第五十話 それぞれの本心
サンリユス共和国でのアンナとエリックの活躍から三ヵ月が経とうとしていた。
ミカエルとの一件で、アンナは精神的に未だ万全とはいかない日々を過ごしていた。不本意にも時折回顧してはエリックや臣下たちに支えられ、エリックとの休戦状態は続いたままだった。
訓練の中で戦うことはあれど、毎日のように殺しにかかることはなくなり──否、休戦宣言のため止まっている状況であった。
そんな日々を過ごすうち、エリックにほんの少しでも惹かれていなかったと言えば嘘になる。魅力的に見えるかと問われればアンナはノーと答えただろう。しかし「責任は取る」と約束をし、献身的に支えとなってくれたことは、彼女の心の深い場所を揺るがしたのだ。
家族以外の、たった一人の男へ感情を向けることなど、今までのアンナにしてみればあり得ないことであった。彼女にとって他人とは殺すか殺さないかの二択で測るものであり、それ以外の選択や感情で迷うことなどなかったというのに。
一方のエリックはと言えば、これまた厄介なもので、仇であるアンナに献身的に接するうちに見え隠れする彼女の本性に少しずつ飲み込まれかけていた。こんな女が本当に殺し屋なのかと思わせるような一面を、何度も何度も目にしてしまったのだ。あれだけ弱った姿を毎日のように目にしていれば、守ってやりたいという想いが芽生えても仕方がなかったとも言えよう。
しかし彼とて愛する婚約者と家族、それに母国を滅ぼされた相手ということを忘れ、アンナを許すことなど出来るはずもなく、心の何処かで「アンナがティファラを殺してさえいなければ」と考えてしまうこともあった。
許してしまえばティファラにも家族にも顔向けが出来なくなる──それ以前に、どう考えても許せるはずなどないのだ。そう自分を納得させ、自我を保ってきた。
そんなぎこちない距離感の二人を見守るシナブルとフォードは、胃痛に悩まされる日々を送っている。
エリックの提案でアンナに口づけたフォードは、なんとなくアンナから置かれる距離が広くなっているように感じていた。反対にシナブルは頼られ甘えられる事が増え、喜びを感じる中で──彼女への想いをますます募らせていった。
そんな中、父エドヴァルド二世からアンナに呼び出しがかかる。また大きな仕事かと、アンナは溜め息をついた。
こんな状況だというのに。もう少し心を休めてから仕事に臨みたいなど、父に言えようはずもない。アンナを取り巻く環境がこんなことになっていようなど、恐らく父は知るはずもないのだ。
「また戦争か……いい加減飽きるな」
エドヴァルドの呼び出しに顔を出したアンナは、暗い顔のまま自室へと戻る。自室に戻るとすぐに出立の準備を進めた。準備とはいっても、支度は簡素なものだ。ある程度必要なものはいつも 無限空間に入れているし、刀の手入れも欠かさず毎晩行っている。
つまりは、いつ何時でも殺しの準備は整っているということだ。
「またあのクソ野郎と仕事だなんて」
「クソ野郎?」
「シムノン・カートスよ。あの 水の 破壊者の。気が乗らない」
マンダリーヌが提案した言葉遣いの再教育は、時々粗が出るものの順調に進んでいた。アンナとエリックの言葉遣いは、見違えるほど整ったものになっていた。それが互いの魅力を引き立てていることに、二人は気が付いていない。
「そうだ……父上から今回の仕事は監視役を一人つけるように言われている。前回の戦争の時の失敗があるから……同じことを繰り返すなどしつこく言われたわ」
前回の失敗──第一次アブヤドゥ・プンニー戦争と名付けられた戦争に参加したアンナは、敵も味方も構わず凡そ一万の兵を殺し尽くしていた。その結果支払われるはずだった報酬は半分に減らされ、エドヴァルドの怒りを買うこととなってしまったのだ。
「シナブル、頼める?」
「勿論です」
喜んで、という言葉を飲み込み、シナブルは頭を下げる。アンナの仕事に同行するのは何年ぶりだろうか。久しぶりの同行任務に、頬が緩んでいく。
「フォード。あと三日もすればエリックが帰国する。あんたはその事務処理を頼むわ」
「承知しました」
エリックの捌く仕事量もそれなりに多くなっていた。殺しの屋の仕事に慣れ始めたエリックに対し、エドヴァルドは家族の一員として、多くの仕事を彼に与え始めていた。
