2 無知でありたかった世界
時刻は、15時15分前。
無駄な時間消費を嫌う担任のおかげで、大地は今日もどの生徒よりも早く下駄箱に到着した。
(はぁ…今日もダメだったか。)
猫田さんとの接触を試みてはや2週間。未だに進展はない。
彼女の1日はまず、朝の5分前着席。小休憩や昼食時間は、簡易な飲料ゼリーや栄養補助食品を自分の席で手早く済ませ、スマホを見たり仮眠を取ったりしていた。帰りの時間は、人が空くまで待機して、その後早歩きで帰ってしまう。
席が離れている分、わざわざ知り合いでもない大地が訪ねるのも不自然なので、出来れば教室の外で話をしたいのだが、観察力が足りないのか彼女にその隙がないのか、未だに挨拶すら出来ていない。
「楤井、来なさい。話がある。」
予想していなかったその声に、体全体が振動する。嫌な予感がしたが、反応せざる負えなかった。
「毎朝遅刻してる様じゃあ、この先苦労するぞ。」
大地は玄関前からすぐ近くの教室へ連れ込まれ、かれこれ30分近く捕まっている。相手は生活指導の剛力先生。柔道部の顧問を務める彼が部活動先に向かうところで運悪く出くわしてしまったのだ。
途中、バイトがあると抜け出そうとしたが、以前提出した変更届けとの誤差を指摘され事態を悪化させてしまった。
「学生の本分は学業に専念する事。進学就職に向けて貯蓄をしたいという理由があるのは立派なことだが、先を見据えて過ぎて今を疎かにしてはいかん。」
確かに、3年生になってからバイトを増やして寝不足気味になっている。そのせいで寝坊することが多くなったのは事実だ。大地は元々朝が弱く、1年の頃から遅刻気味で裏道からこっそり登校していた
が、頻度が高くなり見つかってしまう今、その手も通用しなくなってきた。
「このままじゃ、内申に大きく響くぞ。」
ギクリと反応した。進路に対してナイーブになるこの時期に、そのワードはどんな説教よりも効
く。
「すみませんでした。」
その様子を見て、満足のいく反省の意を感じとったのか、1週間の猶予付きで釈放された。アルバイト先に相談して、私生活も改善するようにと最後につけ加えられ若干の不満が生まれたが、《禁止命令》と最後の切り札を出されてしまう前に何とかしなくては。高校3年の学生には、従順になる他に道は残っていないのだ。
「どうしたもんだか…」
無理に頼んでまで時給の高いシフトを組んでもらっている以上、切り出しにくいが内申点を人質に取られてはそうも言ってられない。今日にでも店長に話そうと前向きな計画を立て、帰り路を急ぐ。駅が見えてきた所で駆け足で荒ぶった息を整え、電車の時間を確認しつつホームへ向かう。
その時だった。
「あれ?この子…囚人校にいたやつじゃん」
聞いたことのない物騒な学校名が耳に入り、進行方向へ目をこらすと、見知った顔が二人いた。
猫田を挟むように、高橋と他校の女の子が何やら話している。珍しい組み合わせだなと楽観的に思ったが、その場の雰囲気は遠目から見ただけでも明らかに軽いものでは無かった。
「そうだよ。あの犯罪者んとこでバレーやってた奴だ。」
「やっぱ?マジウケるんですけど〜。」
「先公も親も、仲間のこいつらでさえ目の前でいたぶられてる部員に知らんぷり。自分可愛さに他人を売ってやるチームプレーは楽しかったかよ?」
捕らえた獲物を袋叩きするように罵声を浴びせられ蹲る少女を、通行人たちは横目で見たり、何も何事もないようにスルーしていく。中には遠巻きに眺め、スマホを構える野次馬もいた。
(何だよこれ…)
「怪我して辞めたって聞いてたけど、体育の授業中普通にしてたし…本当は逃げ出しただけなんだろう?」
彼女は、時々醜悪な薄ら笑いで近づく高橋の気配にビクッと反応しながら、口を押さえて丸まったまま動かない。大地も地面に足が縫い付けられた様に身動きが取れずにいた。
