#10 力の代償
-深夜 セーツェン西部辺境地帯-
涼しげな風が、私の頬をなでる。封印を破り、復讐を開始してから数日がたったが、こうして一人で歩いてみると本当に私は憎き故郷の地を踏んでいるのだと実感する。
私は長らくあの城に閉じ込められていたので、外界の様子というのは全てが新鮮だった。花の香り、虫の羽音、葉に乗った露がこぼれる様、星の輝き――。焦がれた外という世界は、辛く悲しいこともあれど、楽しかった。
外に出れば、何かと繋がっているような気がするのだ。その対象が人でなくても、私は本当に生きているのだと生を噛みしめることができていた。獄中にいたときは、生が無意味なものだと感じていた。だが、ここでは違う。例え憎き故郷の地であったとしても、外の世界に憧れていた私にとっては、新しい世界なのだ。
ふと、葉がこすれるような音が耳に入った。指をなめ、冷気で風の方向を確認するが、音がした方向に風は吹いていない。聞き間違いか、とも思ったが、敵襲の可能性も否定できない。一瞬迷った後に、私は木陰にいったん身を潜めることにした。
しばらくの沈黙。獣の唸り声が遠くで聞こえる。月光が森に差し込み、わずかに視界を照らす。
声が聞こえる。僅かに聞き取れる単語から推測するに、どうも私のことを探しているようだ。
ずっと隠れてこの場をやり過ごすべきか、それとも飛び出して挑発するか。私の選択は、後者だった。
あえて武器を持たずに平静を装う。私の居場所が分かったらしい。声に加えて金属音も聞こえるようになった。
「待て!!」
「……少年兵か」
私を呼び止めたその声は、ひどく幼く、そして声に張りがなかった。私が振り返ると、予想通り拳銃を私に照準を合わせて構えたまま、少年が震えていた。脂汗が額に滲み、震えは段々と大きくなっていく。
その後ろには、様子を窺う影が四つ。少年の仲間だろう。全員の目は、暗い赤に沈んでいる。
「銃を下ろせ。何にそこまで怯えている」
リーダー格の先頭の少年が左手を上げ、下ろす。それを確認した仲間達は、安全装置はそのままで揃って銃を下ろした。先頭の少年は、銃を懐に戻して話を始める。
「僕達は……貴方を殺すように命令されたんです。本当は学校に通う学生ですが。でも……僕達に許される事と言えば、戦いのための武器の扱い方や、兵器の操縦方法を学ぶことか、過酷な肉体労働で僅かな賃金を得る事かなんです。勉強なんて出来やしません」
あの赤目の災厄の話は、三千年たった今でも、暗い影をこんな面でも落とし続けているというのか。少々の驚きを悟られぬように隠しながら、私は更に問うた。
「それで?」
「僕達は貴方を殺すように命令されたんです。失敗すれば命はないとも言われました。ですが、貴方を殺したくなんてないんです……だって、貴方は赤目の人々のために社会に背いたんですから……」
「ただ、撃たばければ殺されるんだろう?」
「はい。それが怖くて……でも貴方も撃ちたくなくて」
「撃て」
「え……でも、撃ったら貴方は……」
少年達の顔が強ばる。撃たねば殺されると分かっていても、戸惑いは拭いきれていない。
「撃てと言っている。貴様らの覚悟はその程度か? 早くその引き金を引け」
少年達が目を半分ほど瞑りながら、精一杯の力でレバーを引く。五発の弾丸が一斉に火を噴き、私を喰らわんと襲い掛かる。だが。
「アドレビトクェ・オプリスク」
闇さえ食らう炎の壁が、闇夜を煌々と染め上げる。全ての弾がただの金属の塊と化し、地面に流れ落ちる。
「え……」
先程とは異なる意味合いを持った嘆息が漏れた。それもそうだろう。弾丸は私の体を貫通することなく、いや、体に触れもせずに、炎の壁に呑まれて溶けてしまったのだから。
「ヴァン・ラーミナ」
五枚の風の刃が、銃口を切断し、頬、腕、脚に切り傷を作る。少年達の顔が苦痛に歪む。
「私は誰にも負けない。それ相応の犠牲を払って、それ相応の力を手にした。私は悪魔になった。悪魔として街を焼いた。でも、焼き払ったところで期待し、胸躍らせたものは何も無かった……」
静寂が身をきりりと刺す。木々のさざめきが、微かに聞こえる。
「代わりにあったのは、壊れた街と、壊れた自分だけ。普通になりたい。普通の生活が送れたら。そんな細やかな望みは、未だに叶っていないのだな……」
暴力をぶつけ合っても、何も後には残らない。悲しみや憎しみ、恐れといった負の感情しか残らない。自分が傷つきたくないのは勿論だが、苦しみ悶えるような音を聞きたくないのも事実だ。
なのに、この体は犠牲を求めてやまない。いつも、何かに渇いている。
この子供達は敵だ。容赦をすれば殺される。こんな場所で、終わるわけにはいかない。
私が三千年間溜め込んできた憎悪は、この程度で収まるものではないのだから。
「君達は、私の敵側に属したんだったね……なら、奪っても文句はないか」
