#15 温かな日常
微睡みが解け、ゆっくりと暗闇が裂けていく。闇の向こうにあったのは、暖かな光に照らされた丸太で出来た壁だった。
いや、今私は寝かされているらしい。となると、この壁は天井という訳だ。
暖炉の中では温かな炎がパチパチと燃えている。私の上には毛布が掛けられ、私の額には、何か冷たいモノが貼られている。気にはなったが、気持ちが良いのでそのままにしておくことにする。
「ここは……どこだ?」
頭だけを僅かに動かし、辺りを見回す。自分がいつも籠もっている城ではないことは確かだ。こんなに簡素な作りではないし、ベッドも、もう少し広めだ。私の身長に足りてないのか、足が少し台から飛び出している。
そういえば、剣はどこにあるのだろうか。いつも肌身離さず持っているが、見当たらない。
ふと目をやると、漆黒の細剣が鞘に収まった形でかけられていた。私は身を起こそうとして、あまりの痛みに顔をしかめた。
「ッ……」
ああ、そうだ。思い出した。私は昨日何処とも知らぬ所にいつの間にか入り込んでしまい、歩いている途中で気を失ってしまったのだった。
そうなると、ここでじっとしている訳にはいかない。すぐにでも城に戻らなければ。気を取り直して体を起こそうとした、その時。不意に、私を助けたと思われる人物と目が合った。
「おお、起きたぞ!」
「まぁ、本当ね……貴方、その目は……」
まずい。気づかれてしまった。今の私はほぼ体力も無いし、無防備の状態だ。ここで殺される事だけは避けたいが、私には抵抗する術はない。
恐怖のあまり目を瞑ったが、幾ら経っても私に刃が振り下ろされたり、殴られたりする事は無かった。
「凄く綺麗ね。貴方のその瞳、宝石みたい」
「え?」
今、何と言ったのだろう? 綺麗? 宝石? 馬鹿な。私はずっとこの目に苦しめられてきた。だからといって、抉ることも出来ない。そんな勇気は私にはなかった。
「赤目が……怖いとは思わないのか」
「ええ。全然怖くなんてありませんよ。こんなに透き通っている目も中々無いものねぇ」
私の顔に黒い瞳を寄せる老人は、子供のような好奇心を持った純粋な目をしていた。
嘘だ。だって私はずっと馬鹿にされてきた。信じられる訳がない。動揺する私を、温かな手が包む。
「あなた、この子かなり体が冷えてるわ」
「おや、夜に倒れてたから冷えてしまったのだろう。湯で温めたタオルを持ってくるよ」
「どうして……私を恐れない?」
ただ疑問だった。私はいつも避けられていた。それなのに、どうしてこの老夫婦は私を助けてくれたのだろう。もしかしたら殺されるかもしれないというのに、なぜ。
「倒れている人を見逃すわけにはいきませんわ。遠慮無くゆっくりしていきなさい。大分疲れているようだからね」
「……」
分からなかった。今までずっと悩んできた。戦って、血を流して、愛に焦がれて。でも、それでも分からなかった何かに、手を伸ばせそうな気がした。
「少しは落ち着いたかのう……では、朝ご飯としよう」
窓の外を見ると、空が少し明るくなっている。私は、乱れたシーツを綺麗に直してから、リビングに向かった。
*
「熱いから、気をつけて飲むんだ」
ほかほかと湯気を立てるカップの側に、バターが塗られたパンと、ジャムが入った瓶が置かれる。
少し硬めのパンを頬張る。自分でも気付いていなかったが、相当お腹が減っていたらしい。
「……美味しい」
「それは良かった。私達が育てた小麦で作ったのだよ」
普通の会話。日常の何でも無い、普通の日々。それさえも、幼少期の私は楽しめなかった。思い出そうと思っても、何もこんな出来事は浮かばない。
「傷といい、そんなに痩せ細っている体といい、一体何があったのか……ゆっくりでいいから、話してご覧なさい。私達は黙って聞いてあげよう」
「そうよ。少しでも良いから聞かせてくださいな」
どうするべきか考えたが、ここで黙るわけにもいかない。助けて貰ったのだから、名乗りぐらいはするべきだろう。私は固く結んだ口を僅かに緩ませ、開いた。
「私は……私の名はスィエル」
数秒の沈黙。その僅かな時間で、私は名を明かした事を後悔した。知らなければ恐怖に震える事もなかっただろうに。そんな事を考えた。
「スィエル・キースか。それで軍服を纏い、傷だらけに……貴方の名は知っているよ」
「あなたがあの……」
驚きに目を見開く老夫婦と、目を合わせる事はこれ以上耐えられそうになかった。目を背けたまま、話を続ける。
