#40 禁忌術式
それから時は過ぎ、夜空が荒野の上に広がる時間になった。血のように赤い星が今日はひときわ強い光を放っているように見える。
この暗示は、一体何を示しているのだろうか。
思考にふける私の頬のそばを、冷たく乾いた風が通り抜けていく。
雷術を詠唱し、ヴェリテに繋ぐ。
距離的に、もうすぐぶつかる頃合いだろう。
砂煙が上がり、叫び声が聞こえる方向に私は目を向ける。砂に覆われた山と山の間から、どうやらこの地に入り込んだらしい。
大体の予想はしていたので反対方向に赤目の民達を逃がすことには成功したが、どこまで粘れるかは分からない。
「来たか……ヴェリテ、様子はどうなっている」
「あっ兄さん! すごい数だねぇ……イデア凄すぎだよ。どうやって割り出したのかなぁ」
「そうか。まあ、お前がやることは変わりない。殺せ。それだけだ」
「うん! ひさびさに暴れちゃうぞー! って、兄さんやっぱり全員は無理。何人か突破していった!」
「それぐらい私も分かっている。限界まで兵数を削いでくれれば後は私がやる」
「わー! ちょっと待って兄さん! もうそろ準備した方がいいかもだよ。龍兵まで来てる!」
龍兵とは厄介な敵だ。まず、広範囲の術式が効かない。術式を龍の場所まで届かせる必要があるが、果たして上手くいくか。
「何だと……ヴェリテ、何騎見える?」
「えーっと……一騎だけ! でも凄く強そうだよ! あ、やばい。一直線で向かってくる……銀色の鱗でおっきいよ!」
「全力で逃げろ!!」
その数秒後に鼓膜が破れそうな程の轟音が通信越しに聞こえてきた。ごうと強い風が吹き付ける音が続き、岩に打ち付けられる音も聞こえる。
「うわー!!」
「大丈夫か!」
「うん、大丈夫! また服ビリビリになっちゃたけど!」
また縫うことを考えると面倒だが、今はそんな事は言っていられない。
「後で幾らでも直してやるから今は逃げることに専念しろ」
『はぁ……大丈夫ですか?』
唐突に目の前に現れた黒い靄から、くぐもった声が発せられる。いつもこの悪魔はいいタイミングで出てくる。演劇にでも加われば一躍名役者にでもなっただろうに。
「悪魔、正直なところ私もこの楽器で何をするのか聞かされていないんだが……どういう計画なんだ?」
しかし、その問いには悪魔は答えない。
ただ意地悪な笑みを浮かべてこちらを笑うだけだ。
愛しているというが不器用なだけなのか、それとも私の反応を楽しんでいるのか。後者であれば止めてほしい。
『詳しくは後で話しますからとりあえず弾いて下さい。援護は私がします……クククッ……さぁ、狂宴をお楽しみください』
言われるがままに、バイオリンを左肩に乗せ、右手に弓を持って弾き始める。いつも通りの暗く、重みのある音が胴からこぼれ、辺りを満たしていく。
いつも弾き続けているフレーズにさしかかると、私は目を閉じる。そして、バイオリンの音色にしばし酔いしれるのだ。
――もう一度、子供達と弾きたい。あの時はとても楽しくて、復讐にも疲れてしまうほどだった……
――願いが叶ったら、その時は……
自分の世界に没頭するがあまり、周りの風景が段々とにじむようになってきた。水彩でキャンバスを雑に塗ってしまったような、そんな光景が目の前にだんだんと広がっていく。
――私は、夢を見ているのか?
――バイオリンを弾きながら、どこかに迷い込んでしまったのか?
戸惑う私の前に白い霧が徐々に広がり、二人の人影がぼうっと浮かび上がる。私はとっさにバイオリンの弓を細剣に変えて、戦闘態勢を取る。
しかし、いつまでたってもその影はそこに存在しているだけだ。白い霧が立ちこめていて姿が見えにくいが、私を待っているのだろうか。
いつの間にかバイオリンの本体が消えていることにも気づかないままに私は覚悟を決めて、白い霧の中に入る。
一歩。二歩。三歩目を踏み出そうとしたところで、私は足を止めた。
そこで私を待っていたのは、私と同じように薬指が長い手の母親。二重のまぶたや目の形がそっくりな父親だった。二人の指にはお揃いの指輪がはめられており、貴族らしく豪華な宝石をあしらっているのが分かる。
「あ……ああ……」
この人達と同じ血を私は引いているはずなのに、二人との間には絶対的な壁が立ちはだかっている。溢れそうになる涙をこらえて、私は両親の目の前まで足を動かした。
「……母さん? なんで……」
手を伸ばせば触れそうなほど近づいたのに、伸ばせない。震えて、勇気が出ない。
そこにあるのに、実際にはない幻なのだ。
触れてしまえば消えてしまいそうな、そんな儚さもあった。
「スィエル……私の可愛い息子。可哀想に……ずっと一人ぼっちでいたのね」
「お前は何も間違っちゃいない。正しいんだ。優しい息子に育ってくれて良かったよ」
これは違う。幻だ。悪魔が見せる虚構だ。
なのに、私は吸い寄せられるようにまた一歩を踏み出す。
「母さん……父さん……今までどこにいたの?」
「何を言っているんだ。ずっと一緒だったじゃないか……お前が楽器を弾き続けている間、ずっと側にいたのに」
「気づいてもらえて嬉しいわ」
「一緒に……」
違う。違う、違う。
私が両親を殺めたのだ。この手を赤く染めたのだ。
醜い手に被せられた白い手袋。
その下は、黒よりももっと深い闇に染まっているというのに。
許して欲しい。この呪縛から解放して欲しい。
その願いが――いつまでも遠い。
守ることで許されるならば。もう苦しまなくていいならば。
この幻からの贈り物も、きっと。
「これを唱えるんだ、スィエル」
「そうすれば、貴方の望むものが手に入る」
「望むものが……手に入る……」
思わず呟いた私に、二人は揃って微笑を浮かべる。
二人の柔らかな笑みを見ているうちに、段々と自分の中で何かが溶けていくようだった。
「貴方は正義感の強い、立派な子」
「だから、ここからの試練も乗り越えられるはず」
試練とは何なのか、それすらも問う時間は与えられずに、私の元に一枚の紙がひらひらと落ちてくる。
広げると、そこには夥しい数の単語が一面に記されていた。普通であれば解読に膨大な時間を要したであろう。
しかし、私は一瞬でその暗号を解いた。
なぜなら、これとほぼ同一の術式を一度だけ行使したことがあるからだ。
間違いない。
これは、自分の身さえも犠牲にする禁忌にして最大の術式。数多くある属性の術式の中でも一つのみしか与えられない位。
――究極最上位術式。
「私達の意思と共に、その楽器を奏でて。今、ここに伝承の再現を」