第四十九話 フォードの淹れる紅茶の味
レンが帰国したと聞いたアンナは、慌てて自室へと戻ることとなった。少し眠りたい所であったというのに、そうは言っていられない事態であった。自分がいると知れば、兄は必ず自分の顔を見に来るのが常。エリックの部屋で休んでいたことが知れてしまえば、どうなるか──……考えるだけでも恐ろしかった。
自室に戻ると部屋に立ち込める紅茶の香り。気を利かせたフォードがすぐに湯を沸かし、茶葉の準備をしてくれていたようだ。
「……ありがとう」
「いえ」
「いい香りだ」
椅子に腰掛けカップに指を添えるが、フォードの顔をみることが出来ない。あんな事の後だ、彼はどんな顔をしているのだろうか。
(顔を上げることが出来ない……どうしてフォードは平気なんだ……!)
ばくばくと暴れる心臓を抑えつけるように、アンナは深い呼吸を繰り返した。動揺を悟られたくはなかった。
「姫、そういえば」
「何?」
「お誕生日おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「仕事中でしたので、お伝えするのが遅くなり申し訳ありません」
「いや……ありがとう、二人共」
シナブルとフォードが揃って頭を下げる。昔から「祝い事に物は要らない。言葉だけで十分だ」と伝えていた。顔を上げた二人はにこりと嬉しそうに微笑む。自分の顔が熱を持っていることに気が付いた。
(っ……! こいつ……)
「どうかなさいましたか?」
「……いや、なんでもない。美味しい……やっぱりフォードの淹れる紅茶は最高だな」
「ありがとうございます」
「あの、フォード。さっきの事なんだが……」
──コンコン
今、執務室には誰も居ない。私室の扉が直接叩かれ、三人の視線が扉に一斉に向かう。
「アンナ、少し良いか?」
「……はい」
声の主は兄のレンであった。アンナが返事をした後、扉が開かれる。弟のフェルを伴ったレンは一直線にアンナの元へと足を進める。
「おめでとう、アンナ。遅れてしまってすまない」
「姉様、お誕生日おめでとう」
「……ありがとう」
差し出されるのは真っ白なカラーを中心とした大きな花束。どうしても物を贈りたがる兄と、形に残る物をあまり持ちたがらないアンナ。何度かの話し合いの後、花束というところで折り合いがついたのはもう数十年も前の話。
「綺麗」
「お前のほうが美しいさ。またそんな怖い顔をして……せっかくの美人が台無しだぞ」
「はい……」
兄の常套句を受け流す余裕もなく、アンナは気まずげに顔を逸らしてしまう。それを見逃すレンではなく、目元がぴくりと動く。嫌な空気を感じとったフェルは、自分が席を外したほうがいいだろうと気を利かせ、口を開いた。
「僕、花瓶に生けてくるね」
「フェル様、場所はわかりますか?」
「大丈夫だよ」
花を手に部屋を後にするフェルを見送り、レンがアンナの向かいの椅子に腰を下ろしながら口を開いた。
「まだ父上の所に顔を出していないんだ。このあとすぐ行かないと」
「あたしは午後から来るよう、サンに言われていて」
「そうなのか? 珍しいな」
「父上も忙しいのでしょう。時間があるのなら兄上、よかったら一緒に飲まない? フォードの淹れる紅茶は──」
アンナの指の添えられたティーカップを、レンはするりと奪い取り口をつけた。レン以外の三人が目を丸くする中、レンは半分ほどカップの中身を減らす。
「確かに美味いな」
「フォードの腕がいいのよ」
「随分とフォードを褒めるじゃないか」
「今に始まったことじゃない」
「……そんなにフォードが好きか」
「え……?」
困惑するアンナの顔を、レンは穴が空くほど見つめる。「教えてくれ」と催促をされるので、アンナは逡巡した後、口を開く。
「好きよ。でも、フォードだけじゃない。シナブルのこともマンダリーヌのことも。フェルだって、カルディナルだって──」
「エリックは?」
「あいつは大嫌いだ」
気まずげに目を伏せ、レンから逃げるアンナ。レンにはアンナのその態度が、気にかかって仕方がない様子。
「俺のことは好きではないのか?」
「そんなこと……」
「俺が一番ではないのか?」
「兄上、何を急に。順番なんてない、あたしはみんな……家族は大切だし、みんな大好きなんだ」
「フォードは家族か?」
「あたしは……そう思ってる」
「……そうか」
「どうしたの兄上、何か変よ?」
「変なのはお前の方だ」
「……え?」
「アンナ……お前は……そんなことを言う子ではなかっただろう? 一体何があった? もしやサンリユスで何か……あったのか?」
サンリユスという言葉を聞いた途端、アンナの顔が青ざめてゆく。レンはそれを見逃さない。
