#29 小さな幸せ
「ここだよ! ここが村長さんのおうち!」
リュヌに連れられて来たはいいものの、ここが役所に見えるかと問われれば首を横に振りたい気分だ。屋根は一応あるものの、扉の上の看板はボロボロで何と書いてあるのかよく読めない。壁はしっかりと泥を固めたものが塗られ、強度はありそうだ。しかし、ヒビがいくつか入っているので、安全とは言い切れない。
辺りを見回しても、他に代わりの建物がありそうかと言われてもないので、ここが一番の建物ということでいいのだろう。
「そうか、ちょっと話をつけてくるからアラネア達と遊んでいてくれ」
「はーい!」
少女が元気にアラネアの所に駆けていったのを確認してから、役所の扉を開ける。
「失礼するよ」
帽子を被ったままのも失礼なので軍帽を取り、乱れた前髪を整える。扉につけられていたベルの音で来訪者に気付いたのだろう。
居眠りをしていた老人は、私に気付くと真っ先にヘルメットらしきものを被った。
「ひっ……軍人……お、お前は何をしにきたんだ!」
どうやら私を恐れているらしい。確かに、この格好では驚かれても仕方がないだろう。私は老人をなだめるべく、口を開く。
「大丈夫だ、私も赤い目だから」
「それは大変失礼しました! まさか……その姿はあの……」
どうやら伝承の事を知っているようだ。しかし、ここで叫ばれたりなどしたら面倒なので、右手でサッと老人を制する。
「今は広めるな、混乱を招く」
「分かりました」
一旦落ち着かせて本題に入ることにする。ここに案内してもらったのは、悪魔との取引が出来る場所を探すためだ。
「個室はあるか?」
「はい、小規模ではありますが」
「構わない。一つ貸して貰えると助かる」
個室であれば、他人に取引を見られる心配もないだろう。私は金貨を懐から取り出し、そっと置く。老人は私が出した金の量に目を丸くするが、別に悪魔がくれたものだし、使うこともない。
「こ……こんな額は見合いません……」
「いや、いいんだ。貰ってくれ。私も特殊な身分だから」
「では、ありがたく……二階に上がって左側の扉を開けてください」
「ありがとう」
小さな鍵を貰って階段を上がる。ぎいぎいと軋む音がして少々不安になるが、どうにか二階までたどりつく。
そして、角を左に曲がると茶色の扉が目の前に現れた。鍵を差し込み、中に入り、そして扉をそっと閉める。
「ふう……」
一息つく私の前に、黒い靄が現れる。全く、気の早い奴だ。
「くつろぐより先に、やることがあるでしょう?」
「ああ、そういえば今日の分がまだだったな」
結晶を懐から出して靄で作られた手にのせると、悪魔はすぐに飛びついた。
「ふふっ……ああ、この結晶はとてもおいしいですね……一度しか味わえないのが残念ですが」
「ヴェリテ達は撤退したか。アルト・フォーケハウトもいたとは面倒な奴だ。領主を殺せばまだ混乱にたたき込めるかと思ったのに」
一人で指揮を務めている領主を討てば、しばらく民達は動けない。それを期待してヴェリテ達を向かわせたが失敗したようだ。
「それ以外にももう一人……どうやら医者のようですね」
「もう一人だと? 見せろ」
「どうぞ」
悪魔が用意した透明な水晶板に映し出された画像を眺める。淡い紫色の髪を結っており、白衣が目立つ。
穏やかに微笑んでいるが、戦闘中に笑みを浮かべられるとは相当な実力者だろう。
「医者……か。解剖でもするのか?」
「さぁ、この男は目をつけていませんでしたから、何とも言えませんね。とりあえず面倒な奴が増えた事には変わりはありませんが。何でも救う医者だそうです」
「へぇ……何でも救う、とは大した野望だよ。実現するかと言われれば夢のようだとしか言えないけどね」
ワインを一杯のみ、目を閉じる。何でも救えるのなら、私も許されるだろうか。甘い思考が私の脳の隅までを支配する。許されたい。認められたい。
狂った私と、普通の関係を築いて欲しい。そんな事をときどき願ってしまう。
しかし、そんな願いとは裏腹に私は拒絶する。赤目の苦痛を知らない人々を私は嫌い、殺し、奪う。そして、その血を余すことなく楽しむ。罪を犯し続け、狂い続け、勝利の美酒に酔いしれる。
「ああ……良い酒だ」
喉を滑る液体からは、憎しみや恐怖といったあらゆる負の感情が感じられた。
「幸福の絶頂からいきなり堕とされればそれはいい味になるでしょうね。私も、この味は気に入りました。しばらく、他の地を味わうのが苦だと思えるほどに」
「はは……まあね。私もこれだけはやめられないよ」