「退部した人間が普通に学校生活送れるほど、生温くねぇってのになぁ?」
「抜けた部員は、卒業までずっと監視されるってやつでしょ?私ぃ、絶対耐えらんなーい。」
「辞めた部員は、教師からは問題児扱い。他部員や生徒からは、謀反者としていじめられたり腫れ物扱い。あっという間に、学校という名の囚人を閉じ込める牢獄に早変わりだ。」
(...何なんだよそれ)
「その上ぇ、親も見殺しにしてたんだから~。はっ、家にすら居場所ないとかひさーん。よくそれで生きてられたよねー。」
その場に釘付けにされながら、想像した。
彼女の中学時代、置かれていた環境を。
「...う...っぷ......おぇっ」
経験してない第三者が、話を聞きその惨劇をイメージしただけで吐き気を催す程の闇。無知でありたかった世界が広がっていた。
俺の中学校生活は朝起きて学校に行き、授業終えると部活に向かう。平凡で嫌気がさすことはあっても、危険とは無縁な日々だった。改めて記憶を蘇らせると、自分はなんて恵まれていたのか、彼女にとって普通の幸せとは蜘蛛の糸を掴み、天空へ上る事より難しいものだったのかも知れないの
に…。
否、救いの糸すら彼女のいた地獄には垂れていなかったのだ。
「おい、黙ってないで何とか言えよ!」
ドンっと、強く突き飛ばされた肩が半身を上げさせ、彼女の横顔がまだ明るい日の光に照らされ
る。瞳は固く閉ざされ口元を両の手でしがみつく様に覆い隠し、微かに見えた鼻から上の部分が普段教室で見かける健康的なものではなく、脂汗を額に浮かべながら痛々しいまでに青白い色をしていた。
「ちょっと、こっちに来ないでよ!」
女に足蹴りされた横腹は、ドスッと重い音を立て異物が深くめり込んだのを耳に伝えてきた。それと同時に、小さく揺らめいた身体は左に大きく倒れそうになる。
その瞬間、自分の全身の皮膚が逆立ったのを感じ、脚は地面を抉る様に蹴っ飛ばす。
(走れ、彼女の元まで。
間に合え…いや、
滑り込んででも間に合わせるんだっ!!)
全身全霊、120%の力をフルに稼働させ、大地は死に物狂いで彼女の元へと駆け出した。
「うおぉおおおおおっ!!」
彼女の頭と地面の間に自分の手のひらを滑るこませることに成功した大地は、素早く彼女の体を抱き上げる。予期せぬ邪魔者に入られた事で、高橋は舌打ちをし同時にその人物が大地である事に面食らっていた。
「ねぇ...ちょっとヤバいかもよ。」
女は周囲のギャラリーに気づいたようで、高橋の袖を引っ張る。怖気付いた高橋はその場から立ち去って行く。
「...あの?」
大地の腕の中にすっぽりと収まっている猫田は、状況が上手く飲み込めていないのか、暴れることなく大地の顔をのぞき込んだ。
「君たち、そこで何をやっているんだ。」
騒いでいる高校がいると苦情が入った駅から、駅員が様子を見にきた。その登場に人だかりも少しは散っていたが、中心に立つ大地達を見つけ近付いてくる。
「ひっ...逃げ...なきゃ。」
駅員の姿を確認した猫田がその身を縮め、脱出を試みようとした時、突然、大地がホームとは逆方向に走り出した。ガクンッと自身が揺れた事で咄嗟に大地にしがみつく猫田。
再び目を開けると、先程の駅員が慌てて何かを叫んでいたが、それすら聞こえないほどに2人との距離はぐんぐん離れていった。
抱きかかえられた猫田は目の前の男が一体誰で、どこに連れていかれているのかとあたふたしていたが、学校の校門前が見えると、知った場所に着いたことにひとまず安堵した。
正面入口から土足のまま、2回へと駆け上がる。階段を上る際、下を見てしまった猫田は落とされないように大地の首に腕を回してしっかりと固定させた。
大地の片足で器用に開けられた教室は3年A組。
そこでやっと立ち止まった不審者に、猫田は勇気を振り絞って声をかけた。
「...下ろしてくれませんか?」