「溝鼠」
醜い溝鼠は溝鼠のまま。そうして、一生を終えることができたのなら、きっと、きっと。この世で最も幸福な生き物になれるのでしょうね。
腰程まである黒く長い外套が、暗く湿ったトンネルの中で蝙蝠の羽のように翻る。そんな黄泉の世界で私と面を向け合った我が師の影が、出口から差し込む真っ赤な夕日に照らされ、死人のように揺らめく。そして、その怪物にも似たおぞましい師姿が、私の落ち窪んだ瞼に爛々と映り込んむ。
天井から滴り、滑り落ちる細やかな水の粒が、ぬかるんだ地上に不規則に零れては涼やかな音を鳴らす。だけれどもそれは刹那の時。天で生まれ、宙で煌めいていたその個性は、やがて柔らかく無慈悲な土塊とぶつかり、溶けて消えて、後には何も残らない。彼らが生きていた事すら忘れられ、靴底に磨り潰されやがて我さえ虚空に消えていく。
「君は教科書と言う物を信じるかね?」
笑い交じりの甲高い師の声に眉を顰めながら、私は小鳥のようにお道化て小首を傾げた。本当は彼の意図することなど一から百まで、なんでもかんでもお見通しなのだ。生まれてから死ぬまでの事すら、彼のことならばなんでも。しかし、だからと言って私は何も知らぬふりをして彼に問うことを止めぬ。もしかしたら、もしかしたら。彼が私を裏切ってくれるのではないかと、それに期待してしまうのだ。しかし、彼が語るのはちっとも面白くない、私の事実。しかし、今はとぼけていたい気分なのだ。いや、私は年がら年中とぼけていたいのだ。フリではなく、正真正銘のおとぼけさんになりたいのだ。ただの阿呆になりたいのだ。もし、それが出来たのならば、この恐怖と自慰ばかりで満ち溢れた鬱屈した日々を、楽園の園に還られるはずなのだ。もしもそれが手に入るのならば、一切合切の醜い皮を脱ぎ捨て、真っ赤な血肉さえ土へと孵し、骨だけになった私は揚羽蝶のように淀んだ社会の合間を軽やかにすり抜けることさえ出来るだろう。
そうすることが出来たのならば、いかに幸せなことか。
そんなことを考え、前にも後ろにも進めぬまま一人呆然と立ち尽くす。そこには頭のてっぺんから爪先にかけて滑り落ちた、情熱というオイルで出来た水たまりの真ん中で。しかし、それではおかしい。おや、おや、これでは私の方が影法師ではないか。ならば、よろしい。では試してみようではないか、彼の方が私なんかよりずっと良く日々を生きてくれるか。説教臭い彼に。その為に消えるのならば私とて万々歳だ。
トンネルの終わりから差し込む橙に染まった空の眩しさに目を細め彼を見つめながら、私は切に祈る。彼が私になればいいと。どうか、どうか。私をそちらへ戻さないでくれと。
「君は教科書なんて、教師なんて、私の事なんて信じない。違うか?」
漆黒に染まった師の影が大袈裟に首を傾げながら、人差し指で天を指し示す。その指先を見てしまったら、もうどこへも行けぬ気がして、私はただ黙って真正面を見つめるしか出来なかった。しかし、そんな私の事などお構いなしに彼は真っ赤な口をぱっくり開け、こう続けた。
「そうでなけりゃー、今頃は。綺麗なおべべを身に纏い、美味しいまんまでも食い荒らしながら、人の温もりに溢れた布団に埋もれてただの腑抜けにでもなってるだろうな」
「私は君の言う通り腑抜けだ」
「ほざけ」
「やめろ」
手足が震え出し冷たい汗が背筋を這う。その不快な感触を拭う間もなく、彼は淡々と言葉を並べていく。
「だがお前は違う。お前の今の格好はどうだ? お世辞にも綺麗とは言えないただのぼろ布じゃないか。その姿はまるで溝鼠じゃないか。後ろ指刺され、石を投げられ、嘲笑われる地中を這いずる溝鼠そのものじゃないか!」
「やめろ!」
師が甲高い声を上げ愉快気に笑い出す。それから彼の影が大きく両手を広げてゆっくりとその場で回った。子供のまま決して大人にはなることの出来ない彼の黒い外套がドレス端がひらめく様に宙へと伸びる。
「それともなんだ? 今からその長く伸びた尻尾をちょん切って、可愛らしく小首を傾げで人間様に媚びへつらい笑みを浮かべるハムスターにでもなってやるのか?」
一体いつの間に、どこから取り出したのだろうか。気が付けば向かい合った彼の手には皺の寄った原稿用紙が一枚。それは見た目だけ美しい規則によって並べ立てられた、細やかな文字の塊だった。それから文字の書かれているところ以外には一点の染みもない、まるで新品のような紙であった。それを彼は汚物を扱うように、親指と人差し指で摘まみ、頭上で風の行くまま気の向くまま、ただ自然に任せて宙で遊ばせている。その紙切れから発せられる何とも言えぬ不気味さに耐え切れず、私はそっと首を持ち上げ、先の見えぬ黒に塗りつぶされた黒のその先を見つめ、しまったと思った。
チクショウ。やられた。
両目を閉じ、浮かび上がったつい先日の自分に舌打ちする。
