#41 あの日を、もう一度
伝承の再現。その言葉に、私は一瞬竦んだ。
あれほど嫌ったあの日をもう一度起こす。
それは正直、とても怖かった。だが、ここで立ち止まってしまったら、赤目の人々を守れない。原因は私にあるのだ。全責任は私が背負わなければならない。
私は覚悟を決めて、バイオリンを弾き始める。
白く、陶器のように美しい胴からは、少々焦りのこもった音がこぼれる。楽器は心の鏡だという。もっと良い演奏を、と焦れば焦るほど段々と調子が狂っていく。
闇が吹き荒れ、私の髪を強く揺らす。
強く、ずきりとした痛みが割れ鐘のように頭に響く。
「ぐあっ……」
あまりの痛みに、更に演奏が乱れていく。
テンポも、音程もめちゃくちゃだ。どうにか曲にはなっているものの、弾いている私でさえ酷い出来であることが分かる。
――お前のせいで、俺は死んだんだ!!
――助けて……まだ小さな子供がいるの……
――嫌だ……嫌だ!!
私の耳に、絶叫と悲鳴が飛び込んでくる。
私が命を奪った者達の叫びが、私の意思を揺らがす。
「ぐうっ……!」
闇の勢いは更に増し、私の体を侵食していく。
血管が中から食い破られるような不快感が、全身を襲う。
これが、究極最上位術式の代償。
だが、ここで弾くことを止めるわけにはいかない。
前回発動したときはこんな苦しみは無かったのに、何の差が生じているのだろうか。
あと数音。それで術式の発動に足りるリソースが確保できる。
どうにか全ての音を弾ききった私は、右手に持ったバイオリンの弓を細剣に変え、大勢の兵に向けて高らかに宣言する。
「私の名はスィエル・キース!! 貴様らに復讐を誓い、三千年待ち続けた殺戮者だ。私の首を取りたければ、その身全てを犠牲にしてから来い!!」
広い荒野に私のテノールが響き渡る。
ピンと張り詰めた空気を破壊するだけの力はあったらしい。血走った目で、獲物を視認した獣たちがわらわらと集まってくる。
「奴を逃すな!!」
ウオオオォォ!! と、鬨の声が割れんばかりの大合唱を繰り広げるが、私はタイミングを計ることに集中する。一歩でも間違えれば犠牲の数に大きな差が出る。限界まで引きつけてから、私は式句の詠唱を始める。
私の元に彼らが到達するまで、あと二十秒。
「彗星の片鱗が地に至る時、昊は剥がれる」
あと十五秒。
「恐れ戦く者へ等しき裁きを。神さえ果てたこの辺境の地に、深淵への導きを。我は全てを狂わす者とならん。此処に伝承通りの災厄を」
あと三秒。
「――マネトノクス・オムニア・ウァニタース」
術式を唱えた瞬間、膨大な量のリソースが解放され、戦場に巨大な火の玉を生み出した。
爆発音は木霊して、何重にも増幅されて聞こえる。
魔力が急激に減少し、息切れも激しくなってきたが、同時に犠牲によって生成されたリソースも宙に舞っているはずなので、ひとまずその吸収に徹する。
火球はそのまま爆発し、あらゆるものを紅蓮に焦がしていく。私の瞳と同じ色。忌み嫌われて、見下され続けてきた色。
それでも、私はその色を美しいと思った。
私の目と同じ赤は、それを否定する者達を全員追い払ってくれるから。全員を炎は平等に傷つけるから。
感情や、容赦、その他攻撃に不要なものが一斉に崩れていく。
私を制御していた枷は完全に崩壊し、溜め込んだ憎悪が溢れ出す。三千年間、憎み続けてきたのだ。今更容赦したところで、失われた時間は戻らない。
究極最上位術式の威力は、一度発動したことがある私でも目を見張るものがあった。
私の目の前にいた者達は骨さえ残さずに蒸発し、それ以外の者達も酷い火傷を負っていた。あの状態であれば、治療できたとしても尾を引くだろう。
阿鼻叫喚の地獄絵図を見たとしても、私の心は然程動かなかった。それもそうだ。全員滅ぼさない限りはこの死闘は終わらないのだから。
