#9 願う姉妹
-セーツェン南部 病院-
薔薇の爽やかな香りが、病室の扉を開けると、ふわっと鼻の中に飛び込んでくる。窓際を見ると、赤とピンク色の薔薇が一輪ずつ飾られていた。夕日に照らされながら、二輪の薔薇は仲良くオレンジ色に輝いている。
その傍らに眠るのは、一人の少女。私、リーベ・ヴィローディアの妹だ。
男っぽく見せるために髪を短くしてボーイッシュにしている私とは違って、つややかな青色の髪が肩に流れており、前髪は綺麗に目の上で切りそろえられている。
起こさないようにそっと、倒れていたクマのぬいぐるみを元の位置に戻そうとしたとき、妹がぱちりと目を開けた。妹の目は青色で、私の目の色は緑色。いつも仲良しの、姉妹。
「お姉ちゃん、来てたんだ」
「うん。さっき来たばかりだよ。良かった。今日は元気そうで」
点滴による栄養補給で、痩せ細った体が痛々しいが、顔色はそこまで悪くない。
私の妹、リヒト・ヴィローディアが持つのは、眠り姫病とも呼ばれる病気だ。眠りたくもないのに眠ってしまうその病は長年治療方法が分からないままだったが、ある科学者がついに病気が完治する方法を見つけ、薬を作り出したのだという。
これは、世界的なニュースになり、私も「漸く妹の病気が治せる」と歓喜したものだ。
発見されたばかりなのでまだまだ実用化にはほど遠く、膨大な量のお金が必要だ。しかし、私はこれ以上妹や家族を苦しめたくはなかった。そのために、私は汚れ仕事をしてまでも、必要なお金を貯めているのだ。
「眠たいけど、また寝ちゃったら、今度はいつ起きるかわかんないもんなぁ。そうだ、本でも読もうかな! お母さんに図書館で借りてきて貰ったの!」
妹と私は大の読書好きで、小さい頃はよく布団の中で一緒に夢中になって本を読んだものだ。
「これね、伝承のお話なんだって。悪い男の人のお話」
「へぇ、そんなものが図書館に……」
そこまで言いかけて、リーベは口をつぐんだ。嫌な予感がするのだ。伝承。悪い男。そして、この前から続く、連続殺人事件。このタイミングで借りる本となれば、答えは1つしかない。
「リヒト、それってもしかして……」
「これはね、三千年前のお話らしいんだけど、最近この人が目覚めたんだって。凄いよね!だから、昔はどんな世界だったんだろうって知りたいの!」
やはり、予想通りだった。リヒトは、あの悪魔に興味を持っているようだが、それは悪魔の残忍性や凶暴性、冷酷さを知らないからだ。感情のない瞳に、血まみれの軍服。彼は誰が見ても空虚な殺戮を繰り返していた。そこまでして、得たいものは何なのか。
リーベが戦った後にアルトもあの男と一戦交えたらしいが、彼も私と同じような感想を抱いていた。あれは人間の皮を被った化け物。生かすことは出来ないと。
「リヒト、その男に対しては何も知らない方が良いわ」
「え? なんで? お姉ちゃんはこの男の人、知ってるの?」
しまった。妹には汚れ仕事のことに関しては一切話していないのだ。親には一応話をつけてあるが、最初は猛反対された。
「人を殺して得たお金で本当にリヒトが喜ぶと思うのか!?」
「リーベ、考え直しなさい。貴方の気持ちは嬉しいけれど」
それでも、何とか親を説得し、妹には秘密のままここまでやって来たのだ。今更バレては今までの苦労が水の泡になる。
「うん、まあね。学校の授業でちょっとだけだけど。リヒトも学校に行けるようになれば、学べるわ」
「そうなんだ! でもね、これはたぶんお姉ちゃんでも知らないお話だよ」
「知らないお話?」
「うん! バイオリンって、お姉ちゃん知ってる?」
バイオリン。名前は聞いたことがある。リーベの家系、ヴィローディア家はそこまで裕福でもないし、音楽に精通している者もいないので、楽器を嗜むということは行われていない。
セーツェンの名門貴族、ベルガ家では年に一回ほど家族やその親戚、友人らで集まって音楽会を開くのだという。