「貴方は……」
「赤目でも、敵なら容赦しないよ……その血を味わうまで、私は手を緩めない。悪魔――贄を喰らえ」
影から現れたもう一人の敵に、少年たちが驚く。恐怖のあまり動けないのか、唇は青ざめ、肌は血の気を失っている。だが、悪魔は止まらない。あっという間に五人の体を切り裂き、地べたを這いずり回って血を飲み込む。
「くくっ……悪くない味ですね。新鮮で、みずみずしい……」
「ひっ……体が……!」
「人を殺すということは、それなりの覚悟が必要なんだよ。だから、奪う覚悟もないまま撃つのは気に入らない」
私は凍術を連続で発動し、容赦のない攻撃を続ける。少年たちは応戦しようとするが、冷えた指は引き金まで届かない。
「うわ……うわああぁぁぁ!!」
「誰かの大事なものを奪うって事は痛みも、苦しみも存在する。それを続けて、私はこの復讐の機会をずっと待っていたんだ」
ああ、私は――堕ちた人間しか愛せない。それ以外には、同情など少しも湧かない。ただの、欲望を満たすための餌でしかない。
その傷の深さは、経験しないと分からないものだから。普通の人間は全てを奪われる事などない。だから、分からない。誰も、人間ではない私の気持ちなど、理解してくれない。
手のひらから、銃がこぼれ落ちる。ゆっくりと、膝の力が抜けていく。あんなに綺麗だった赤い目が、今では冷えた血の色に染まる。
本当はおぞましい光景であるはずなのに、私は身が震えるほどの感動に呑みこまれていた。近づいて、指先でそっと凍りついた子供の頬を撫でる。
呼吸さえ止まってしまった少年達。それを美しいと感じる自分がいた。
人間味を失ってしまった少年達。それを心の底から求めていた自分がいた。
人間ではない、化け物になってしまった私と、同じように彼らは死んだ。
私と同じように――彼らも、一緒に。
「ふふっ……あはっ……はははははっ……」
私は、少年達の亡骸を前に、狂い踊る。満たされない心という砂漠に、一滴の水を垂らしても、砂粒はすぐに水を飲み干してしまうというのに。私は、壊さなければ愛せない。
壊れて、狂って、暴れ回って――。何もかもを失わせた世界を呪うのだ。
ブーツに、血が跳ねる。私の髪は乱れ、頬を涙が伝う。誰にも理解できない思いを、私は叫ぶ。
「ああ……君たちには、私の孤独が分かるだろうか」
死んだ者に何を言っても言葉が返ってこないことは知っているのに、私は彼らへの言葉を紡ぎ続ける。私は短く息を吸い込み、木々のさざめきに負けない音量のテノールで歌い始めた。
――赤き星に、輝ける場所は一つとしてなく。瞳の内の望みは潰えた。
――果てなき道の終わりにあるものは、血塗られた故郷と、燃えさかる炎。
――ただ一人の男による厄災。後生に語られた狂人の姿。それを疑う者は、誰もいないまま。
「世界は変わらない……誰も、信じられない。なのに、なぜ私は孤独を理解してほしいと……私を分かってくれと思ってしまうのだろうな」
自嘲の笑いが、こぼれる。誰も、こんな化け物を愛そうとはしない。蔑み、嘲笑い、のけ者にする。それが普通だろう。私は、人を数え切れないほど殺した。殺し、殺し、その血を飲み干して生きてきた。
なのに、私は愛を求めている。飢えた身体を満たしたいとそう思っている。ぬくもりを感じたい。この深い傷を癒やしてほしい。
「私は……私は、何をしているのだろうか?」
膝から崩れ落ちるようにして、その場にへたり込む。人を殺しても、ぬくもりは得られないと分かっているのに。悪魔からの寵愛を受けたところで、この飢えは収まらないと知っているのに。顔を、血に濡れた両手で覆う。私は、何のために――こんな過ちを繰り返しているのだろうか。
何年考えても分からない問いに苦しんでいると、不気味な音を立てて私の前に悪魔が現れた。
「ふふっ……何を悩んでいるんです? 貴方は何も考えなくていいと言っているでしょう? スィエル……貴方が踏み外した道に戻ることはもうない。貴方は人殺しになったのだから。その血を啜り、復讐を行い、敵を余さず殺し尽くす……それが、貴方と私の契約」
甘い囁きが、私の耳を伝って直に脳を震わす。悪魔は軽く言葉を吐いただけなのに、私の思考は闇に沈められる。
「ああ……スィエル。こんなに目を腫らして……可哀想に。貴方は永遠の幸せをただ受け取るだけでいい。その力の代償として、貴方は人を殺す……血をたっぷりと集め、私に生贄を渡す……そうでしょう?」
どぷん、どぷんと奇妙な音が、足下から聞こえる。恐ろしさを感じつつも下に目を向けると、触手のようなものが伸び上がり、私の全身をゆっくりと絡め取っているのが見えた。
「やめろ……やめてくれ」
「おかしな事を。契約はまだ、終わっていませんよ」
悪魔の腕が、するりと私の首に伸び。
光の見えない闇が、哄笑をあげた。