう。繋がれているチューブのせいで自由に動くことは不可能だが、見つめることはできる。
敵意も、殺意も恐らくない。それは改めて確認して理解した。でも、なぜ私に関わろうと思ったのだろう。怪物や化け物のような人間を、なぜこの少女は呼んだのだろう。
「名前、知りたいな」
少女を起こさないようにカーテンをそっと閉める。
閉じていた本をまた開き、黄ばんで破れかけのページをめくる。
「……究極最上位術式、か」
今でも信じられない。自分がずっと嫌っていた伝承の再現をしたことが。めくられたページには、死神と燃え盛る業火のイラストが描かれている。
この術式を見つけた人物は、どのような思いで行使したのだろう。悪魔に見せられた、あの夢さえなければ私は行使を止めていただろうか。
「ナハトだ。失礼するよ」
「ああ」
コンコン、と扉をノックする音が響き、続いて静かに扉が開けられる。
「体調はどうだい? ゆっくりと眠れたかな」
「ありがとう。お陰でよくなったよ」
髪の毛についていたはずの血は全て拭き取られ、いい匂いがする。
「ふふ、ならよかった。驚いただろう? 目が覚めたらいきなり病室にいたんだから。この少女が君を呼んだ子だよ。病気で長時間寝込んでしまうんだけどね」
「病気……? 大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。眠り姫病と言ってね……ずっと眠ってしまうんだそうだ。最近薬が出来たんだけど、それが高額でね」
私でも、お金を生み出すことは出来ない。悪魔に頼めばなんとかしてくれるかもしれないが、何か対価を払わなければ応えてはくれないだろう。
「ごめんな……私では何もしてやれない」
カーテンの向こうに、そう語りかけてからディニタスの方を向く。
「さて、落ち着いたところで……君には色々と聞きたいことがある。黙秘でもいいが、出来るだけ答えて貰いたい」
「……口外はしないだろうな」
「そこは平等に取引させて貰うよ」
「信用できないな……だが、助けてもらったことだ。何から話せばいい?」
「君は、なぜ犠牲者を増やし続けるんだい? あの戦場の慟哭といい、子供達への愛情の注ぎ方といい、いつも夜に人を殺し続けている人物と同じように見えないんだ」
「それは……」
私は口をつぐむ。悪魔のため、というのは嘘ではない。私は自分が生き続けるために他人を犠牲にしている。
フィラレスの村長と話したときも同じ事を聞かれたが、殺人鬼としての私といつもの私は同じだ。たとえ、誰かに違う人物だと言われようとも己の罪として背負う覚悟はある。
「私は、愛されたい。認められたい。そのために、私は人々を犠牲にし続けている」
「愛されたい……ね。それで、君はその空虚な心が満たされたかい?」
「……」
満たされたわけがない。だから、あの戦場で私は死ぬことを止めたのだから。もしも満たされたなら……こんな復讐は必要ない。
答えられない私に、ディニタスは小さなため息をつく。そして、枯れ木のような私の手を包む。
「スィエル。君は世界を知らない。狭い、苦しい世界しか知らない」
「世界を……知らない……ああ、そうだよ。私はずっと閉じ込められてばかりだったんだから……私は誰からも切り捨てられ、傷つけられ、憎まれてきたのだから」
そう思うと、自分が惨めになる。
ここで愚痴を吐いても何も変わらないのに。でも、吐き出したかった。理解してほしかった。ここで止めてしまえば、もう誰にも語ることがないだろうと思えたから。
あまりにも悲しくて、私は嗚咽を漏らしながら泣いた。病院内なので静かにしなければならないのは分かっていたが、それでも止められなかった。
人と同じように過ごしたいのに。ただそれだけなのに。私はどうしてそんな望みさえ叶えられないのだろうか。
涙でぐちゃぐちゃになった視界に、ふと何かが差し出される。涙を拭うと、それはピンク色の薔薇であることが分かった。でも、誰が。
驚いてその主の方を見ると、藍色の丸い可愛らしい目が僅かに細められ、桜色の唇が僅かに開いた。
「大丈夫?」




