3章
はあ、はあ、はあ
吐き出す息が荒い。
深く被った灰色のパーカーが、顔を覆い隠す。
いや、もともとは違う色だったのかもしれない。よくよく見れば、パーカーが、無数の泥と、赤いもので汚れきっているのが分かる。そして、僅かに除く口元にも。
「何でこんな目に合わなきゃいけないの!!」
その悲痛な叫びは、しかし、悲しい程小さな音にしかならなかった。
心臓は壊れそうな程叩きつけ、肺は少しでも多くの酸素を取り込もうと必死になっているのにも拘らず、少しも体内に入ってきてくれない。
それが、どれほど続いているのだろうか?
「もう、ダメ・・・」
ビルの角を曲がった瞬間、足がもつれ、無様なほどに転がってしまう。
でも、もうどうでもいいや・・・
そんなつぶやきが、思わず零れ落ちる。
小柄だった。150センチあるだろうか。仰向けに大の字に寝そべったその目が捕えたのは、ただただ真っ青な空。
ギリッ
そんな音が聞こえた。
パーカーから覗いた口元から、赤い筋が零れ落ちる。
「違う! ダメだけど、ダメじゃない・・・ まだ、まだやれる・・・」
小さな、しかし断固とした言葉が真紅の血と共に溢れ出る。
「・・・消えろ! 消えちゃえ!!」
その瞬間、その言葉を発した存在自体が、消えてなくなっていた。
言葉の余韻さえ打ち消すかのように。
数秒後、そこには無数の足音が鳴り響いていた。
しかし、ただ、鳴り響いただけ。
硬質の響きを持った足音は、そのまま靴の素材を表していたが、立ち止まる事無く、やがて消え去っていった。
ただ、一筋の血痕を残して・・・
血痕を?
いや、違う! まるでその血が存在の証明であるかのように、消えたはずの人型が浮かび上がって来たではないか!
「ははは・・・ ばーか・・・」
響き漏れた言葉に、力は無い。
もはや、立ち上がる体力も、気力さえ、尽きているのは明白だった。
「・・・何してるんだろ、いったい・・・」
「それはこっちのセリフだ?!」
消え失せそうな言葉に、別の言葉が被さった。
「えっ!!」
しかし、もはや何も出来ない。何も出来ようはずがない。大きく見開いた瞳が捕えたのは、相変わらずの真っ青な空と、逆光に塗りつぶされた男の顔。
反射的に立ち上がろうとして、意思に反して体が少しも動いてはくれなかった。
そして、その意識さえ、遠くに霞んでいくのを感じる。
・・・こんな終わり方・・・ 嫌だ・・・
ピクリと小指が2回、地面をひっかくように動き、そのまま停止した。
「ったく、なんだってんだ。倒れるなら他でやってくれ・・・ って、ダメか、こりゃ・・・」
男が倒れている腕を取ったものの、そこには力のカケラすら残っていなかった。
「ここで死なれると迷惑なんだよ」
男は、本当に迷惑そうに独り言つと首元をポリポリと掻いた。
「ケイ! こいつを運んでくれ!」
「はいよ!」
すると、どこからともなく声が湧き上がり、小さな人影が浮かび上がった。
「あーあ、こんなになっちゃって。生きてるかな?」
そう言いながらしゃがみこむと、頸動脈に手をあてる。と、その拍子にフードがめくりあがり、顔が零れ落ちた。
現れたのは、ロングヘアの少女。血が足りていないのか、白磁のような真っ白な肌に、ほんのりと朱をさした唇が、かろうじて生の証を示していた。
「女の子かぁ・・・ 嬉しい?」
その声は、むしろ楽しげな色を帯びていた。
「バカ言ってないで、連れて帰るぞ!」
「はいよ。でも、ラッキィだね、この子」
「そうか? 必ずしもそうとは言えないだろ」
「自分から言ったくせに! でも、ぼくは嬉しいよ」
苛立つような男の声に、しかし、答えた側はそんなのは全く意に介していないようだった。
いつもの受け答え。慣れ親しんだやり取り。そんな印象を感じさせる。
「ほら、いくぞ!」
そんな場を切り上げるように、男が声を上げる。
「あいよ!」
その声だけを残し、いつの間にか何処ともなく姿が消え去っている。
倒れていた少女の姿さえも・・・
後には、ただ、一陣の風だけが舞い散っていた。