「……そう。私こそ、セーツェンの夜を脅かす復讐者。罪に狂い、世を嘆き、憎む者」
黒衣の袖を捲ると、痣や切り傷が目につく。どれも、孤児院で受けた傷だ。痛みはないが、心の奥深くまで入り込んだ傷が癒えることはないのだろう。例え、誰もが忘れたとしても。
「ずっと持っているのか。その傷は」
「ああ。ずっと、ずっと忘れずに」
誰に教えて貰ったわけでもないが、カップを皿に置き、一礼する。
「……私はここを去らねばならない。私を匿っていたと知れ渡れば、危害が及ぶ。それだけは避けたい」
「でもまだ無理に動いては……!」
「構わない。これぐらいであれば治療も可能だ」
小声で治癒術式を唱えると、みるみるうちに傷が塞がっていく。
「実は私の娘も赤目を持っていてね。もう何処に行ってしまったのか分からないんだ。私達がこんな所に住んでいるのも、娘を守るためだった。綺麗でとても礼儀正しい子だった。でも、とうとう目をつけられてしまってね……連れ去られてしまったのだ」
「愛情……」
それはどんなものなのだろう。愛情をかけられたことの無かった私は、問うてみたかった。しかし、渇いた喉からは、何も出てこない。口が虚しく動くだけで、声が発せられない。答えが目の前にあるような、そんな予感がするのに。手をぎゅっと押さえる。
「それは……辛いだろうな」
答えを求めようとする意志に反して、私の中では「どうしてここまで赤目の人間が傷つけられねばならないのだ」という憎悪が満ちていた。
「私は……あの子はもう生きていないだろうと思っている。娘は体が弱くてね。過酷な労働には耐えられない。だから、君は私にとっては英雄みたいな人物だ」
「英雄……?」
そんな名誉になるようなものではない。私は何人も復讐だと叫び、殺している。自分が生きるために。自分の憎しみを叩きつけるために。
私の苦しみを理解してもらい、愛されるために。
そんな人間が英雄など。私は笑おうとした。ふざけるな、とそう言いたかった。しかし、老夫婦の真剣な眼差しがそれを許さなかった。
「ああ。娘の分まで、声を上げて欲しいんだ。他にもこの状況を変えたいと思っている人は沢山いる。でも、力不足なんだ。頼む……あなたの力で、世界を変えてくれ」
「……やめろ」
私の手を握る皺の多い大きな手を振り払う。
「私は……スィエル。スィエル・キース。三千年間復讐を願い続けた殺戮者。だから……そんな希望に溢れた期待を私に抱かないでくれ。三千年前、私は狂った世界を破壊したいと思った。そして、街を火の海に変えた……あの地獄の中で、私は数え切れないほどの命を奪った」
でも、と続ける彼らを手で制す。これ以上、期待を寄せられても、私にできることは何もない。人を殺すことしかできない惨めな男に、夢が与えられるはずがない。
私にできることは、自分のために他者を犠牲にすることだけ。この手を血で濡らし、他に悪事に手を染める人を減らすだけ――。
私は細剣を腰に吊り、鞘から少し出したあとに、力任せに押し込む。キン、と乾いた澄んだ音は老夫婦の口を閉じさせ、私の心を冷やしていく。誰にも心を許さずに、孤独に戦い続ける。それが、私がこの街に舞い戻った意味なのだから。
こんな殺人鬼に、愛情を与えてはいけない。
人間になってはいけない。私は、冷酷な殺戮者なのだから。心の中に湧く感情を押し殺しながら、私は歯を強く噛む。
「私には、何もできない。無力な私を恨んでくれ。私は、褒められるべきでも、讃えられるべきでもない。憎まれ、恨まれて当然だ。それでも、この体は愛に飢えている。自分でも嫌になるんだ……この欲望を許してしまう自分が」
「……そうか。恨みはしないよ……貴方は、深い傷を負っているようだから。自分を信じることができないのも無理はない。だが……君を大事に思いたい人がいることも、忘れないでほしい」
「お腹もすくでしょうから、これを。くれぐれも気をつけて」
小さなメモと共に手渡されたジャムの瓶には、青いリボンが巻かれていた。メモを胸ポケットに入れ、瓶を大事に持ってから、転移するための術式を唱える。
「……ミシリス・ウォラーレ」
赤い光の向こうに、涙を浮かべた夫婦が、私に手を伸ばそうとする。しかし、届かない。夫婦の口が動くが、私には何を言っているのかもう伝わらない。
さようなら、と小さく呟いた私は、赤い光の奔流に徐々に吞まれていった。