手垢塗れの木の板にわざとらしく両手をつき、したり顔であーだ、こーだ、と。話を進めるは芋虫先生。頭でっかちで、自分が蝶になれなかった事をひた隠しにし、蝶とは何たるかを語るその滑稽な姿。嗚呼。私は一体。
広げたノートに綴られた汚れた川に浮かぶ藻によく似た色の黒板を写しただけの無意味な文字。形だけ、色だけ整った。誰にでも作ることの出来る在り来たりな言葉達。それに一体何の意味があるのだろうか? 頭を垂れ、自分の主張さえ第三者の目を気にしながら。そんな拡声器の無駄遣いのままでいるつもりか。
私はこのままで良いのか。こんな私に何の意味があるのか。否。ならば、私は。
耳が溶け出し私の頭の中が静かになる。
その時。私の眼前に糸のような一筋の雨垂れが。夕日を受け花火のように四方八方へ煌めきを放ちながら滑り落ちた。彼の瞳が私の元へと舞い戻る。
私は宙に浮かぶその一粒を、生臭い温かな空気の代わりに口の中へ、喉の奥へ、私の中を満たすように浸み込ませていく。
苦い痛みが喉の奥に張り付き私の耳を、目を、脳髄に人間に虐げられたあの屈辱を鮮やかに蘇らせる。
そうだ。これだ。これだった。私はなんて愚かなことをしようとしたのだろうか。
それから私達を祝福するように次から、次へと。私と彼を取り囲むように上へ、下へ、右を、左を、雨粒の花火が身体を燃やし輝きを散らしていく。その神秘的な光景に目が眩む。
赤。橙。黄。炎が燃え上がり揺らめき色を変えていく。さらにそいつらは柔らかく透明な水に包まれ、虹色に反射し闇の中を優しく照らし堕ちて逝く。否。彼等は昇っているのだ。そうして彼等が溶けていった私の足元へと目をやって小さくほくそ笑んだ。
そこには私達がいた。
その踵の高い黒いブーツを飲み込むような漆黒に私は酷く安堵した。もうこんなことしなくとも良いのだ。裸足で駆け回っても構いやしないのだ。むしろその方が良いのだ。
死を目前とした物が感じるその安心感。しかし、同時に私の中からむくむくと湧き上がって来た嫌悪感と、全身を内側から引き裂くような鋭い痛み。まだ私は死ねない。死ぬ訳にはいかぬ。
嗚呼、これだ。
ようやく全て思い出した。長らく心地良い仮初の幸福に浸りすっかり蕩けてしまった脳味噌が息を吹き返す。
顔をゆったりと正面へと戻す。師の真っ黒な瞳が揺れ動く。そう、あれは恐怖だ。私に対する人々が感じる全てだ。
「チュウ」
筋が細かな音を立て、千切れてしまいそうな程上に上げた唇の端が彼の瞳越しに私の目にも映し出される。そうして、そのまま彼の元へと私は歩き出す。
一歩。また一歩。近づく度に彼の姿が小さく、小さくなっていく。もう影法師は消える時間なのだ。そうして最後には、彼はすっかり縮んでしまって鼠程の大きさになってしまった。
手足はふっくらと短く、そうして頭はまあるく。目もまあるく。
本物の子供に戻った彼をそっと、宝物を扱うように優しく摘み上げて、そして、そのまま、口の中へと放り込む。
ちゅう。ちゅう。ちゅう。
チュウ。チュウ。チュウ。
ちゅう。チュウ。
チュウ。
一回、二回。小さな骨を、臓物を、薄汚く黄ばんだ歯で突き刺し、磨り潰していく。そうしていく度に上がる甲高い悲鳴は一体誰のものか。暗く湿った薄汚いこの場所で、私は目を細め鋭く光らせている他生きていく術がない。それは、とてもとても骨の折れることだ。しかし、今更それ以外の生き方をしていける程落ちぶれてもいない。腐りかけの血肉を履き散らしながら日々を這う。
甲高い悲鳴は鳴りやまぬ。しかし、これで良いのだ。
良く熟れた果実のようにまあるく甘ったるい幼い肉塊を飲み下し、大人になった私はトンネルを抜けた先。目が眩むほどの光の下へと歩み続ける。途中、子供の私が残していったあの原稿用紙を彼のいた水たまりの上に見つけた。それは風に押され水面の上を花弁のように揺らめいた。腰を折り曲げ、大雑把に腕だけ伸ばしてそいつをひょいと摘み上げる。
美しくなんてなかったのだ。全ては夢、幻。弱者の逃げの手段でしかない。
泥水ですっかり汚れたその紙を一心不乱に細かく、細かく、千切っては後ろに捨てながら闇の中を闊歩する。
赤と青が入り混じった夕焼け空。誰そ、彼そ。その時分。私は夢を見た。そして目を覚ました今、その輝きに目を細める。
そうしてトンネルを一歩だけ出たところで歩みを止める。氷が冷凍庫の中で固まっていく時のように少しずつ凍えていく秋の風が、無造作に伸ばされた長い髪を攫って行く。
私は黒い外套を翻しながら、私が通って来たその悪夢のような道へと、掌に乗せた最後の一欠けらをそっと吹き飛ばす。それからまた、チュウと一声上げて、私は私にキスをした。
ちゅう、と一鳴き。
そうして彼の心臓が私の元へと舞い戻る。
前とは違うかもしれませんが、ようやく息の仕方を思い出した、そんなような気がします。醜く、でも、前向きに。そんな物を書いていきたいです。