一回私も連れて行って貰ったことがあるらしいのだが、小さい頃だったのか覚えていない。
「うーん、名前ぐらいは聞いたことがあるかな」
「ふむふむ。それでね、そのお話はね……耳のいい狩人が獲物がないかと思って、野原の近くを歩いてたときに、楽器の音がしたんだって。でも、そこは元々魔術師によって封印されたはずの場所。誰も入ることは出来ないはずの方向から聞こえてきたらしいの」
なのに、楽器の音が聞こえてきたという事は。
「そこに誰かいたって事……?」
「うん、そういうこと。そこには悪の男、スィエル・キースが眠っているはずの所でね。でも、音はずっと聞こえてたんだって。周りには街もないし、人もいなかったのにね。怖くなった狩人は今後一切、そこに立ち寄らなくなったらしいよ」
ケラケラと笑いながら妹は話すが、こっちは冷や汗が止まらない。悪魔の音楽など、聞いただけでおかしくなってしまうのではないのだろうか。
あんな、戦闘と略奪しか考えない者の中に、人間の心があるとは、どうしても思えない。
「それとさ、封印されても生きてたって事は、ずっと黙って私達を見てたんだよね。お城から見える景色はどんなものだったんだろうなぁって想像するのも楽しいの。でも、寂しい思いもしたかもしれないね。寒かったかな? 苦しかったかな? それとも、一人でのんびりしてたのかな。リーベは考えられる? ひとりぼっちの生活は……」
考えられるわけがない。今でも、妹と離れて暮らす生活に苦痛を感じているのだ。それが三千年、しかもたった一人で暮らすなど気が狂いそうだ。
あの寂しげな佇まいは、それが原因なのだろうか。今は何処にいて、何をしているのだろうか。今も、バイオリンを弾き続けているのだろうか。
「ううん、考えられないわ。だって、今もリヒトとちょっと離れてるだけで寂しいもの」
「もー、お姉ちゃん! そういうのは求めてないの!」
「いいえ、本心よ。……あ、ごめんリヒト。もうすぐ帰らなきゃ」
夜は親達の分を含めた食事を作り、深夜にはまた仕事にいかねばならない。リヒトには申し訳ないが、もうすぐ帰らねば、全てのスケジュールが狂ってしまうのだ。
「そっか……大丈夫だよ。私もちょっと眠くなってきたもん。リーベが帰ったら寝ておくから」
「ごめんね、リヒト! また近いうちに絶対に来るから!」
そう言って、私はリヒトの病室を後にした。
*
「お姉ちゃん……絶対何か学校の事以外にも知ってるよね」
私は姉のいなくなった静かな病室で、一人呟く。辺りはすっかり暗くなり、僅かな蛍光灯の光が、青白い肌を照らす。
冗談ではなく、私はスィエルに会ってみたいと思った。リーベには直接は告げなかっただけで、本当はこの目で見てみたい。私も彼ほどではないが、ひとりぼっちの生活を経験している。仕方のないことではあるのだが、親は中々仕事が忙しく、面会に来てくれない。
三千年前から孤独だという彼は、一体どのような人間なのだろう。私は、伝承のお話が現実になったと聞いたとき、ビックリしたと同時に、興味を持ったのだ。
「あの言葉は真意じゃない」
根拠はなかったが、それでもそう思えたのは宣戦布告のメッセージを告げる彼の眼の奥に、憎しみ以外に何か、恐れや悲しみが見えたからだった。でも、この体は動かせない。そうしているうちにも、彼を包囲する敵は、どんどん増えていく。
「……せっかく出られたのにね。寂しかったのにね。ねぇ、スィエルは今どう思っているのかな?」
窓を開け、星達に問いかける。迷ったことがあったら、よくこうするのが私の癖だった。
青い星は、彼も含めてこの街をずっと眺めていたはずだ。でも、星達はなにも返してくれない。
「……そうだよね。私に出来る事なんてないよね」
自分の無力さを噛み締めながら、眠気に耐えられずに私はベッドに倒れ込む。冷たく輝く夜空を、私はぼんやりと眺め続けた。