#17 再戦の刻
太陽が地平線に沈む頃に、リーベは指定されたある場所に着いていた。
暗殺者である私に再び課された任務を遂行するためだ。後ろからは隊列を組んで重装備のヤード達が追っている。
水面に映える夕日は美しく、オレンジ色の揺らめく光を放ちながら今日の終わりを告げていく。
この湖、ノルティア湖は湖が多いセーツェンの中でもトップクラスに景色が綺麗なところだと知られている。そのため、ここを訪れる観光客も多いのだが、今日は不気味なことに誰もいない。
賑わっていた街も、最近では外出を恐れて皆が閉じこもってしまっているのだ。それも、全てスィエル・キースのせいである。
アルトの感は何故だか知らないが、恐ろしい程に当たるのだ。今日は時計塔の影の湖の方向に現れるだろうという予想だったので、その場所で待機していたのだが。
茂みから覗いて見える長身痩躯の立ち姿。枯れ木のようなその体は、風に吹かれれば今にも飛んでしまいそうな程に見えるが、間違いない。セーツェンで毎日のように続いている連続殺人事件の犯人。それが目の前にいる。
兵達が追いついたことを確認し、リーベは勢いよく茂みから飛び出す。それに対して、彼はチラリとこちらを見た。
「あの時の暗殺者……いや、リーベ・ヴィローディア。私に何の用だ?」
リーベは彼に対して名を名乗っていない。それなのに、なぜスィエルは何故こちらのことを知っているのか。リーベが問うより先に、彼は不敵な笑みを浮かべたまま、口を開いた。
「私には優秀な部下がいてね。一度戦った者は大体把握済みだ。君の情報も、もちろん入手している」
「やはり……量産していたのか」
「さて、どうだろうね」
相変わらず、感情が読めない。だが、この前会ったときよりは手応えがある。リーベは懐から短剣を引き抜き、剣先を僅かにスィエルの方へと向けた。彼はまだ笑ったままだ。なめているのか、細剣を抜こうともしない。
「スィエル・キース……今度こそ貴様を」
「殺す……か。懸賞金は?」
妹の事が一瞬頭をよぎる。彼もそれを知っているのだろう。僅かに口角を上げている。全く、悪魔のような男だ。
提案に乗りたいのはやまやまだが、この男は信頼できる人間ではない事ぐらいリーベは知っている。当然、首を縦には振らなかった。
「……必要ない。貴様以外にも対象は多くいる」
「残念だね。私を捕らえれば、妹も救えるだろうに」
「そんな取引に乗るか!」
思わず、リーベは叫んだ。どうせ、捕らえたところで何らかの方法で逃げ出すのがこの男だ。何がおかしいのか、スィエルは傷だらけの喉を鳴らす。
「ああ、そう。ここで死ぬ気か。まぁ、赤目以外は全員容赦しない……血でも肉でもばら撒いて、悪魔の贄になればいい」
顔色一つ変えぬまま、彼は冷たく答える。目の奥の光が一瞬で消え、あとに残るのは研がれた刃のような殺意だけだ。だが、ここで怯むわけにはいかない。
「簡単に殺されるものか」
全速力で駆け出し、距離を詰める。風がリーベの全身を叩くが、構わず突進を続ける。首元に剣先が届きそうになったところでようやくスィエルが動きを見せた。左腕が鞭のようにしなり、リーベの動きを拘束する。
「へぇ……この前よりは突っ込んでくるじゃないか」
短剣を持つ右手首に絡みついた、スィエルの冷えた左手を乱暴に解く。いつの間に仕込んだのか、氷の刃がリーベの手のひらに突き刺さり、傷口からは血が流れ出す。
「戯れ言もここまでだ。援軍も用意している」
「面白い。今日は犠牲が大量に必要でね……悪魔が欲しがっているんだ。全員、敵にしてでも奪う」
血に飢えた獣が、漆黒の細剣を引き抜く。刀身は闇に溶け込んでおり、よく見えない。しかし、驚くのはそこからだった。スィエルの周りに黄緑色の光点が描き出されたかと思うと、光点が爆発し、一瞬で彼の姿が消えてしまったのだ。
黒衣の男を見失ったリーベは懸命に探すが、その努力は報われることなく。兵士たちの身体が鈍い音と鮮血を散らしながら飛び、湖の中に消えていく。
「くぅっ……!」
「ふふっ……遅すぎるね」
強烈な殴打と、軽やかな剣裁きが兵士達を容赦なく裁く。絶叫を笑い、懇願を蹴りながら、彼は暴走を続ける。
彼は数十人を相手していた。それにもかかわらず、ほぼ無傷の状態なのだ。それがどれだけの実力を持っているのかを克明に示していた。
大量の剣が辺り一帯に散らばるが、それらを手にする者はもういない。全員目の前の男が殺してしまったからだ。
全身を紅に染めた男は、満足げに頷きながら剣を収める。その頬や髪には、大量の血がついている。
「用意した駒が全員犠牲になった気分は?」