「何があった? もしかして、エリックに何かされたのか?」
「いや……それは……」
「教えてくれ」
「それは……話せない。思い出したくないの。勘弁して頂戴……ただ、エリックが悪いとか、そういうのではない。それだけは断言する」
「フォード、お前は何か知っているのか」
「いえ。私如きがそのようなこと」
「嘘はつくなよ?」
レンはアンナに視線を戻す。先程から気になっていた彼女の右耳。そこに手を伸ばし触れようとした所で、アンナの肩がビクリと跳ね上がった。
「綺麗だな。よく似合っている」
「ありがとう……前の通信機を壊してしまって、それで」
エリックから贈られたものだと知れば、兄がどんな行動をとるかなど安易に想像ができた。口を噤んで薄っすらと笑みを返した。
「アンナ……」
再びアンナの耳に触れようと、レンの手が伸びる。
耳朶に触れたところでアンナが小さく息を呑んだ。
「ごめんなさい……」
「どうしたんだ?」
「いや……別に……何でも、ない」
「何でもない時の反応ではないだろう?」
耳に触れていた手が頬に伸び、首筋に触れる。青ざめてゆくアンナを見つめるシナブルとフォードは、顔を曇らせているが声をかけることが出来なかった。
「変わってしまったな、アンナ」
「……兄上?」
「俺が…………いや、なんでもない」
立ち去ろうとするレンに、花瓶を抱えたフェルが合流する。花瓶を飾ったフェルはレンの顔を見つめると首を傾げた。
「兄上、大丈夫?」
「フェル……すまない、大丈夫だよ。アンナ、邪魔をしたな」
「いや……ありがとう、二人とも」
にこりと微笑むフェルと、顔を曇らせたままのレンを見送ると、アンナは口元を押さえて背中を丸めた。
「姫っ!」
「……気持ち悪い」
「大丈夫ですか!」
「いや……悪い、少し横になりたい」
よろめきながらも立ち上がるアンナの肩をシナブルが支え、階段をゆっくりと上る。何とかベッドルームへと辿り着いたアンナはブランケットに包まり、その隙間から僅かに顔を出した。
「十三時になったら、起こしてくれ」
「承知しました」
「お願い、傍にいて……」
「はい」
「背中に、触れていて欲しい」
「…………はい。失礼します」
アンナの背にそっと触れたシナブルは、ゆっくりとそこを擦る。緊張で身体がおかしくなりそうであった。
「姫、先程のピアスですが」
「……うん?」
「良い物を買われましたね。よく似合っております」
「買ってきたのはあいつだ、あたしが選んだわけじゃない」
「エリック様が……?」
サンリユスで破損してしまったアンナの通信機。壊れたのは自分のせいだからと言って、選び購入してきたのはエリックだった。
「……それでも、似合っております」
「ありがと……」
シナブルは、エリックがアンナに物を贈っていたことが歯痒かった。自分たちは物を贈ることを許されてはいないのだから。
しばらくして、アンナが静かな寝息を立て始める。シナブルは、音が鳴るまで奥歯を噛みしめることしか出来ない自分が、腹立たしかった。
*
(こんなものでよかったか……)
本を探しに行くというフェルと別れたレンは階下の自室には下りず、私室棟の最上階から屋根に上り、海を見おろしていた。背後の気配に振り返ると、大きな溜め息をついた。
「何の用だ」
『連れないな。付き合えよ』
先日レンが対峙した、あの影だ。ゆらゆらと揺れては、はっきりとしない声でレンを嘲笑う。
『彼女には呪いの種を入れておいた』
「呪い……!? どうやって……まさか、さっきの紅茶っ……!」
『違うさ。直接、口からだよ』
「……は?」
突然何を、と影を睨みつけても、表情などないそれは形を変えて揺らめくばかり。
『彼女が飲んだものを、お前も飲んだだろう? お前にも呪いの種が……少しだけ入ったからな、好都合だ。お前がその体で彼女を傷つければ、彼女の中の呪いが弾けるようになっている』
「待て、意味がわからない」
『武器ではなく、体で彼女を傷つけろと言っている。わかるか?』
「……馬鹿な」
『呪いで苦しんで死ぬ姿はさぞかし滑稽だろうよ。あの美しい顔が苦痛で歪むのだ、考えただけで興奮する』
「悪趣味め」
『お前も同じだろう? 決行日は追って連絡する……間もなく準備が整う』
地に飲み込まれるように、影がとぷん、と消える。頭を抱えて踞ったレンは、その場からしばらく動けなかった。
(あいつに利用されるフリをして、俺があいつを利用してやる……!)
国と家族を守るために、レンは腹を括る。多少の犠牲は出ても、この国と家族が生き残るにはどうするのが最善か、必死に考え始めていた。




