プロローグ
「下ろしてくれませんか。」
その声にハッとした青年は、咄嗟に抱き抱えた少女を机の上へ慎重に置く。
彼女は質問だらけのこの状況で、何を問いただすでもなく黙ってローファーを脱ぐと床に仰向けで寝かせた。その様子を見て、自分も土足のままだった事に気付いた彼は、慌てて習うように横へスニーカーを並べる。
そのまま床に膝をついた形で彼女の顔を見上げ、その口が開く前に己の額を固いフローリングへ高速で打ち付けた。
「ごめんっ!!」
無力で情けない自分の不甲斐なさに、頭の打撃より精神のダメージの方が大きく、彼はうめき声ひとつも出さない。いや、出せなかった。
「...頭を上げてください。」
彼女はその奇行に少しの動揺を見せたが、すぐに持ち直して誠実な対応を心掛けようとする。
しかし、謝罪の気持ち半分、恥ずかしさ半分で顔面を隠したかった彼は、その善意に答えられなかった。
西の空が茜色に染まり、電線にとまったカラスの群れが夜の訪れを告げている。
静まり返った教室に2人。運動場から野球部の掛け声だけが響き、ただただ心地の悪さを促進させていく。
地に伏す彼はそのいたたまれなさが極限に達した時、混乱した脳で生まれた言葉が口から飛び出した。
「きょっ協力関係になってくれないか!」
「は?」
想定の範囲外からの奇襲にうっかり取り繕う事を忘れた彼女は、低いトーンの疑問符を浮かべた。
そんな変化はお構い無しに、彼の言葉は続く。
「俺は楤井大地。今年、君と初めてクラスメイトになった。でも、君の事は以前からずっと気になってたんだ。」
「だからなんですか。」
「協力して欲しいいんだ!」
「だから何に!」
最初だけ聞くと男子高生が告白するお決まりセリフのようで、彼女も3次元で無ければうっかりときめいていたであろう。しかし今は現実世界の、先程まで授業を受けていた自分の教室で、名前すら覚えていない自称クラスメイトを名乗る男と2人きり。そんな状況に、違った意味で彼女はドキドキしていた。
「とりあえず、落ち着いてください。まだ、完全下校まで時間はあります。」
自分にも言い聞かせるように、興奮を抑えゆっくりと大地をなだめようとする。
彼女の都合上、不利益な人付き合いはゼロにしたいのだが、この厄介極まりない問題を先送りにしても帰ってややこしい事になるだけだ。己の中の面倒くさがる自分を説き伏せ、進展を試みる。
先ずは、お互い隣合わせの席に座り向き合う。整理がついたらでいいのでと付け加えて相手の出方を待った。
しばらくして、大地は事の始まりを語りだした。
駅で、彼女を見かけて話を聞いてしまった事。
それは、以前にも噂で耳にしていた事。
助けたいという思いだけでとっさに動いた為、勢い余って連れ去るように学校へ避難し今に至る事。
一区切りごとに謝罪し、いたずらや危害を加えるつもりが無いことを精一杯アピールした。
「怖がらせるようなことをして、本当に申し訳ない。」
大地は深々と頭を下げて、今度はすんなりと頭を上げた。
彼女は、無表情ながらも真剣に聞いてくれていたようで、目が合うなり小さく頷いて
「公共の場で騒ぎを起こしていた自分にも非はあります。それに、説明不足だったとはいえ、あの場から助け出してくれたのは事実ですし。こちらこそ不快な思いをさせてしまい、すみませんでした。」
と礼儀正しく綺麗なお辞儀をしてみせた。
まさか、謝り返されるとは微塵にも思っていなかった大地があたふたしていると、彼女は顔を上げ
「それで、''協力関係''とはどう言った意味でしょうか?」
と冒頭から気になっていたであろう質問をやっと投げかけることが出来た。
噂を知ってから密かに組み上げていた計画。大地は、空想で終わるだろうと半ば諦めていたがチャンスが向こうからやってきのだ。
「俺も、1つ噂があるんだ。それは、ほぼ事実で今もトラウマになっている。」
