#31 傀儡の公爵
大破した屋敷から、白衣をまとった一人の男が扉に一礼して踵を返す。鏡のように磨き上げられた扉には、純白の衣に、結った紫髪。編み上げられた革のブーツと、特徴的な容姿が映る。
ナハト・ディニタス――世界を渡り歩く、旅人でもあり医者でもある男だ。異端とも言われるが、「誰であっても平等に接する」という方針を崩すことはない。
前までは、悪は悪で正義は不変であると信じていた。だから、ディニタスは危険な職業である戦地で活躍する医者となり、戦地に赴いた。
戦争に苦しめられ、害を被った民達を私は救いたいと思ったのだ。そして、兵士はどれだけ愚かなのか、その目で見てみようという若干の好奇心も持っていた。
しかし、戦地に到着し、最初に治療を行った日を境に、私は考えを変えた。
戦地ではどちらも正しく、そしてどちらも間違っていたのだ。戦えば救える。そう信じた双方は、戦うことを止めはしなかった。
だから、どちらにも味方をしない。いつでも平等に接し、平等に切り捨てる。例えそこにどれだけの間違いがあったとしても、ディニタスはその考えを曲げる気はなかった。
今では故郷であるリューデルクを離れて自由の身だ。今まで色々な地を渡り歩いてきたが、歓迎されて入国し、拒絶されるという今回のようなケースはディニタスにとって初めての事だった。
大体、願いを持ってくる人達は何としてでも救って欲しいという者が多いのだが――。
「冷徹な天使……か。私はそんな大層な者じゃない」
平等には犠牲がつきものだ。何も犠牲にしないで得られるものはない。そう、ディニタスは思っている。この世界は残酷だ。平等など、あってないようなもの。
だから、平等を貫くのだ。自分だけでも貫いておかねば、重要な判断のときに迷うことになる。
一瞬の迷いで奪わなくてもいい命を奪うことに繋がる――そのことを、あの公爵は理解しているのだろうか。ディニタスは口に指を置き、鋭い音を響かせる。
公爵の屋敷の森の中で、男はやるべき事に足を踏み出そうとしていた。
*
「大丈夫ですか! レグルス様……そのお姿は……すぐに仕立屋を呼びます。新しい服を用意いたしますので」
「今はいい。それより……」
「いえ、身なりもきちんとしなければ公爵失格ですよ。レグルス様。ご心配なさらず!」
応接間に走って入ってきた執事は、乱れた髪や服に気づくと急いで電話のベルをならしにまた駆けだしていった。
燕尾服の尾が扉の外へ消えたのを見送ると、レグルスは一つ大きなため息をつき、椅子から立ち上がる。
この紫のジャケットはサイズも良くあっていてレグルスのお気に入りだった。金の刺繍も高級感があり、値段もそこそこしたというのに。
「何故あんな化け物にあの医者は味方をするんだ!」
服をダメにされた苛立ちや、作戦が上手くいかないことに対しての不満が膨れ上がり、レグルスはテーブルの上にあったグラスを持ち、床にたたきつけて一つ割ってしまった。
「レグルス殿。お言葉ではありますが、殺人鬼の新しい目撃情報に目を通して頂きたく……」
「新しい目撃情報? そんなもの今まででも幾らでも……」
「いえ、今まで犯行が行われていなかった場所なので」
おずおずと警備兵から差し出されたものをレグルスは乱暴に奪い取り、眺める。
セーツェン全土を示した地図の上の方に赤く点が打ってある。そして、その下には"フィラレス北部採石場で大量殺人"の文字。続く何枚かの写真は、気を悪くさせた。
ワインを飲んでこの不快感を喉の奥に流し込みたいところだが、先程割ってしまったグラスは使えないので、レグルスは執事にグラスを持ってくるように命じる。
「レグルス様、こちらです」
「ああ、ありがとう」
レグルスはボトルの栓を開け、注ぐ。一杯飲むと、爽やかな風味が口いっぱいに広がり、後味も滑らかなので西部のブドウ畑で取れるおきにいりの品種だったのだ。
「フィラレスの採石場……あそこは赤目の人間達を働かせていたはず……」
深紅の瞳から放たれる軽蔑の視線と、口端に刻まれた冷ややかな笑み。液晶越しではあったが、あの殺気は今でもよく覚えている。身を直接針で刺されるかのような痛みは忘れることが出来ない。
「手数を増やそうとしているのかもしれません。なんにせよ、私達が想像できない内容でしょう」
「くそっ……どうしてこんなに奴に踊らされなければならないんだ……」
レグルスは報告書を握り、シワを作ってからまた広げる。しかし、そこに書いている内容が変わることはない。
「レグルス殿。あと、もう一つ」
「今度は何だ!」
「フィラレスに軍を出す許可を願いたいのです」
「軍……この前も出しただろう? リーベ・ヴィローディアだったか。アルトに預けていた依頼が失敗したと聞いている。あの兵器を動かすにも金が必要だ。簡単には許可は出せない」
まさかあの魔術師が失敗するなどということは想定していなかったため、レグルスは驚いたものだ。
市民達もこれには怒っていた。
「しかし……もう、これ以上民を犠牲にしてはなりません。貴方の立場が危うくなってしまいます。赤目は排除し、今までの生活を取り戻すべきです!」
「排除……か」
レグルスは、息がつまるような奇妙な感触に襲われた。今まで、何度も考えてきた。公爵になり、民達の言うとおりに今まで統治をしてきた。
その度に、赤目の人々に対して残酷な態度も取ってきた。それは全て民のため。民のために、守らねばならない少数の人々を犠牲にしてきた。
願いを聞き、改革も行い、それなりにうまくやってきたつもりだ。幸い、部下や環境にも恵まれ、これといって困ったことはなかった。
だが、今になってレグルスはふと考える。あの医師が言わんとしていたことが今では分かるのだ。
誰が間違っているのか。それは誰も分からない。自分は、正しいと言えるのだろうか。赤目の人間達を殺してきた報いを今受けているのだとしたら……私達が攻撃することは最善手と言えるのだろうか。
一瞬目を閉じた後に、レグルスは立ち上がる。割れたガラスの破片が靴裏に刺さるが、それも気にならない程に、彼は迷っていた。ドアノブの冷たさが、身にしみる。
「少し、考えさせてくれ」
「公爵! あまり迷っている時間はありません……お早めの決断を」
その言葉に、レグルスは扉を荒々しく閉める事で答えた。