「一時間程仮眠する。シナブル、準備は?」
「俺は何時でも出れます」
「そう……それならあんたも少し休みなさい。十四時頃に来てくれればいいから」
「承知しました」
アンナは半二階のベッドルームへと足を進める。その姿を見送った二人の臣下たちは、執務室へと足を向けた。
*
執務机に腰掛けたフォードは、口の端を吊り上げてシナブルを見つめる。そんなフォードの姿を見て、シナブルは大きな溜め息をついた。
「何か言いたげだな」
「久しぶりに仕事へ同行が許されて嬉しそうだなと思って。よかったな」
「ありがたいことだ」
「やけに素直だな」
「揶揄うな」と言って嫌がるのが通常運転だというのに、シナブルが自分の気持ちを認めるのは珍しいことだった。
「気が昂っているだけなのかもしれない」
「あまりの嬉しさに?」
「……そういうことだ」
「素直だなあ、らしくもなく」
主であるアンナが休むのであれば自分も休むと言って、シナブルは自室へと向かう。三階廊下を進み、一階へと足を向ける。その足取りは心なしか軽い。
アンナの仕事に同行が許されたのは、数年ぶりなのだ。彼女が現場で刃を振るう様を間近で見れることは、シナブルにとっては大変な褒美であった。見事なまでの、あの剣捌き──それに体の熟し。エリックとの訓練のお陰もあり神力の扱いも上達し、アンナの戦う姿は、シナブルにとっては女神の舞に等しいものなのであった。
想像するだけで全身がぶるりと震え、腹の下が熱くなってしまう。
冷静になれと己を叱責し、深呼吸をしながら一階へ降りて廊下を進む。硝子扉を押し開け外廊下へ出ると、向かいから歩いてくる相手にハッとする。緩んだ顔を見られてしまったかもしれない。
「あら珍しい。随分とご機嫌ね」
驚いて眉を持ち上げるのは、シナブルの姉マンダリーヌだった。
「姉上こそ」
マンダリーヌの口元も緩み、彼女の主であるレンの部屋に向かっているであろうことは明らかであった。
「何かあったの?」
「アンナ様と仕事で外に出るのです。間もなく立ちます」
「へぇ、久しぶりじゃない。よかったわね……でも──」
「姉上が仰りたいことはわかっています」
マンダリーヌは、シナブルに幾度となく忠告をしてきたのだ──アンナのことは諦めろと。その度に、そういったものではないと否定をしてきたのだが、最近ではもうそれも無駄なのだど、シナブルも気が付き始めていた。自分がいくら否定をしても、姉に本心は知られているのだ──と。
「わかっているのならいいの。でもね、エリック様のこともあるのだから本当にそろそろ……」
「姉上」
「怒らないでよ」
「別に怒ってなど」
「表情変わり過ぎなのよ、らしくもない」
表情の変化の乏しいシナブルの怒りの感情に気が付くことなど、限られた人間にしか出来ない芸当だ。実際彼の眉は数ミリ持ち上がっただけで、声色も殆ど変わらない。
「俺は、アンナ様以外など……やはり考えられません。姉上だって結局は同じなのでしょう?」
マンダリーヌとレンの関係は、シナブルから見れば明らかなものであった。他の誰が知っているかはわからぬが、他の者との話題に持ち上がったことは一度もない。もしかすると、知っているのはシナブルだけなのかもしれない。
「私はもう、地獄の底までレン様に付き合うって決めているから」
「そんなの、俺だって──」
アンナがどこに向かおうとも、死ぬまで傍に仕える覚悟はとっくの昔ににできているのだ。それで命を落とすことになろうとも、後悔などするはずもない。
「あなたは間違えては駄目よ。アンナ様への想いが断ち切れないのは、もうわかったわ何も言わない。ならばその気持ちを胸の底に押し込んででも、この家の為に家庭を持つ覚悟をしなさい」
「姉上……」
「ごめんね、仕事の前に。気をつけて」
振り返り見つめた姉の背中は儚げで。手が届かないところに行ってしまいそうで、妙に胸騒ぎがして。
マンダリーヌの姿が見えなくなったところで、シナブルは自室へと足を向けながらふと考える。自分が、アンナ以外の女性を心の底から愛することなどあり得るだろうか。一ミリも想像のつかない未来に、頭を横に振るだけであった。




