#18 開かぬ心
爆風に耐えながら、リーベはある可能性を否定していた。彼が生きているという可能性である。
彼は、大軍をたった一人で相手し、街を燃やし尽くした。その伝承の内容が頭をよぎったためにそんな事を考えたのだ。
よもや――それが本当になるとは。
彼の体が数十メートル先に、転がっていた。
光沢のある流れるような銀髪は泥に汚れ、服にも泥や血が付いているのが見える。だが、人間であれば消し炭になるレベルの火力を、彼は受けきった。
「これでも足りないか……」
リーベは追撃を加えようと、風術の詠唱を試みた。だが、体が言うことを聞かない。大規模な術式を使ったことによる、体の疲労とリソースの不足が原因だ。
上に待機していた銀竜も、リソースの不足や爆風による損傷で先に撤退するという連絡が入った。
アルトからの通信も、あれから繋がらないままになっている。
「く……はは……驚いたな。いつの間にそんなものを用意したんだい? 竜を持つなんてなかなかできない芸当だと思うのだけど」
亡霊のようにゆらりと立ち上がった男――スィエルは、額から大量の血を零しながら笑う。髪は乱れ、頬にも血がべたりとついているが、目の奥には静かな意志が燃えている。
「何故……貴様、一体何の術式を使ったんだ」
「さぁ、君たちに教えたところで真似はできないよ。悪魔と契約する必要があるからね」
「まさか、悪魔を身代わりに……?」
だが、スィエルは微笑みを見せるだけだ。こちらの質問を飄々と受け流す。
「リソースも殆どなし、か。この場の回復は難しいだろうな。私はもう戦う気はないが、君達はどうだろう」
「仕方がありません。撤退します。……ただ、一つ聞かせてください」
「ああ、構わないよ」
もう、空には月が昇っていた。青白い光が、彼の顔を仄かに照らす。湖から発せられる微かな波の音がリーベの緊張を幾らかほぐしていく。
「貴方は、殺して殺して血を浴びた後に、どんな世界を望むのです?」
「……世界?」
「ええ。貴方個人の望みは聞きました。貴方以外の世界はどうなるのです?」
「……知らないよ。赤目の人間以外は別にどうなろうが構わない。私は愛されたいだけなのだから」
その声は酷く冷めていた。本当に関心がないのか、吐き捨てるように彼は続ける。
「私は復讐したいと悪魔に願った。それによって得た力は膨大なものだった。退屈な毎日さ。酒に溺れ、犠牲を喰らい、毎日生き延びてきた。愛されたくて、認めて欲しくて、安寧を棄てた。ただ一人震えたところで、何にもなりやしない」
「……それで、この街に?」
「そういうことだ」
くるりと踵を返し、彼は俯きながら前に歩を進める。血まみれの漆黒の外套が、風に揺れてゆらめく。その背中は、なんだかとても小さくて。自信がなく、弱々しくて。
「待って」
たまらず、リーベは声をかけた。振り返った彼の緋色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見据える。その瞳を見て、ああ、やっぱりと思った。彼は飢えている。幾ら手を伸ばせども届かない温かさに。幾ら願えども与えられない愛に。
「奪っても、貴方は何も得られない。愛されることもない」
「……なら、どうしろと」
「貴方を助けた人を大事にする事。貴方は知らない。人の温かさを。人の思いを知らないまま。だから、奪いたくなる。壊したくなる。目の前に貴方が欲しいものはあるのに、貴方はそれを認識できずにいる」
スィエルの瞳が僅かに見開かれる。驚きと、困惑。そして不安が混ざり合ったような目をしている。この青年は力という堅い鎧で自分を守っているだけで、中身は幼いのだ。だが、その孤独を他の人に悟らせることはない。
なぜなら、弱さを知られては自分が傷つくことを知っているから。だから、怯える心を精一杯隠している。自分が傷つかないように、自分を隠している。怖いのに、怖くないと。そう、自分を騙しながら。
「……目の前に……あるだと?」
「愛を得るのに、人を殺す必要はない。だから……」
少しずつ、足を進める。彼の思いに寄り添いたい。何故か、そんな願いのようなものがリーベの心の中に芽生えていた。あと数歩で彼の元に届きそうになった、その時だった。
「来るな!!」
絶叫と共に、地面から氷の柱が数十本伸び上がり、リーベの前に立ち塞がった。
彼の血色の瞳には恐怖がありありと浮かんでいた。歩み寄るものを全て拒絶してしまうこの氷の柱こそ、彼の本当の心を表しているのだろう。彼は求めていながら、怖がっている。誰かを受け入れてしまうことに震えている。
喉をがしっと掴み、スィエルは喘ぐ。叫ばないように、自分の喉を絞めているのだ。喉の奥から絞り出される彼のうめき声。とても苦しそうなのに、リーベは動くことができない。この感じは覚えがある。初めて会ったとき、彼が行った束縛に――。
「あ……うあ……」
スィエルの体から幾つもの闇の帯が吹き出し、辺りを埋め尽くしていく。奇怪な笑い声に、むせかえるような血の臭い。そして、耳をつんざくような叫び声。
「嫌だ……私を……傷つけるな!」
