#22 溢れる思い
微睡みの中で、私は理想に手を伸ばす。温かな食卓。笑い声の元に、私は走る。
「母さん、父さん!」
「あら、スィエル! 帰ってきたのね。今日はもう遅いからご飯を食べたら寝なさい」
「そうだぞ。明日はお前の誕生日なんだからな。明日は早く起きて、一日を楽しむんだ」
「うん! ありがとう!」
手にできなかった可能性の欠片。私は自分の誕生日を知らない。だから、この夢がいつなのか分からない。
知りたい。色々なことを。私が体験できなかったことを。でも、それは叶わない。三千年前、私は全てを誤ったからだ。
肩を叩かれ、眠りから目を覚ます。目に映るのは、理想から遠く離れた、悪意渦巻く世界だ。
「おはよう」
私とそっくりの顔が朝を知らせる。また、自分は玉座で眠ってしまっていたらしい。そのせいで全身が痛むが、痛みを気にするよりも優先すべきことがある。
私は、ぬるくなった葡萄酒を口に含み、喉を潤してから、話を始める。
「……ヴェリテか。昨日はどこに行っていた?」
「ごめん、兄さん。僕の居場所はモニターで分かるはずだけど?」
「ああ。南の方まで飛んで青目の子供と接触したのは確認したが」
「でも、あの子は兄さんを愛してくれるって」
どうでもいい。子供だからといって、信用できるものでもない。あの孤児院では、子供も大人もただ一人を除いて全員が私を拒絶した。信頼できない者をやすやすと信じられるほど、私は心を許していない。
「考えておこう」
ただそれだけの言葉を返し、彼の報告を打ち切る。私の目がよほど冷ややかだったのだろう。ヴェリテの喉が僅かに動く。
「セーツェン領主レグルス・ベルガから通信が入った。まだ通信に留まっているが、居場所を突き止められればここが戦場になることもあり得るだろう」
「戦場に……嫌だよ。ここで戦いたくないよ」
「戯れ言を……半端な気持ちなら私の前に立つな!!」
ワイングラスを持ち、それを握り潰す。ガラスの欠片が、輝きを放ちながら宙に舞う。それをぼんやりと眺め、ヴェリテの方に向き直る。
「私は虚しく果てるつもりはない。復讐を果たし、そして……」
「そしてどうするの? 認められたいんでしょ? 愛して欲しいんでしょ? なら……」
「黙れ」
私の口から憎悪を含んだ声が漏れる。しかし、彼の喋りは止まらない。声は震えているが、決意は確かだ。それが余計に私を苦しめる。
「嫌だ。だって兄さんはいつも泣いてるじゃないか。僕達知ってるんだよ? 兄さんはいつも僕達に何か隠してる。悪魔と一緒に何か話しているって」
「私は……」
答えられない。口を開けても、答えが出てこない。言いたい言葉はあるというのに、喉につっかえて出てこないのだ。
「ねえ、兄さん。苦しむのはもう止めようよ。皆もこの前すごく心配してたんだよ。どうしたの? そんなに僕達が信用ならないの?」
「……違う」
「ならどうして?」
「あの悪魔は私の事を全部知っている。私が望むものを全部、満たしてくれる」
力を願えば魔力が得られる。寂しさを紛らわせたかったら夢が見られる。悪魔を頼れば、何でも叶う。
「それで兄さんは満足なの? 兄さんが泣くぐらい犠牲を払って、それでも余りあるぐらいなの?」
私が復讐する意味――それを失えば、私の存在意義は無に等しくなる。それは、死と何も変わらない。何度も見てきた、無意味なモノと変わらない。
それは……とても怖い。手足が震える。動悸が収まらない。冷や汗が止まらない。
怖い。あの地獄の日々でも、存在に意味はあった。だから生かされていた。しかし、それさえも否定されてしまうなら、私が苦しみながら過ごした三千年間。あれは一体何だというのだ。
「いい加減にしてくれ!!」
あまりにも苦しくて、私は叫び、玉座から立ち上がった。怖い。逃げたい。辞めたい。辛い。この負の感情は一体何なのだろう。
呼吸が乱れる。足がふらつく。酷いめまいがする。「お前に価値はない」そう言われている気がして。愛しい我が子のような存在のヴェリテが、今では化け物に見えてしまう。