トラウマというワードに、彼女の右肩がビクリと反応する。とっさに隠そうとしたが、その動作含めて見てしまった大地は確信を得た。
「今までは避けていれば良かった。でも、これからはそうもいかなくなる。俺も…君もいつかは克服しなければと思ってるだろう?」
「っ?!ーーお前に何が分かる...克服するだ?出来るもんならやってるさ!」
ガタンッと乱暴に立ち上がると、怒りまかせに素の口調が出ている事に気付いて苦い顔をすると、再び椅子に腰を下ろした。鋭く睨みつけた瞳は大地に向けられているが、視線は合わない。
「こんな話、そう簡単に友達へ相談できない。家族なんてもっての外だ。だから…」
「だから、なんですか?」
「同じ境遇同士の君となら、話し合って改善策を見るけていけるんじゃないか...と......思いまして。」
本当は、同じクラスになったのを期に、考えうる最善のタイミングで彼女と接触を図るつもりだった。
その作戦を駅前に捨てたのは己の意思だから後悔はない。
もう、この計画に必要不可欠な彼女の好感度はゼロに等しいだろう。絶望の中、発する言葉から力が抜けていき情けなさから涙が滲むのをぐっと堪えた。
長い沈黙の後、彼女はため息をつき席を立つ。
ダメだったか…。
そんな絶対的な諦めに顔を覆い、大地も小さく息を吐く。
すると、いつまでたっても足音や、ドアを開く音が聞こえない事に違和感を覚え手をのけた。
目の前には、左手を突き出した彼女が大地を見下ろしている。相変わらず目線は合わなかったが、暗闇に差し込む光へ縋るようにその手を取ると、軽く握り返された。
「いくつか提案があります。」
信じられない好転に耳に入った言葉を疑ったが、掌にある小さな思ったより硬い感触がそれを晴らす。
小躍りしそうになるのを心の内に押し留め、
「協力関係を申し出たのは俺からだ。出来る限り受け入れよう。」
「いえ、だからこそ平等でなければありません。」
ピンポンパンポーン♪
不意に、アナウンスが流れ2人してその方向を向いた。完全下校のアナウンスだ。
「先ずは出ようか?」
そう提案して、いつもの癖で机横のフックに手をかける。
が、そこにはいつもの取っ手はなく、そもそもこの席は自分の場所ではなかったと納得したところで
「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
と悲鳴にも近い叫び声を上げて、彼女は廊下へ飛び出した。
「えっ...何?ちょ...まっ...どうしたんだよーっ!」
2人分の靴を両手に持ち、後を追う。
ぐんぐんと離されるその距離に、自身の体力のなさを痛感しつつ横腹をかばいながら前へ進んだ。
下駄箱の前で立ち止まった彼女を見てほっと一息つくと、青色の簀子の前に靴を並べ先に履き終わる。
呆然と立ちすくむ彼女の顔は、相変わらず無表情だったが顔面蒼白になっていた。
「...きた。」
「え?」
「荷物...置いてきた。」
頭から血の気が引き、自分では確認しようがないがきっと彼女と同じく青白くなっているに違いない。
その後、2人は会話することなく全速力で駅へと向かった。
東の天上は幻想的な色に染まり、下の地上では建物からもれた人工的な光がポツポツと灯り始める。
条件に恵まれた素晴らしい蒼き空は次第に濃くなり、儚くも黒へ塗り替えられてしまう。その景色は人々を魅了し、同時にその心をかき乱すのだろう。
そんな絶景には目もくれず、若者達は目的の場所へとひた走る。
一体、彼らはどんな噂をまとっているのか。核にあるトラウマを、どのようにして打ち砕いていくのか。
進む先にあるのは、希望の夜明けか。絶望の常闇か。それは誰にもわからない。
ただ、頭上に広がるブルーモーメントはその門出を祝うかのように美しく、その壮大な姿で彼らを見守っていた。