第五十二話 縮まらぬ距離
王の間のすぐ側にある執務室で、息子のシナブルから受け取った帳簿に目を落とすのは、この城の経理統括のサンであった。彼女の座る執務机の前で姿勢を正したままのシナブルは、心ここにあらずといった顔で窓の外にぼんやりと視線を向けていた。
「シナブル?」
「はい」
「アンナ様の部屋の硝子、最近割れなくなったのね。金額がこんなに違うなんて」
サンはシナブルとフォードがまとめてきた、一ヶ月間でアンナにかかる支出金額を見て目を丸くする。修繕費の桁が違うのだ。
「そうですね」
窓硝子を割る犯人であるエリックがこの城に連れてこられ、早二年。彼も今年百五歳──人間でいうと二十一歳になった。当初は毎日のようにアンナを殺しに部屋へと赴き、どこかしらの硝子を割り、柱を折り、誰かが怪我をしていた。
「お二人の仲は順調ということかしら?」
「……殺し合いが減ったのは確かです。言葉遣いの再教育とやらも順調です」
「いい兆候ね」
トントンと書類をまとめたサンは、シナブルの顔を見て小さな溜め息をついた。
「午後から私もお供として外出することになっているから、留守の間よろしくね」
「はい」
「帰国は六日後。できれば何も破壊しないでもらえるとありがたいわ」
「それは、勿論」
マリーの夫であるフォンの父が急逝し、葬儀はフォンの到着を待って三日後に予定されていた。フォンの母国はここファイアランス王国から遊道線を使って一日半かかる距離だ。妻であるマリーや子供たちは勿論のこと、エドヴァルドも顔を出す運びとなっていた。
「正直……アンナ様とレン様を残すのが不安よ」
レンのアンナに対する溺愛っぷりは、流石のサンも把握しており、悩みの種であった。兄妹間でもしものことがあれば後継者問題にも発展してしまう。エリックという質の良い婚約者を迎え入れた以上、こちらを有効に活用して欲しいというのが年長者達の総意であった。
「問題ありません。姫を守るために、我らがおります」
「あなたとフォードでしっかりとアンナ様をお守りしてね。陛下という最大の抑止力が六日も国を開けるのだから……」
「問題ありません」
「ネヴィアス様のことも心配だわ。もうすぐ臨月に入るというのに」
王妃ネヴィアスは、現在第五子を妊娠中。サンの心配の種は尽きない。
「心配しすぎですよ、母上。陛下のご不在時にもしもがあってはいけないからと言って、カメリアさんたちを呼ぶよう進言したのは母上なのでしょう?」
「それはそうなんだけど……」
「ご心配なく。命を賭しても、お守りします」
万が一のことも想定して国内には祖母で前国王のアリアや、その娘のカメリア夫妻に妹のガランスも帰国している。エドヴァルドの不在を狙って王家に危害を加えようとする輩がいれば、たちまち返り討ちにされてしまうだろう。
「ところで、ねぇ……これ何の音?」
「恐らく、アンナ様かと」
窓の外でドゴン、何かが破壊される音がした。アンナとエリックが戦闘の訓練中に闘技台を破壊した音である。サンは眉間に皺を寄せながらこめかみを押さえ、シナブルは少しだけ口角を持ち上げた。
「壊れてるじゃない……」
「訓練に破壊は付き物です」
「そうは言ってもね、限度ってものがあるでしょう」
サンは手元の帳簿を捲り、顔を曇らせる。
「闘技台程度でしたら、我らで修繕します」
「そう……可能なら頼むわ」
「慣れたものです」
シナブルにとって、アンナが戦う姿は褒美である。それが見られるのであれば、どれだけ自分の仕事が増えようが全く構わなかった。
そろそろアンナの元に向かおうと母に頭を下げるが、ふと思い立ち足を止めた。
「母上、聞きたいのですが」
「何?」
「母上と父上は、どのような経緯で結ばれたのでしょうか?」
淡々と言葉を発するシナブルに、サンの手の中からペンが落下した。驚いて顔を上げると、シナブルの表情は変わらないままだった。
「突然……どうしたの」
「いえ、その……そういえば、聞いたことがなかったなと」
「ふうん?」
この母親、実は自分の子に対しては少しだけ鈍いところがある。その為、息子の質問の意図を理解できないまま首を横に倒した。
「あなたも結婚とか考える歳になったのね」
「決してそういうわけでは」
「本当に? 必要なら相手を充てがうわよ」
「不要です」
「不要って……いつかはそういう日が来ることを、わかってはいるでしょう?」
シナブルは今年で百十二──人間でいえば凡そ二十二歳だ。まだ若いとはいえ、いつかは家庭を持ちこの家を支える為に子を儲けなければならない。
顔色を変えないまま、シナブルは口を開く。
「今はまだ不要です。アンナ様もお忙しいですし、仕事に集中したいのです」
「そう。それならいいのだけれど」
言い訳ばかりだ。短く溜め息をつくと、サンが窓の外に視線を投げながら、ゆっくりと口を開いた。
「あの人と私は従姉弟よ。あの人、ギリギリまで渋ってね。好きでもない女と結婚するのは、誠意に欠けるって」
「従姉弟……」
「髪の色が近いでしょう? あなたの祖父の血が互いに濃かったのよ」
