#19 荒野への道
「スィエル、起きなよ! 寝坊しちゃうよ!」
「んん……まだあともうちょっと……」
「もう! スィエルは甘えんぼさんだなー……遅れたらいっぱい怒られちゃうよ?」
懐かしい夢を見ていた。閉じ込められていた三千年間、何度も聞いた声。その主は前まではっきりと思い出せていたはずなのに、今ではよく浮かばない。
ゆっくりと瞼を開く。幸せな記憶のかわりに、昨日の激闘の記憶が段々と浮かび上がってくる。
「……またか」
私の意識は、悪魔に乗っ取られていたのだろう。いつもなら責め立てるところだが、昨日は瀕死の状態だったため、悪魔の判断は悔しいが適当だったと言うしかない。
人が憎い。世界が憎い。自分も憎く、そして醜い。他人を目の前にすると、怖くて喋れない。そんな呪いのような現象の原因は容易に説明がつく。
あの孤児院だ。それが私を壊した。頭の中に浮かんでくるのは、幼き私の地獄のような日々だ。
私の居場所というものは、檻で囲われた部屋だけだった。どれだけ体を鍛えても、その障壁が壊れることはなかった。
「これを見ればきっと上層部も喜ぶわ……もっと苦しみなさいよ……全く、赤目をここまで躾けているのも、私達ぐらいのものじゃないかしら」
「……やめて」
「はは……可笑しいわ。やめろですって? この子何を言っているのかしら。自分の立ち位置ぐらい分からないの?」
毎日が苦痛だった。叩かれ、蹴られ、縛られ。口を開けばそんな仕打ちが待っていた。口を開いて良かったのは、術式を唱えるときだけ。監視下に置かれた私には自由というものはどこにも存在しなかった。
「痛い」
そんな言葉を吐いたときには容赦がなかった。痛いのは当たり前。苦しいのも当たり前。
だって私は醜いから。赤目だから。赤目には当然の仕打ちだと、体に叩き込まれた。大人は兵役で命を散らし、子供は人体実験の犠牲になる。国のためだと言われても、私達はそのことを喜ぶことはなかった。
「おい、こいつ弱ってるぞ」
「フン……起きろよ。まだ生きてんだろ? 生かしてやってんだからいい加減甘えんなよ」
「……ごめんなさい。起きます」
起きれば日が暮れると思われる時間まで術式の勉強。与えられたのは固まった黒パンと僅かな冷えたミルク。それが私の一日の食事。
私は優秀だと言われても、大して喜ばなかった。優秀だろうが劣等だろうが、私は嫌われる。
「またあの子が首位?いい気味ね」
「だって勉強以外にやることもないもの。トップにもなれるわ」
感情もいつの間にか失った。笑えなくなって、泣けなくなった。ただ無を感じたまま、いつも檻の隅でうずくまっていた。夜になれば明かりもない。僅かな油に自分の魔力を振り絞って火をつけることが精一杯だった。
「最近は暴れなくなったな……そうだよ。大人しくしときゃいいんだよ」
「お前が喚いたところで何にも変わらねぇんだから」
「……」
数多くの感情を失った中で、憎しみだけは強く心の中に残り続けた。それはやがて私が生きる原動力になり、「いつか見返してやる」そう思いながら、日々を過ごしていた。
虐げられた人間が、叫ぶことは間違いなのだろうか。弱者は弱者であり続けねばならないのだろうか。
悪魔に出会っていなければ、どうなっていたのだろう。私はあの檻から出られぬまま、一生を過ごしていたのだろうか。
頭を振って、思考を捨てる。
孤児院の中で、私に手を伸ばしてくれた人。それが分からない。思い出せない。あまりのショックで、私の記憶は曖昧なのだ。
でも、一つだけ思い出せることがある。
「スィエル、大丈夫だよ!」
そう。ただ一人だけ、私の名前を呼んでくれたのだ。とびきりの笑顔で、私を励ましてくれた。胸がずきりと痛む。
今の私の周りは敵ばかりだ。私を理解しない者ばかりが増え続け、私を囲んでいく。あの人だけは私の肩を持ってくれるだろうか。それとも、殺人鬼になった私を哀れむだろうか。
もう、三千年も前のことだ。会えないのは分かっている。私のような化け物に、彼はなっていない。それでも、私はこの思いを抑えられそうになかった。
