第四十八話 大人への階段
取り残された三人の残る室内は、空気が張り詰め冷え冷えとしている。落ち着きを取り戻しつつあるアンナは、振り返り二人の臣下を見つめた。
「なあシナブル。抜くとは何だ?」
「え゙……っと……それを、俺に聞きます?」
「お前じゃ、駄目な類か。じゃあフォード、教えてくれるか?」
「ぅ゙……ええと、その……」
二人揃ってエリックを恨みながら、床を睨みつける。彼本人の口から説明をさせたい所であるが、流石に今部屋を訪ねるのは不味いだろうと奥歯を噛みしめることしか出来ない。
「言いづらいのなら他を当たる。身内のお前たちが言いにくいことなのならば……デニーにでも聞いてみるか……」
「「それはおやめ下さい!!」」
「えっと……?」
「おいフォード、覚悟を決めろ」
「決めたくないなぁ……」
「ならば兄上でも呼んでくるか? 適任だ」
「確かに。でもなんか嫌だな」
「同感だ」
重々しい溜め息合戦が続いている。アンナは不思議そうに首を傾げるばかりで、答えに対する想像が難しいのか二人の臣下を見つめるばかり。
「シナブル、何故そんなに顔が赤い? 大丈夫か?」
「大丈夫ではないです……」
「フォードは青いな」
「青くもなりますよ……」
「……わかった。それなら、エリックに聞きに行ってくる。元々あいつのせいでこうなったんだし」
会話が止まると、先程の事を思い出し身体が熱を孕んでしまった。あの直後からずっと、アンナはフォードの顔を直視することが出来ないのだ。
(あんなフォード……始めて見た……駄目、今思い出しては)
ゆるりと首を横に振り、ゆっくりと自室から出ていこうとするアンナの手首を、慌ててシナブルが掴む。
「どうした?」
「まだ早いかと……」
「早い?」
「終わってないと、思うのです」
「何が?」
「ええ…………っと」
駄目だ、と屈みこんで顔を伏せてしまったシナブルを見て、アンナは一歩後退した。自分より背の高い男が、急に小さくなってしまったことに、かなり驚いたようだ。驚いた顔のまま、アンナはおずおずとフォードを見つめる。
恐らく自分が何も答えなければ、アンナはすぐにでもエリックの部屋に向かってしまう。フォードからしてみれば、今、それだけは避けたいところであった。
「抜く、が終わっていないと思われます」
「だから、何なんだそれは」
「姫……それは、その…………自慰、といいます」
「自慰?」
「自分で、致すのです」
「いたす?」
「ええっと……ですね、その……あの、姫、思うのですが」
「なに?」
「今、姫は大変お疲れだと思うのですが……この話は刺激が強すぎるのではないかと、私は思うのです」
「……刺激?」
「性の話など、嫌では?」
「だが、気になって仕方がないのも事実だ」
フォードは天井を仰ぐ。なんとかなりそうだと一瞬期待した自分が愚かであった。
「……わかった。少し、自分で考えてみる。だからヒントをくれないか?」
「ヒントですか……?」
アンナはソファに腰掛け、足を組む。向かいのソファに座るよう、二人の臣下を促した。
「その、自慰? というのは誰でもするものなのか? あたしは初めて聞いたんだが……名称を知らないだけで、している可能性もあるし」
「ん゙ん゙ん゙ッ……!」
「大丈夫かシナブル」
「いや……すみません……申し訳ありません」
「何がだ?」
「いえ……何でもありません……」
何も妄想しておらぬ、とシナブルは己の頬を引っ叩き顔を伏せる。フォードはそれを見て必死に笑いを堪えた。
「フォード?」
「あ……はい、あの……誰でも、かどうかはわかりませんが、男はきっと、皆……いや、大体は致します、かなと」
「ふうん?」
「女性も、恐らくは。我々は男ですので、その……女性についてはわかりませんが」
「男はきっと、皆……?」
「はい」
「お前たちも……か?」
「はい」
「おいッ! フォードッ!」
「あの、すみません姫……これ以上我々の口からは……」
謎は深まるばかりで、アンナは腕まで組んで、うんうんと唸っている。知りたいと思うことの本質がわからぬままなので、何の解決にも至っていなかった。
