#23 狂愛の杯
「欲望に……溺れる……」
「これを飲めば、更なる力が手に入る。だから、早く」
なみなみと注がれたワイン。その杯を、悪魔は私の口元に近づける。
「スィエル! それだけは飲んじゃダメだ!!」
心の中で、誰かが叫ぶ。だが、その懸命な主張も靄にかき消される。
「サァ……堕ちましょう? もっと強さを手に入れたいんでしょう?」
ゆっくりと赤黒い液体が私の口に流し込まれる。私を、思い通りに動かすために。
私は抗えない。抗うことなど許されない。生温かい液体が喉を滑る。あの日と同じ――契約の時に飲んだ美酒と同じ味だ。口を閉じてもざらざらとした不快な感触が残っている。
「良い子です」
「ああ……うあああああ……」
刺激が、私を襲う。衝動が、私を更なる暴走へと駆り立てていく。
欲しい。奪いたい。私に足りないものを持っている全員が妬ましい。
奪わないと。もっともっと手に入れないと。
もう傷つきたくない。もう怖い目にあいたくない。
だから、奪う。自分を守るために。
傷だらけの腕が、月光に照らされて青白く光る。
細い、弱々しいこの腕で、私は何人も殺してしまった。だから救われるはずはない。だが、悪魔は何でも受け入れてくれる。罪人の私でも、愛してくれる。
認めて。愛して。
そんな汚泥のような欲望が、私の心を埋め尽くす。手をのばすと靄が杯を手に取り、また私の口にいれる。
ああ、苦い。錆びた鉄の味がする。それでも、飲むことを止められない。
これを飲めば力が手に入る。また、他人と関われる。だから、欲する。
「まだ……足りない」
「クク。まだ沢山ありますよ? 貴方が復讐を始めてからずっと溜めてきた犠牲が……ね」
淡々と悪魔は私の口にワインを入れ続ける。私から悉くを奪いながら、着実に私を堕としていく。
抗えない。泥に飲まれて、私は悪魔に全てを捧げると言ってしまった。あの契約の時から、私は普通の人間ではなくなった。
悪魔に憑かれた、狂気を纏った殺戮者。それが私だ。
「悪魔……私を救ってくれ……」
「私の名前を呼んで……ユートピア。どこにもない理想郷が、私の名」
「理想郷……それが名前……」
靄が晴れ、私とうり二つの顔が現れる。目は冷たい血の色。私と同じ、忌み嫌われる赤色。
姿は私とずいぶん違う。
貴族が着るようなシャツに、首にはレースをあしらったジャボが巻かれ、赤い宝石のブローチで止めてある。
その上から空色より少し青みのあるジャケットを羽織っている。髪は結っていて、黒のリボンでとめており、清楚な印象を与える。
この悪魔は、元々は貴族だったのだろうか。そんな私の戸惑いをよそに、彼は話を続ける。
「そう。奪えば理想の世界に近づく」
「奪えば……理想に……」
彼は、私を優しく抱きしめる。体温はなく冷たい。それでも、私は安心できた。
私の悲しみを受けとめてくれる人なんていなかったから。私は甘える。願いは届かないと分かっていても、赤子のように泣き続ける。
「ユートピア……どうして今まで出てきてくれなかったんだ」
「…………」
彼は答えない。ただ、微笑を浮かべて私を受けとめ続ける。彼の手が、そっと私の頭を撫でる。
「ああ……」
親に愛されたこともない。友達もいない。いつも生きることが苦痛で、他人が怖くて。檻の中で一人寂しく震えていた。
取り柄は魔術だけだった。術式だけは誰よりも上手になった。でも、それは実験のため。私を使って戦争で勝つため。
それを知ってからは、何もかもが怖かった。自分の存在が、ただ人を殺すためだけに使われる未来なんて想像したくなかった。
そして時は流れ――私は悪魔と契約し自分のために人を犠牲にすることを覚えたのだった。
*
「私は、貴方が手にできなかった可能性の姿」
貴族の家に生まれ、幸せなままで育つはずだった彼の姿。赤目は危険だというあの呪縛さえなければ、彼は苦しむこともなく、生活に困ることもなく、幸せな一生を過ごしていただろう。
「貴方が得るはずだった、未来の姿」
でも、そうはならなかった。彼は数々の暴力を受け、傷つき、何度も涙を流すことになった。
赤い目さえなければ、そんな苦痛は受けずにすんだというのに。裕福な家のままで、多少の困難はあったとしてもここまでひどい仕打ちを受けることはなかったのに。
「私は貴方を愛したい。愛して、愛して、私だけを求めて欲しい」
私は彼と融合した一つの存在。契約を交わしたときから、彼の思いを聞き、願いを叶えようとしてきた。
「それでも、貴方は私から離れようとする。わざわざ傷ついて、壊れて、もがき続ける」
術はかけ直したが、最近どんどん私に頼る機会が減っている。私は悪意を食らわねば生きていけない。いざとなれば契約を切らねばならないかもしれない。
私は三千年間、彼と共に時を過ごしてきたというのに。そんなに外界の人間が気に入ったのだろうか。私はもう必要とされないのだろうか。
「貴方が奪えば私は一緒にいられるのに。貴方を知り尽くした私が、慰めることが出来るのに」
「どうして理解もしない者と関わろうとするのでしょう? 私には、それが分からない」
バイオリンを手に取り、奏でる。
弦と弓が互いに協力しあい、魅惑的な音がこぼれる。
ああ、こんな関係に戻ることは不可能なのだろうか。
互いに満たし合う。片方の善意ではなく、双方の利益のために関係を持つ。それが一番理想的なのに。
なぜ、彼は人間の善意に身を預けようとしているのだろう。私がもしも人間ならば、簡単に解ける問いなのだろうか。
「……私は貴方を愛したい。貴方を心から愛している」
美しい寝顔。その耳にそっと息を吹きかける。
それに対して、私の顔は酷いものだ。
彼には幻影を見せたが、今の私はとても醜い。
こんな姿を見せたらきっと嫌われてしまうだろう。
「失いたくない……絶対に。強さを手に入れて。全員潰して、食らって……私から離れないで」
赤い雫が、彼の頬にぽたりと落ちる。それが自分のせいなのだと、自分が涙を流しているのだと分かるのには少し時間がかかった。
私は人間ではない。なのに、どうして涙が流れるのだろう。息を吸うのが苦しい。これが、悲しみというものなのだろうか。
「私を求めてくれた貴方とまだ、永遠を味わっていたい」
「奪うことしか出来ない私を、貴方は求めてくれた」
真っ暗な場所にいた私を、呼んでくれたから。
私に、存在する意味を与えてくれたから。
「だから……私を見棄てないで」
私は、悪意から生まれた。一番最初に聞いたのは、歓声だった。
生まれた時点では何も分からなかったが、段々と理解した。
同時に、怒りと恐怖が私を支配した。
軍の悍ましい実験。それに私は招かれたのだ。
私は契約の前のある日の事を思い出していた。
ジャボというのは首に巻くネクタイのひらひら版です。17世紀~使われていたようで、今でもアニメなどにたまに出ます。