涙がこぼれる。一滴、二滴と、私の頬を透明な雫がゆっくりと流れる。拭っても、拭っても、それは止まらない。
この城では何もかもが自由だ。泣いてもいい。暴れてもいい。だが、自由である代わりに、誰も居ない。
自由が欲しい。そのために力を願った。私が苦しんだ世界を壊したくて、悪魔に願った。それなのに、今は自由が怖い。
ふと、胸ポケットに挟まっている小さなメモに目がいった。そういえば、あの老夫婦に何か最後に渡されたような――。
丁寧に畳まれた紙をゆっくりと開く。
《北の荒野、フィラレス。そこに娘は連れて行かれたんだ。だから、もしも貴方の気が変わったなら是非そこを訪れてみて欲しい。もう一度、会えることを願っているよ》
「フィラレス……そこに行けば……」
よろよろと立ち上がる私を、黒い靄が制する。また、私のゆく道を拒むのだろうか。
「悪魔、邪魔をしないでくれ」
「まずはこれを。話はそれからです」
私の前に一枚の透明な水晶板が現れる。それに映し出されたのは、赤目の人間が今置かれている凄惨な現場だった。
肉体労働、人身売買、その他見るに堪えない映像が続いた。私はまばたきをすることも忘れ、呆然とそれを眺め続けた。
「な……これは……どういう事だ」
「これが、赤目の人々が置かれている現実です。貴方が描く夢とは全く違うでしょう?」
どうしようもない怒りが、沸々と湧き上がってくる。抑えられない怒りが爆発し、私は叫ぶ。
「ここまで酷いとは思わなかった。なんだこれは……三千年前と何も変わらないじゃないか!!」
固く握った拳を、玉座に叩きつける。僅かな震動が、城の中に響く。
「そう。何も変わっていないんですよ。貴方が眠っていた三千年で故郷は元の姿を取り戻した……そういうことです」
「巫山戯るな……巫山戯るな!!」
忘れかけていた憎しみが、沸々と湧き上がってくる。普段は冷たい私の四肢も怒りの炎に焼かれたためか、僅かに熱を帯びている。どうして、わかってもらえないのだろう。
赤目の人間が一体何をしたというのか。こんなに酷い事をして、何故平気でいられるのか。悔しくて、歯がゆくて、泣きたくて。
喉の奥から嗚咽が漏れる。呼吸が苦しくなり、私の手が宙を仰ぐ。悪魔の手が優しく私の背中をさするが、悲しみのあまり涙がこぼれ落ちる。
「貴方の願いは、未だに叶わないまま。赤目の人間は虐げられ、他の人々はそれを嗤い合う……」
私は、こんな世界に憧れて三千年もこの孤城で耐えてきたわけではなかった。私は殺人鬼だと忌まれようとも、他の赤目の人々にとっては暮らしやすくなっているだろうと。そう、希望を持っていた。
だというのに、現状はこの有様だ。何年経とうとも、赤目の人間は冷たい目で見られる。
「スィエル、貴方は優しい。だからそんなに涙を流せる。人を信じているから、貴方は悲しむことができる……でも、よく考えてください。貴方をここまで苦しめたのは誰だったのかを」
「私を苦しめた……人……」
「貴方に涙を流させた人は、貴方に消えない傷を残したのは、貴方を裏切ったのは、誰だったのか。もう一度思い出して」
私の腕に、喉に、胸に、足に消えない傷を残したのも、裏切ったのも、全部赤目以外の人間だ。涙を袖で拭い、顔を上げると、微笑む悪魔の目に囚われる。
「赤目の人々は、救いましょう。放っておけないんでしょう? 貴方はとても優しい心の持ち主ですからね。でも、それ以外は要らない。全員殺しても、何も問題はない。だって、生きていても貴方を苦しめるだけなんですから」
「あ……あぁ……」
「貴方を苦しめる人間は、全員倒してしまえばいい。サァ、今日も復讐を。赤目の人々の元に出かけるのは準備をしてからにしましょう」
本当ならば、一刻も早く駆けつけたかった。だが、状況も分からないまま行動を起こしても、最悪殺される。赤目の人々に警戒されないとも限らない。
今の私にできる事は、復讐をする事だ。それしかできない自分が情けないが、私は戦う術しか知らないのだから。