「わかった、ありがとう。エリックの所に行ってくる」
「はっ……ご無理をなさいませぬよう、お気をつけて下さい」
「うん」
スッと立ち上がったアンナが廊下に出ていくまで、二人は頭を下げ続けた。ノックの音の後、部屋に入ってゆく気配。そこでようやく口を開く。
「なんだよフォード! お前ノリノリだったじゃないか!」
「ノリノリではない! お前だってあれやこれや妄想してただろ!」
「してない!」
「嘘だあ!」
「口づけたくせに! あれこれ言うな!」
「お前は蹲ってあれこれ妄想してただけだろ!」
「してない!」
指を突きつけられてしまえば背を向けるしかなく、シナブルは足早に執務室へと姿を消す。座って仕事を開始してしまえば、こっちのものだと言わんばかりであった。
*
一方、エリックの私室。
事を終え、ソファに身を預けたエリックは、そのままごろりと寝転がりぼんやりと天井を見つめていた。
(……最悪だ。愛しいティファラの仇だというのに……なんで、あんな女で、俺は)
エリックにとってアンナは憎くてしかたのない女だというのに、自らの欲を開放するために使ってしまったことを激しく悔いていた。
(口づけまでしてしまって……気でも触れてしまったのか、俺は)
先程のアンナは、彼から見ても魅力的であった。彼女の存在を否定できない気持ちが──彼女に抱く憎悪を否定する気持ちが──……湧いてしまった。
(あいつの弱った姿を見すぎたのが駄目だったんだろうな。俺のせいであいつはあんな事になってしまったというのに……俺は……自業自得か)
一人の女として見てしまっては引き返せなくなる、そう気がついて目を閉じた。一旦落ち着いて、気持ちを切り替える必要があった。
──コンコン
控えめなノックの音に顔を持ち上げ、返事をすると、返ってきたのはアンナの声であった。
「いい?」
「何だ」
最悪のタイミングでアンナが姿を現した。追い返そうと思ったが、酷く不安げな表情のアンナを追い返せない自分が情けなかった。
「ごめん……急に」
「別に」
エリックの私室に初めて踏み込んだアンナは、どうしたものかと落ち着かず、壁に背を預けた。身を起こしたエリックは、ソファに腰を深く沈めた。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「何だ、改まって」
「シナブルもフォードも教えてくれなかったんだが、自慰とはなんだ?」
「……え?」
「お前は、抜く、と言って去っただろう? それがわからなかったから二人に聞いたんだ。だが肝心な部分は教えてもらえなかった」
「それで俺に聞きに来たと?」
「ああ」
「は〜……」
何故こんなことになるのかと、言葉も出てこない。少しゆっくりしたいと思っていたにも関わらず、まさかの質問にエリックは盛大な溜息をついた。
「性的な話だと言われ、覚悟はしてきた」
「そうか……まあいい、そこで聞け」
「……うん」
「ここが、こうなるのは知っているだろ?」
エリックは己の体を指差し、説明をしながら指の角度を変える。
「ああ、嫌と言うほど見た」
「それを、こうせず、こうする」
「……ん?」
「一人でこうするんだ。色々と考えていると、こう……なってくる」
両手を使い、指であれこれ象りながら。それを見てアンナは両手で口元を覆い、顔を赤らめた。
「大丈夫か?」
「うん……」
「続けるぞ? こう、何度もしているうちに気が昂っていくんだ。女を相手にしている時と同じだ。そしたら……」
「もういいわかった」
急いで部屋の外に出た。自分は何ということを聞いてしまったのかと、廊下で縮こまり膝を抱えた。ミカエルとのことを思い出しぐちゃぐちゃとした気持ち、その上フォードとの間に先程起きたこと。
「もうやだ……」
何も知らなかった頃に戻りたい。そう願えども叶うはずなどなく。
(……フォードは、男はきっと皆、と言っていたな……ということは)
顔から火が出るのではないかと錯覚してしまう程に頬が熱い。いつも真面目なあの二人が、そのようなことに勤しんでいるなど考えたくもなかった。
(……女も? どうやって?)
