8
「で、これが宿、ねぇ」
山頂の宿に着いて、カウンターでイリーヌさんが宿泊費用を払う間、ロビーとなる空間を眺める。
一言で言うと、ボロかった。
見る箇所見る箇所、何かしらの傷が目立つ。
床がささくれ立っていたり、壁に穴が開いていたり、テーブルの端が欠けていたりと、おおよそ宿泊施設の顔である、入り口に存在して良いものではない。
ただ、どうやらこの宿も、単なる宿泊施設というわけではなく、飲食店も同時に経営されているようだ。
それもそうか、と考え直す。
外を見る限り、この地域にある建物は、この宿ともう一軒、恐らくは警備隊の詰め所であろう。
先ほどの八人の冒険者は、山頂に着くと俺たちと別れて、そちらの建物の中に入っていった。
「さ、部屋が取れたよ。行こうかユキちゃん」
カギをチャリと鳴らして俺を呼ぶ。
そしてそのままスタスタと先に行ってしまう。
置いていかれてはかなわない。慌てて後を追う。
「ちょ、部屋番号とか聞かせろっての」
「んー? 二人部屋なんて一つしかないからね。一番大きい部屋だよ。それでも狭いんだけど」
「ドアだけで中が分かるかっての。せめて場所くらい教えてから動けよ」
「行こうかって誘ったじゃないか。どうせ着いてくればすぐに分かるんだしさ」
「そりゃそうだけどよ……」
「何なら手でも繋ぐかい?」
口元を歪ませ、目を蠱惑的に輝かせ、両手を一度合わせたあと、そっと左手を差し出してくる。
反射的にその手を取ろうとして、思いとどまる。
何が悲しくて、この年になって手を繋いで歩かねばならんのか。
俺は両手を広げ、顔の横でひらひらと振る。
「やめとくよ。さ、連れて行ってくれるんだろ。案内してくれ。イリーヌさんが扱き下ろす部屋を見てみたい」
「あら残念。それじゃあ着いてきておくれよ。こっちさ」
ロビーを少し奥に行ったところの螺旋階段を登り、二階へ。
ロビーの上は吹き抜け構造になっているため、部屋は片側と奥に合計五つ。
三階以降もあるみたいなので、立地の割に規模はそこそこ大きいような気がする。
それもそうか。山越えを考えた場合、首都側にしろ街側にしろ、どちらに進むにせよ中途半端な距離なのだ。
下山の最中に夜を明かすことなど、普通はしたくない。となれば、ここで一泊するのは十分に選択肢に入る。
そういった旅人を余さず受け入れるには、ある程度の広さが必要なのだろう。
警備の人間も使っているかもしれないしな。
がちゃり、とドアを開けて、まず一言。
「くっさ」
何と言おうか。臭いが酷かった。
主に酒と汗の臭いだ。それ以外の臭いは流石に無かったが、この場に居るだけで酔いそうな臭気が充満していた。
「まずこの臭いに慣れないといけないんだよね。ここで泊まる連中は、大抵部屋の中でまで酒盛りするから、そういった臭いが篭るんだよ」
「窓開けようぜ、窓」
「ああ、それはいけない。ここの建物はグラスイーグル対策で……って、もう倒してるんだっけ。だったら良いのかな?」
「短時間だけなら良いだろ。その後開け放つかどうかは店主に相談しなきゃだけど」
ご丁寧に閂まで付けられた丈夫な雨戸をガラガラと開けて、外の空気を取り入れる。
そうやって日の光を取り入れると、次に目に付くのはベッド。
「……湿ってそうなんだけど」
「窓も開けられなかったからね」
「ベッド、足が折れかけてる気がするんだけど」
「気にならない程度だね」
「気になるっての。おーし、こうなったら徹底的にやってやんよ。イリーヌさん、ちょっと部屋の外に出ててくれるか。ちょっと掃除するわ」
「掃除なんて店主に任せなよ。客がすることじゃないさ」
「店主任せにしててこれなんだろうが! ここで寝泊りするってんなら、それ相応に環境を整えたいんだぜ?」
害獣の脅威があるから、あまり手入れできなかった、そういうのは単なる言い訳に過ぎない。
客商売のくせに殿様商売ができるような独占状態。これは許せない。
飯だけで宿屋が務まると思うなよ。おっさんの店を見習え。
とは言っても、俺、おっさんの宿に泊まった事が無いな。
まさかおっさんの店もこれくらい酷かったりするのだろうか。
宿泊客のほとんどが酔いつぶれた職人。部屋の環境など気にする者もおらず、最低限の看護や手当てができれば事足りる部屋。
……気にしないでおこう。
「ともあれ、大々的にやるから、しばらく俺一人でやりたいんだ」
「そこまで言うなら任せようか。折角二人で寝るんだもの、快適な部屋がいいよね」
そう言って部屋を出るイリーヌさん。ティトさんもいるんですけどね。姿見せてないから知りようがないか。
さて、これで誰に見咎められる心配も無い。
俺は目の前のベッドの元在るべき形を思い浮かべ、丁寧に破損箇所を直していく。
崩れきって強度が足りない箇所もあるが、そこは手持ちの端材――というかハードノッカーの武器の残骸――を使って補強していく。
湿ったベッドは小さな火と風を出して無理やりに乾燥させておき、篭った空気を風を送って強制的に入れ替える。