彼には私がどう見えているのだろうか。何に恐れているのだろうか。訳が分からないまま、スィエルは謎の闇に取り込まれていく。
「ああ……!」
彼の外套までもが闇色の靄に変わり、体をゆっくりと呑みこむ。彼も最初は抵抗していたが、段々と催眠術にでもかかったかのように目から意志が吸い取られ、靄に身を委ねていた。
闇が晴れ、そこには一人の男が立っていた。
肩に掛かる銀髪に、赤い瞳。それは変わらない。しかし、先程とは比べものにならないほどの殺気と憎悪が、彼の瞳の奥に渦巻いているのが見えた。殺したい。奪いたい。そんな黒い欲望が溢れ出す。
男は薄い笑みを浮かべたまま、氷の柱を全て粉々に破壊し、そのまま確かな足取りで近づいてきた。
『クククッ……初めまして。リーベ・ヴィローディア』
スィエルの声とは若干異なる音が、男の口から漏れる。好意的な挨拶であるはずなのに、男の言葉は酷く冷たく聞こえた。例えるならば、入念に研がれた短刀のような危うさ。
「なんだ貴様は……」
『そうですね……名ぐらいは告げておきましょうか』
静寂を切り裂くに足るだけの恐怖。徐々に開く口からは、何が放たれるのか。理由も分からないまま、ただ答えを待つ。
『私の名はユートピア。スィエル・キースに喚ばれた悪魔』
ニタリと笑うその口から、鮮血が数滴零れる。学校では耳が尖っていて、角が生えているものが悪魔だと習った。しかし、目の前にいる者は人間と何も変わらない。
「悪魔……」
『ええ。名前はそこまで重要でもないので覚えて貰わずとも結構ですが』
笑みを絶やさぬ悪魔の顔からは真意が全く読み取れない。ただ、影を掴むような感触だけがある。
「わざわざ出てきた理由は何なんだ」
『……貴方達があまりにも愚かしいので。全く、全員殺せと言ったのに、なかなか上手くいきませんね。人間など、食らう以外に何の意味があるのか』
「貴様! スィエルを利用して一体何を企んでいる……」
こちらの怒りをものともせず、悪魔は淡々と答え続ける。
『彼は復讐がしたい。私も、人間に対しては恨みがあります……目的は一致しているでしょう?』
「でもスィエルは……もう……」
彼は壊れてしまっている。心も、体もボロボロになりながら、彼はいつも復讐を続けている。それが、この悪魔の仕業だというのならば、一刻も早く彼をこの化け物から解放しなければ。リーベは短剣の柄に手を伸ばす。これを抜き取り、悪魔の喉元に突き立てれば――。
そこまで考えて、動くことができない。ぞっとするほど綺麗に悪魔が笑ったからだ。人間如きが何を考えているのか、と蔑むその目は、リーベの士気を簡単に削いだ。
『彼を救いたいなら、愛は与えないことです。憎み、叫び、嘆き狂う彼の姿を、私はまだ見ていたい。まだ、奪わなければ満足できません』
「お前は……さっきスィエルに何を見せたんだ」
『孤児院の時の記憶ですよ。辛い記憶を強制的に思い出させて、私に頼るように誘導しただけです。こうすれば簡単に彼は私を喚びますから』
「巫山戯るな……お前のせいで何人の人間が犠牲になったと思っている!」
『言ったでしょう? 私は人間に恨みがあると。百人でも、千人でも、私が満足するまで犠牲になればいい。人間の中でもスィエルは特別なんです。彼は私を愛してくれた。そして今も、彼は私を溺れるほどに愛している……だから、彼の願いを私は叶えるだけ。愛して、認めて、力を惜しみなく与えるだけ』
スィエル・キースという一人の男を愛し、愛し、愛に狂った悪魔。その愛情は、もはや守ると言うよりも束縛に近かった。こんな怪物に、彼はずっと囚われているのか。人々を殺して回っているのも、この悪魔にそそのかされた結果なのだろうか。
「お前が……お前が、スィエルにいつも言い聞かせているのか? 人々を殺せと。心の中の憎しみをぶつけろと……」
その瞬間、悪魔の微笑みが崩れた。後に続くのは嘲笑か、罵倒か、それともこの首を潰し、くびり殺すのが先か。そこまで考えたリーベの頭に、悪魔の小さなため息が飛び込む。
『ええ……そうです。記憶はねじ曲げる事ができても、心に残った傷は簡単にふさがりません。だから、私は復讐を勧めました。あの炎の夜に、絶望に打ちひしがれる我が主に。人間など殺してしまえと』
「でも、今は苦しんでいる。殺したくない、奪いたくないと……そう、彼の目が訴えているんだ」
『彼は、私と契約した。私のような化け物と契約してしまった。その事実はもう変わらない。殺したくない? 奪いたくない? そんな怠慢で、どれだけ仲間を失ったか。どれだけ身内を殺したか。あの地獄を、彼は忘れてしまったのでしょうね』
そこで、リーベは己の過ちに気づいた。この悪魔の内面を探ってしまったということを。この悪魔に、スィエルの叫びを伝えてしまったということを。
『ふふっ……そうですか。殺したくない、奪いたくない、と。ならばもっと残虐に、冷酷に塗り替えてあげましょうね、スィエル……貴方が忘れても、私はずっとずっと覚えているんですから……』
哄笑と共に、男の姿は消え。
後には湖の微かな波の音だけが虚しく残っていた。