シナブルの祖父であるアリエムールの髪は濃いサックスブルーだった。その兄弟たちも似た系統の髪色だったようで、コラーユもサンもその色を引き継いだらしい。
「私も……あの人が歳下なことが気になってね。あの人の気持ちも知っていたから、結婚するつもりはなかったんだけど」
「けど?」
「最終的には『家の為に』と割り切ったみたいでね」
「割り切って結婚して、母上は幸せなのですか?」
自分もいずれは家のために割り切って、充てがわれた女と家庭を築かねばならない。そう考えるだけで、シナブルの口の奥は苦くなった。
「あなた、自分が何人きょうだいか知ってるでしょう? そういうことよ」
「はぁ……そうですか」
「結婚してから相手の魅力に気が付くこともあるのよ。現にあなたの父は、眼鏡を外すと男前でしょう?」
「どうでしょうか?」
父が眼鏡を外した姿など、見た記憶がない。幼い頃にはきっと見たことがあるのだろうが、一々覚えてなどいなかった。
「あの顔を初めて見た時の衝撃は……今でも覚えているわね」
「参考になりました。ありがとうございます」
頭を下げて部屋を出ていこうとするシナブルの耳に届くのは、先程と同じような衝撃音。アンナとエリックの戦闘訓練は、まだ続いているようだ。
「シナブル、留守を頼んだわよ」
「ええ。母上もお気をつけて」
母の執務室を後にしたシナブルが足早に向かうのは闘技台壱番だ。歩けば五分以上かかる距離だが、走ればすぐだ。周りに誰もいないことを確認すると、シナブルは廊下の窓を開けて屋根の上に飛び上がり、海風を浴びながら主の元へ向かって疾駆した。
一方、闘技台壱番。
白練色の闘技台の上で息を切らすアンナとエリックは、互いに限界が来たのか距離をとったまま座り込んでいた。珍しく汗を流したアンナは、手の甲で汗を拭いながら天を仰ぐ。
「はぁっ……クソ……」
「アンナ、神力の使い方が上達してきたんじゃないのか?」
「褒めるな気持ち悪い」
エリックの言葉に舌を打ったアンナは立ち上がり、刀を鞘に収めた。その直後に姿を現したのはシナブルだった。闘技台の脇に控えるフォードの持つタオルを譲り受けると、それを手にアンナへと近寄る。
「姫、お疲れ様でした」
「ああ、ありがとう」
「間に合わず申し訳ありません」
「気にしなくていいのに」
アンナが額の汗を拭ったところで新たな人物が姿を現した──あれはレンだ。白いシャツの袖をたくし上げ、ベストの下にはネクタイすら身に付けていなかった。おまけに臣下も連れず、珍しいことに一人きり。その姿を視界の隅に捉えたアンナの表情が少しだけ強張る。
「やけに騒がしいな」
「兄上……どうして」
「大きな音がしたから気になってな。しかしアンナ、感心だな。ここの所、毎日実践訓練をしていると聞いたが」
「こうでもしないと……強くはなれないもの」
動き回ったことによる汗とは別の汗が、アンナの額に浮かび上がる。レンとの距離が近いのだ──……緊張とはまた別の、嫌な汗がじわじわと滲み、それを手の甲で拭った。
「──っ!?」
一瞬、何が起きたのか──その場にいた者たちは皆目を疑った。アンナの二人の臣下たちの目には、激しい動揺の色が広がった。
レンが、アンナの手の甲に付着した彼女の汗を舌で舐め取ったのである。その際、髪を撫でるという嫌がらせまでついてきたことは想定外だった。
「汗、しっかり拭かないと駄目だぞ」
「は…………い」
「ではな。励めよ」
もっと色々と言われるのではないかと身構えていたアンナであったが、まさかの応酬に吐き気が込み上げる。兄の姿が見えなくなるまでは、何事も無かったかのように──毅然とした態度を崩すことは許されない。
「……なんでこんな」
「おい、大丈夫か」
即座に駆け寄ろうとしたフォードとシナブルよりも先に、アンナの一番近くにいたエリックが彼女に駆け寄った。アンナの手の中のタオルで彼女の手の甲を何度も拭うが、顔色は悪いままだ。
「……上書き、するか?」
「え……?」
「上書きだ」
アンナの指先を摘み上げたエリックは、その整った爪先をまじまじと見つめた。不安げな面持ちのままのアンナは、ハッと言葉の真意に気が付いた。
「……お願い」
「わかった」
レンが舐め取った、アンナの手の甲──エリックはそこにそっと唇を押し当てた。僅かに開いて少しだけ食み、最後に舌全体を表面に押し当てた。
「なっ……!」
「消えたか?」
「なんで……お前はいつも……!」
厭らしい舌の動きに、アンナは手を引っ込める。心臓が不快なほどに駆け、エリックに背を向けてしまう。
「髪」
「何だ──っ!?」
レンに触れられた箇所に、エリックが手を伸ばす。兄のものとは全く違う──慈しむような手つきに、アンナの心臓は更に苦しくなった。
「こんなに綺麗なんだ。髪も……伸ばせば良い。きっっと似合う」
「……何を。長い髪など、戦闘の邪魔にしかならない」
「はっ……お前ほどの手練れが何を言う。負けた時の言い訳か?」
「はぁ?」
良い雰囲気になったのは一瞬だけだった。この二人、肝心なところでは素直になれないままであった。
闘技台の下で二人の様子を見守っていた臣下たちは、顔を青くしながらその光景を見守ることしか出来なかった。




