第82話 初挑戦
困った困った、北斗の次の原稿どうしよう、と焦り始めたとき、中日新聞サンデー版の『イカと日本人』に目が止まった。「世界有数の消費大国」「主な郷土料理・食材・加工品と漁師おすすめのイカ」という見出しで特集されている。
その中で注目したのが、アオリイカについての記事だ。「イカ類で最も高値で取引され、――」と。そうなのだ、幸盛が釣りキチだった頃、その刺身の美味さとスリリングなやり取りで、アオリイカ釣りにハマッタ一時期があったのだ。
今からおよそ二十年前の二月中旬のある日、幸盛が昼休みにタバコを吸っていると、ボランティアで来ている青年が通りかかって釣りの話題になった。彼は言った。
「アオリイカ釣りがおもしろいですよ。食べても美味いし」
「イカが陸から釣れるの? どこで?」
と幸盛はイカに食いついた。
「和歌山県の串本です」
「そいつはまた遠いねえ、紀伊半島の先端じゃないの」
あまりの長距離に気持ちが少々萎えたが、目の輝きは保っていたらしく、彼は得意げに続ける。
「紀伊半島では生きたアジを泳がせて釣るヤエン釣りが主流ですが、早い時期なら市販のイカリ針を使った奴で充分です」
「一度もやったことがないド素人なんだけど」
「本州最南端の串本は黒潮が近いですから、三月頃から釣れますよ。冬の間は餌の小魚が少なくて飢えているから、スーパーで売っているアジでも食いついてきます」
「いっちょう行ってみるか」
と、その気になり、思い切って、三月下旬の金曜日に半休をとり、職場から直接串本に向かった。
当時はまだ高速道路が勢和多気までしか行ってなくて、降りてから国道42号線を走るのだが、これがまた気が遠くなるほどに遠い。尾鷲辺りを走っていたらスーパーの看板があったので脇道に入り、その店で大きからず小さからずのなるべく新鮮そうなパック詰めのアジを四匹買った。
やっと串本の市街地を過ぎ、ボランティアの彼が書いてくれた略図を頼りに、車もまばらな深夜の堤防道路をゆっくり走る。彼の説明の的確さと幸盛の勘の良さで、それらしき小さな突堤は月明かりもあってすぐに発見した。堤防の切れ目から車で下りて行くと先客は誰もいない。まだ時期尚早なのかもしれないが、そもそもヤエンでのアオリイカ釣りは日中での釣りが一般的なのだ。車が数台駐められる場所はあったが、後からやって来るであろう何者かのために譲歩して、4WD車の特技を発揮して玉砂利の上に恐る恐る駐車した。
突堤の先端辺りに釣り座を構えたが、なにぶん初めての場所なので海の状況が分からない。しかし仕掛けは多めに用意してきたので、試しに浮き下を二メートル程にして、5・4メートルの竿を使いスーパーで買ってきたアジを仕掛けにセットして軽く投げる。潮はゆっくり動いていて、波間に揺れる大型の電気ウキは徐々に小突堤に戻って来る。
何度か投げ直して小一時間も過ぎた頃だ、ウキが突然海中に消えて見えなくなった。心臓がバクバクときめくが、急いては事をし損じる。ボランティアの彼は、しばらく待てと、アドバイスしてくれていたのだ。しかし、『しばらく』がどの程度なのか見当がつかない。幸盛は頃合を見測り、運を天に任せてエエイッと竿をしゃくり上げた。
するとどうだろう、イカリ針に掛かったようで、グイグイと竿を引っ張るからかなりの大物だ。幸盛は胸をときめかせながらリールを巻き上げて獲物を足元まで引き寄せた。そして懐中電灯で照らすと、大きなイカが逃げようともがいている。すかさず玉ノ柄を伸ばし、イカを玉網に入れようとするが、イカがあまりに大きいため、そして幸盛が焦り過ぎているためか、イカはバシュッと水を吐いて逃げてしまった。
落胆しながらリールを巻き上げ、イカリ針を点検してみると、イカの足(腕)の先端がちぎれて残っていた。しかし幸盛は決してあきらめない。釣り雑誌の記事で、一度餌にかじりついたアオリイカは味をしめて興奮し、何度でも餌に食らいついてくると書いてあったからだ。
新しいアジに交換し、突堤からさほど遠くない場所に投げ込む。するとどうだろう、まるで待っていたかのように、イカが再び餌のアジに抱きついて電気ウキを海中に引きずり込んだのだ。今度は二度目だからこちらも以前ほどには慌てない。前回より若干長い時間を置いてから竿を大きくしゃくるとズシリと手応えがありグイグイと引っぱる。今度こそ足の太い部分に刺さっていることを願い足元まで引き寄せる。
竿を下に置いて右手で道糸をつかみ、左手で玉ノ柄を伸ばして慎重に玉網をあてがうと、今度は入った。玉ノ柄を縮めながらイカを引き上げるがズシリと重い。玉網から出してイカの長さをスケールで測ってみると、頭の先端から二本の長い『触腕』の先までで一メートルちょうどの大物だった。
夜が明けてからやってきた地元のおじさんに声を掛けられたので得意げにクーラーボックスの蓋を開けると、おじさんはアオリイカを見て感心しながら言った。
「こりゃ、三キロはあるな」
幸盛はしみじみ思った。ビギナーズラックって、本当にあるのだなあ。