グラスを傾けて最後の一滴まで味わう。罪人の血は濃く、深い。鉄の味を飲み込み、余韻に浸る。
「これからも何人も犠牲者が出るでしょうから……今まで余裕だった分、恐怖は相当でしょうね。ああ、それを想像すると楽しみになってきました。辺境の地というのも悪くない」
「まだ赤目の人間は虐げられているのか?」
「懲りない愚か者ばかりですからねぇ。酷い有様ですよ」
「……」
ここは赤目の人間が使えるスペースの中でも一番良いところなのだという。しかし、術式で用意したグラスと椅子以外は目立って使えるものがない。
「役所でこの状態なんだ。他の人々はもっと……」
「とても見ていられるものではないでしょうね」
その時、扉を軽く叩く音が聞こえた。
「キースさん、リュヌだよ! 入っていい?」
「悪魔、明日追加で贄を渡す。それでいいな」
この場を見られてしまうと、これからに支障をきたすので一度悪魔には下がってもらうことにする。
「わかりました。では、明日を楽しみに待つとしましょう」
そういうと黒い靄は霧散し、後には私一人が残された。コンコン、と再び扉を叩く音がする。今度は少し強めだ。
「まだー?」
「ああ、ごめんな。入っていいよ」
返事を聞くやいなやドアノブが回り、少女がぴょこんと顔を出した。採寸を双子に任せ、それを元に私が作った赤のワンピースがよく似合っている。
「お邪魔しまー……あれ? キースさん、誰かと喋ってなかった? 妖精さん?」
「まあ、そんな感じかな。あまり、私以外に姿を見せたくないんだそうだ」
「へー……照れ屋さんなのね!」
ここに悪魔がいたら何をいっているんだと首を絞められていただろうが、幸い何もなかったので話を続けることにする。
「で、どうしてここに?」
「あのね、演奏をして欲しいの!」
「え……」
私はあの楽器を人前で弾いたことがないのだ。
しかも、私の音楽は大体即興でいつも同じ曲は弾いていない。緊張状態でもうまく弾けるだろうか。
「アラネアさんが教えてくれたの。素敵な音がする楽器を持ってるって。皆、聞きたがっているんだけど……」
「分かった、すぐに向かおう」
急いで階段を降りて、外に出る。
階段の耐久度が心配ではあるが、後で少し見ておくことにする。
「こっちこっち! あそこの広場に皆集まっているわ!」
よく見ると、確かに多くの子供とアラネア、ライア、ザニアがいるのが見えた。
「あら、兄様が来ましたわ」
「ええ、そうね……ちゃんと楽器も持ってきたみたいで良かったわ」
「流石はスーちゃん! 期待に応える男ね」
「……人が多いな」
来たときには全然人影が見えなかったが、今広場に集まっている人々を数えただけでも、30人はいるだろう。
「楽器なんて初めてみるよ!」
「これ、学校で習ったの? お兄さん、いいなー」
「あ、ああ……そう……だね」
独学だとは言わない方が良いだろう。
絶望でも多少の夢ぐらいはあった方が未来が見える。
準備を整え、軽く基礎的な練習をこなしてから演奏を始める。
滑らかに弓が弦の上を滑る。
体のリズムを音楽に乗せ、荒野に花々の息吹を感じさせる暖かな音を響かせる。
皆が集まった広場は、今では小さな劇場だ。
音が舞い、拍手が弾ける。
子供達の明るい笑顔が、私の緊張をほぐしていく。
凍えきった心の氷の塊が、幾らか溶けていく。
「すっげえ……俺、兄ちゃんみたいな演奏家になりてえ!」
「こらこら……ほら、お兄さん困っているじゃない……」
「私もやりたい!」
「僕も!」
「分かった、順番にな」
順番待ちの子供達はライア達に託し、不満に思わないように工夫しながら練習は続いた。子供達はバイオリンの扱いには四苦八苦し、日が暮れる頃には皆がへとへとに疲れていた。
しかし、私がもう一度練習してみたいかと聞くとほぼ全員がやってみたいと答えたのだ。これには驚いたが、そう言われてしまったのなら明日も教室を開かねばならない。
私は宿に戻った後、細剣を引き抜き、手入れを行った。鏡のように透き通った刃は、私の沈んだ顔を映す。本当は奪わなくてもいいはずの命を、私はもう数え切れないほどに奪っている。だから、夢なんてない。私が夢を語る資格はない。
だが、赤目の人間を侮辱する者がいなくなれば、あの子供達はきっと優秀な教育を受けて立派な奏者や夢を追う大人になれるだろう。私がこの剣で彼らを切り裂けば、あの子達はまだ、夢を語れる。
「さあ、夜は邪魔者を排除しなければ」
磨かれた漆黒の剣を見ながら、私は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。