絶叫と悲鳴。咆哮と罵倒。
今はそれすら、甘美な響きに聞こえる。
私は凍り付いた己の体を撫でる。冷え切った血が、単調なリズムを刻みながら体中を駆け巡る。そろそろ吸収も出来たころだろう。大分動悸も収まってきた。あとは――。
「嫌だ……死にたくねぇ!!」
爆発に呑み込まれなかった者達を始末しなければ。
伝承の再現とはいえ、街を一つ焼くにはこれ以上のリソースが必要になる。同じ術式ではあるものの、流石に三千年前と同じ規模であればリュヌ達も危ない。
「どうして私だけに求めるんだろうね。君たちは何も与えてくれはしないのに。ああ……絶望は与えてくれたか……そのお返しだよ。凄惨な地獄を見せてくれ」
圧倒的な力で敵をねじ伏せ、刺し続ける。
少しの容赦もない連擊が、次々に敵の命を奪っていく。
剣を躱して心臓に突き刺す。
迫り来る刃を弾き、宙を舞うように飛び、血の雨を降らせる。
敵が何人いようと関係ない。この身が滅ぶまで殺し続けるだけだ。
爆風で吹き飛んだ軍服の袖を引きちぎり、傷だらけの腕を晒す。いつもは隠したくて仕方のない古傷だが、今はなぜか気にならなかった。
「弱いなぁ……私を殺すには千人の兵より一人の強者がいたほうがいいと思うけど?」
「なんなんだこの化け物は!」
「化け物? 君達が差別をしなければ私はこんな殺人鬼にならなくてもよかったのにね」
「ぐあぁぁぁっつ!!」
「あは……はははは……化け物か。どうだい? 君達が作った狂気に殺される気持ちは……」
壊れた機械のように笑い続ける私を、彼らはただ、睨む事しか出来ない。弱い。弱すぎる。力の無い者が、こんなに愚かしく足掻くとは。
「私は今すごく楽しいんだ……君達が散々私達を痛めつけてくれたからだろうね」
「殺さないでくれ!!」
「あまりにわがままだと自分で思わないかい? 三千年間耐え続けたのに、許してくれだって? 巫山戯るな」
音楽で言えば二オクターブは下がっていただろう。急な声の変わりように、兵士達は蛇に睨まれたカエルのように動きを止めている。
「惨劇は終わらない。全員の犠牲を奪うまで、私は止まらない。ここまで多くの兵を集めた事を、褒めはしよう。だが、遊びは終わりだ」
「遊び……だと? こんなに人を殺しておいて貴様は遊びだというのか!!」
「なら、聞こう。貴様らは赤目を虐げることに対して一度でも愉悦を感じなかったと言いきれるのかと」
「それとこれは違うだろう!」
「違う? 何が? あそこまで働かせて、絶望させて、赤目の民の全員が現状に納得していたとでも? 殺さなかっただけだろう? 私と何も変わらないよ……生が救いか、死が救いか。違いはそこだけだ」
「貴様ァ……!」
最後の力を振り絞って私に剣を突き刺そうとする男を、私は黙って見つめる。震えながら、しかし少しずつ距離を詰めていき――。
「弱者には救済をしないとね」
私は微笑みながら男の手首をひねり、剣を奪い取る。そして、貫通するほど深く刃を差し込む。
「ぎあああっ!!」
「この程度の痛みで悶えるなんて……赤目の人々はこれ以上の苦痛を何度も味わっているんだよ?」
「分かったよ! 止めるから殺さな……」
「一人に構っていられないよ」
すがりつく男を振り払い、私は一人で歩き始める。
行く当てもないままに、荒野を彷徨う。
見つければ殺す。敵は皆、排除する。
淡々と、機械のように。
「あの日と――同じだ。何も、変わっていない」
焦げた肉やむせかえるような血の臭い。
折り重なるようにして倒れる敵。
奪っても、失うだけで。何も得られないままで。
私は、ただ一人で歩き続ける。
「母さん、父さん。守ったよ。皆を守ったよ……」
ポツリと呟いた声に誰も応えてくれないことも全て、あの日と同じだった。