また、変な虫が天井裏とかに居ても困るので、虫除けのスプレーをイメージして部屋中に散布する。害虫であろうと何であろうと、一撃でコロリとさせる対虫用の毒ガス兵器だ。そこまでご大層なものではないか。
そうしたところ、出るわ出るわうじゃうじゃと。
さすがにGのような見た目の虫は居なかったが、それ以外の虫は大量に出てきた。主にベッドから。お前らはダニか、見たくもないもん見せやがって。
魔法でかき集めて、魔法で窓の外からはるか彼方に吹き飛ばす。もしかしたら遠いどこかの誰かに虫の死骸が直撃するかもしれないが、どうせ道中で風に流されていくだろう。地面に落ちた後は自然界の仕事だ。
次に床掃除だな。床は木製。破損は直した。年季はそのまま。
できることなら水拭きと乾拭きをしておきたいが、雑巾は流石に持ってきていない。魔法で代用できそうな気もするな。
だが、水拭きを店主の許可無くやって大丈夫だろうか。
「今更か」
既に大々的に色々やっているのだ。徹底的にやってやると宣言したのだ。やってやるさ。
俺は魔法で水を出し、モップ掛けの要領で床を磨くイメージを展開する。
魔法って便利。
それからも俺は徹底的にやった。やってやったとも。
既に部屋は入ってきたときのものとは様変わりしている。
ベッドは清潔になり、お日様の香りをしっかりと漂わせている。勿論虫の存在など許しはしない。
床は丁寧に磨かれ、ただ年季が入っているだけでなく、しっかりと手入れされた風格を纏っている。
壁の汚れも丁寧にふき取られ、そこからは何の臭いも発していない。
そして最後の仕上げだ。これは俺のイメージ力が全てであり、一夜限りの紛い物となるだろうが、それでも良い。
どうせ家具には影響しないし、あくまで雰囲気を楽しめれば良いからな。
「大体、これで良いか」
額の汗を拭い、一息入れる。
ほとんど魔法を使っていて、肉体労働というほどのものはしなかったが、精神的な疲労というものは溜まる。
おっと、ティトに聞いてみようか。
「なぁ、俺の魔力って、後どれくらい残ってる?」
「減ってるんですか?」
「減ってないの!?」
結構使ったと思うんだが、戦闘でもなければそんなものか?
いや、魔力の無い人は生活用の魔道具を使うだけで精一杯と聞いた。
俺の魔力量がやはり異常なのだろう。
と、ドアがコンコンと叩かれる。
「はーい」
「ユキちゃん、もう入っても良いかい?」
イリーヌさんだった。
「ああ、いいぞ」
そして部屋の様子を見て恐れ戦け。
ガチャリとドアを開けて、イリーヌさんが一歩目を、踏み出さなかった。
「あ、すいません。部屋を間違えました」
そして閉じられるドア。
「いや、ちょ、俺いるよね!?」
慌ててドアを開ける。
首を傾げるイリーヌさんが階段に向かっていた。
階層間違えたかなぁ、とか言いながら。
そこを間違えたくらいで、こんな部屋があるか。
呼び止めて、イリーヌさんを部屋に招く。
「ふふん、どうよ」
部屋の内装はガラリと変わっている。
白い漆喰の壁は、星空を思い起こさせるような色合いに変じており、さらには幽かな瞬きをも持っている。
窓は素材そのままの味を生かした木組みの枠から、王宮にでもいるかのような細工を施した白磁の枠に。
床も年季と風格を匂わせるフローリングではなく、大理石を思わせる硬質の美しさを持った光沢ある素材に変化しているのだ。
勿論ベッドもただの白いベッドではなく、天蓋付きの豪奢なものになっている。
まぁ、全部幻影なんだけどな!
「これは……どういうことだい?」
「ちょっとした幻影だよ。触ったら一発で分かるから、あくまで見た目だけ楽しもうって腹積もりだ」
恐らく、一番がっかり感が凄いのはベッドだろう。
一見柔らかそうなそのベッドは、座るとギシと音を立てながら、硬い反応を体に返す。
「ははは、これは面白いね! いや、見た目だけなら首都の高級宿にも劣らないじゃないか!」
「壁は正直やりすぎかとも思ったけどなぁ」
「これはこれで味がある。一晩限りの宿ならば良い趣向だと思うよ」
イリーヌさんも気に入ってくれているみたいで何よりだ。
「これも全部呪いなのかい? 聞いたこともない使い方だけれど」
「ま、大体そんな感じだよ。目に映る景色を誤魔化す呪いで、普通は自然の風景を映し出したりして隠れるための呪いだな」
嘘だけども。ティトの使う幻影を魔法で再現してみたのだ。
妖精族の秘術を、と物凄い顔で睨まれたけども、出来たんだから仕方ない。魔法万歳。
「これは寝るときが楽しみになったよ。衛生状況も雰囲気も、全く悪くない。初めてここの宿で快適に眠れそうだ」
「だろ? 荷台で眠りたくないし、宿泊費用も持ってもらってるし、これくらいは仕事のうちだ」
「あまり自分を安売りしないほうが良いよ、ユキちゃん」
口元に手を当てて微笑む。
その姿は年相応に若々しく、とても愛らしく見えた。年齢知らないけどさ。
「さて、それじゃあご飯の時間だ。食堂に行こうか」
パン、と手を打ち鳴らし、左手を差し出すイリーヌさん。
今度も手は取らずに、彼女の横を素通りして部屋を出る。
だから、何が悲しくて、この年になってまで手を繋いで歩かにゃならんのだ。