今度は体が冷えてゆく──寒気だ。とんでもないことを臣下たちに言ってしまったと羞恥は限界を超え、涙となった。
「もうやだ……」
誰か、と小さく呟いた。直後、背後で扉が開く──エリックだ。彼は無言でアンナの腕を掴むと、そのまま部屋に引きずり込んだ。
「な……なに、やだ……!」
「座れ」
「う……」
それぞれソファに座り、対面する形をとった二人。アンナは顔を伏せ、エリックは煙草に火をつけて彼女を睨みつけた。
「フーッ……」
「煙草? 吸ってる所、初めて見た」
「悪い……苦手か?」
「別に。そんなこと一々気にするな」
「何を怒っている?」
「怒ってなどいない」
パッと顔を上げたアンナの目に溜まった涙を、身を乗り出しエリックは拭う。困惑したアンナは動くことが出来ず、開いた口も塞ぐことが出来なかった。
「言っただろ、休戦だと。俺もその間、お前が仇だということは忘れる。責任は取る」
「……またそれか」
「落ち着くまで、俺に甘えればいい。臣下達に弱い姿を見せられぬなら、俺が──」
「うっ……」
はらはらと、アンナの目の端から涙が零れ落ちる。拭っても止まらぬと諦めたのか、彼女は拳を握りしめ、できるだけ静かに泣いた。その隣にエリックが腰を下ろす。
「泣け泣け、俺の腕の中で好きなだけ泣け」
「馬鹿っ……」
「辛かったことの記憶はすぐには消えん。俺もそうだ。泣いて少しでも楽になるのなら、好きなだけ泣けばいい」
「ううぅ゙……もうやだ……」
「何が」
煙草を指に挟んだまま、アンナの頭を撫でてやる。
「こんなこと、知りたくなかった。殺しの中だけで生きているほうが、ずっと楽だった」
「本当にそうか?」
「……え?」
「殺ししか知らない人生など、虚しいだけだ。友を作り見聞を広め、他人に──……様々なことに興味を持つことも、まあ、悪くはないと俺は思う」
「でも、男の事情など……」
「大人になったのだと思えばいい。子供のままでは知ることが出来なかっただろ。人は、ずっと子供のままではいられない」
「……お前の言う通りかもしれないな。デニーも似たようなことを言っていた」
ふ、と持ち上がった瞼。妙に艶っぽいその視線に、エリックの心は掻き乱される。
(こいつ……人の気も知らないで)
スッとアンナの体を抱えたエリックは、そのままベッドへと足を進める。アンナの体を横たえると、自分はベッドの足元に腰を下ろした。
「少し寝ろ。俺はここで休む……何かあったら声をかけろ」
「……ありがとう」
「別に……」
これ以上、心の内を掻き乱されるのは御免だった。先程彼女に口づけてしまったのは自分からであったし、その後の蕩けるような顔を見て昂ってしまったのも事実。
(クソ……思い出すな、あんな顔)
アンナの瞼が下りたのを確認すると、エリックは煙草を握り潰して目を閉じた。手の中で灰に帰したところで、慌ただしく叩かれる部屋の扉。その音にアンナは慌てて飛び起きた。
「誰だ」
返事をすると扉が開く。慌てた様子のシナブルが、部屋の入口で頭を下げていた。
「母から連絡が入りまして、レン様とフェル様がご帰国なさったようです……!」
「兄上が……?」
「はい……! あの、姫……このままでは」
「わかっている。すぐに戻る」
ベッドからすぐに抜け出したアンナは、目元を拭って身なりを整えながら自室へと戻る。兄にこんな所を見られでもしたら、どうなるか──想像もしたくなかった。
「おい、アンナ」
エリックは立ち去るアンナに声を掛けるが、彼女は黙って振り返り首を横に振るだけであった。取り残されたエリックは、ベッドに背を預けると、新しい煙草に火をつけた。