「ほら、また叫んだ。兄さんは気付いていないの? 兄さんに手をのばそうとする人はいっぱいいるんだよ? 自分で振り払ってどうするの……」
人間の善意を、この心は求めているはずなのに。なのに、それを拒もうとする自分がいるのだ。それを受け取りたくないと思ってしまうのだ。
これ以上、人間の気持ちを知ったら――私は、怪物ではなくなるような気がするのだ。この冷酷な殺しは、怪物だからできる事。命を奪うことを躊躇えば、当然復讐など出来はしない。
自分で、自分を許せない。自身を罰し、自身を痛めつける。
人間の愛など不要だと、自分の首を絞めるのだ。
だから、許しを求めながら――許しを恐れている。
「ああ……悪魔……私を……」
震える右腕を左手で掴み、無我夢中で悪魔を呼び出す。靄が小さな体を乱暴に跳ね飛ばし、床に打ち付ける。
「兄さん!!」
ヴェリテは立ち上がってこちらへと走ってくるが、悪魔がそれを許さない。いばらのようなものを生成し、小さな体を薙ぎ払う。
「この話の記憶は奪っておきましょう。尾を引くと後々面倒ですし。他のレムナント達にも服従するようにもう一度術をかけておく必要がありそうですね」
「うぐっ……ああ……痛い……痛いよ兄さん!!」
「邪魔です。スィエルから離れなさい」
悪魔の冷酷な命令によって、ヴェリテがよろめきながらも扉に行き着き、深紅の間から姿を消す。
悪魔の声は彼には届かないはずだが、何らかの方法で彼の意識に干渉したのだろう。扉が完全に閉まったことを確認してから、私は口を開く。
「助かったよ」
「全く、まさかあそこまで反抗するとは」
私は他人と関わる事を恐れている。だから、私は悪魔からの愛を享受する。だから、悪魔に私は懇願する。
――いつまでも、自分が怪物でいられるように。
「悪魔……私を……満たしてくれ」
「ふふっ……相変わらず甘えん坊なところは変わりませんね。いいでしょう。貴方はとても、疲れているようですから」
「ああ……ありがとう」
「私だけが貴方の全てを知っている」
ゆっくりと、糸を引かれるように思考が狂気に呑みこまれていく。今まで何度も繰り返した過ちを、私は今日も続ける。
「貴方の過去も、思いも、全て理解できる」
食らう。彼から渡されるモノを余さず手にする。欲望のままに、全てを貪る。それ以外の事を私がしたなら、悪魔は必ず私を縛りあげるだろう。
「今日も辛かったでしょう? いっぱい傷ついたでしょう? でも、私がそれを全て引き受ける」
犠牲を固めた赤い宝石を、靄で出来た手に乗せる。靄は一瞬で宝石を飲み込む。その元が誰なのか、など悪魔はお構いなしだ。
「だから、邪魔者は全員潰してしまえばいい」
膨大な力が私の体に入り込む。嫌なことも、怖いことも壊せる程の、力が。自分が、自分ではなくなっていく。自分が、壊れていく。いや、もう私は壊れているのだろうか。
命を奪っても、何も感じない。誰を憎みたいのかも分からない。膨大な年数を生きて、自分は何をしたかったのだろう。泥沼に浸かる私の思考を、悪魔は嘲笑う。
「壊しましょう? 狂いましょう? そうすれば貴方は苦しまない……私だけのモノになれば……ね」
「もっと……私に力を」
もう十分貰っているはずだ。だが、力のために正常な思考が働かない。喉は渇き、手は宙を仰ぎ続ける。
「ええ、勿論。貴方のため……これは全部、貴方のため。だから、他のことは何も考えなくていい」
「私の……ため……」
対象を特定することで、上手く心をコントロールする。そんなやり方に何度も騙されてきたはずなのに、私の弱った意志は彼が張り巡らした蜘蛛の糸に、まんまとかかる。
「そう。だから……道徳も、正義も全て捨ててしまいましょう」
断れない。断れば、悪魔は残忍な笑みを浮かべて私の命を余さず味わうだろう。
私は小さく頷く。靄で作られた手が、私の視界を塞ぐ。
「何も見なくていい。貴方はただ、私に尽くすだけでいい……貴方が願った愛は、私が幾らでも与えられるのだから」
奪うだけ。私がすること、しなければならないことはただそれだけ。
「貴方は私のためだけに。私は貴方のためだけに……お互い尽くし、欲望に溺れましょう……?」