酷薄な笑みを浮かべたまま、ゆっくりと化け物が近づいてくる。黒衣が闇に包まれ、輝きのある銀髪がゆらりと波打つ。殺気が徐々に膨らんでいくのを、肌で感じる。
「なぜ……貴様は目覚めたんだ」
リーベの問いに、スィエルの左眉がピクリと動く。何かを言いかけて口をつぐむ彼の動作に、リーベは苛ついた。一体この場に及んで何を隠しているというのか。
リーベの興奮とは反対に、スィエルの反応は冷ややかだった。最初に出会った時と同じようなガラス玉のような瞳で、彼はこちらを見下ろす。
「愛されたい。認められたい。ただそれだけの目的のためだ。そのために、私を拒絶する全てを排する」
「なんて身勝手な」
それはリーベが抱いた正直な感想だった。命を弄び、人をただ食らう対象としか思っていない者が、愛されたいとは。ただ、続いた言葉は予想だにしなかった言葉だった。
「私が二十一年間、あのような地獄の苦しみを味わわなければ、ここまで無意味な死もなかっただろうね」
「地獄の……二十一年間……?」
呆然とするリーベに、スィエルは更に語り始める。
「ああ、そうだよ。私はずっと虐げられていた。将来は兵器にする予定だったらしいけれど。命令通りに忠実に動く、殺戮兵器……それが私の運命だった」
「人間を……兵器に……?」
そんな話は聞いたことがない。伝承で聞いたことがあるのは、孤児院で虐げられていたこと。そして街を燃やし尽くして、魔術師を贄にして封印をしたことだけだ。
「全部私が壊したよ。その計画も、私が閉じ込められていた孤児院も、全て。だから、私の元には何も残らなかった」
その瞳の奥に、僅かな悲しみが見えたような気がしたのは気のせいなのだろうか。気のせいだ、とリーベは自分を否定する。何人も斬って笑えるこの化け物に、感情などあるはずがない、と。
「そんなのは嘘でしょう?」
「嘘……か。そうだね、君達は自分の罪を知らない。だからそんな残酷な答えを私に突きつける事ができる。でも、どれだけ君達が忘れたところで、私は憎しみを忘れない」
彼は軍帽のつばを持ち、ゆっくりと目下の位置まで下げる。そして、一歩一歩とリーベの方へと歩み寄ってきた。しかし、逃げようと思っても、普通ならば簡単に動かせるはずの手足が全く動かない。
それどころか、足元に靄のような何かが絡みついている。この靄のせいで動きが縛られているのだ。抵抗する事もできないまま、リーベの首に傷だらけの右腕が蛇のように巻き付く。それに加えて、スィエルの左手の爪が首に強く食い込む。
「だから、私は苦しんでほしい。私が受けた苦しみを。赤目の人間が受けた屈辱を味わってほしい。もっと色んな人に復讐して、分かってもらいたい」
「離……せ……!!」
しかし、彼は力を緩めるどころか更に強く締め始める。メキメキと嫌な音が、リーベの首から発せられる。恐ろしい握力だ。
「この程度で終わるわけがないだろう? 私に恐怖を見せてくれ。いつもすぐに殺しているから、あまりこうして楽しめることもなくてね」
「が……あっ……」
左手で細剣を引き抜き、彼は首にいたずらに当て始める。剣は少しずつ首に食い込み、細い血管を裂いていく。スィエルの唇がリーベの耳に近づき、熱い吐息が直接伝わる。
だが、そんな事に心を奪われている場合ではない。彼の狙いはこちらを惑わせる事ではなく殺すことなのだから。そんなことは分かっているのに、全身が氷のように固まって精神的にも物理的にも動かない。
「痛……い……」
最早、叫ぶ気力もないまま、彼に遊ばれ続けていたその時だ。
『雷術大規模術式を行使しろ』
私が持っていた通信機から、男の声が響いた。
「何をやっている、リーベ! 今すぐ私が渡した術式の行使を始めろ!! でないと、お前まで消し炭になるぞ!」
「馬鹿な……! チッ……流石に巫山戯すぎたか……」
苦虫をかみつぶしたように顔を歪ませながら、私の首から素早く手を離し、後ろに大きく飛ぶ。
しかし、その程度では避けることは不可能だ。彼もそれを察知したのだろう。急いで術式を展開し、対抗しようとしている。
私も、術式のメモをポケットから取り出し、慌てて詠唱を始める。羊皮紙に書かれた単語は見慣れないものばかりで本当にあっているのかと不安になるが、つっかえながらも詠唱を進める。
詠唱が完了しかけたところで、銀龍の口から光の帯が吐き出される。彼が兵達を殺した結果、空気中にリソースが放たれ、大規模術式が行使できる十分な量が確保できたのだ。
無数の光の雨が闇を貫くのを、私は目にした。これ程の魔力の雷術を受ければ彼も耐えられるはずがない。
閃光が辺り一面を輝かせた数瞬の後、轟音が大地を揺るがした。