アールグレイ
先輩が仕事を辞めた。辞めたというより、突然仕事場にこなくなったのである。机のうえに残された数々の書類、これからの予定の書かれたカレンダー、取引先からのメールの返信、粉末のコーヒー、それらは真城という先輩の命令によってわたしの手元にやってきた。要らないもの要るもの今すぐ調整が必要な予定やキャンセルすべき予定、その他諸々を見極めしかるべきところに振り分けよと真城さんは言った。つまり、面倒くさい部分を任されたわけである。
わたしは自分の仕事を差し置いて、まずカレンダーの問題から取り組んだ。先方が絡むからである。これがモチベーションの観点から言ってまずかったのかもしれない。何しろ辞めた先輩はなぜかとにかく予定を詰めに詰めてから、失踪してしまったようなのである。わたしは早々に半べそをかいた。
三日ほどしてカレンダーの予定はすべて書き換えられる。その間のわたし自身の仕事を残業して行っていたせいで、わたしの目の下にはへんな色のくまができていた。桃色とも青色とも言えないような、そんな色だ。がんばってコンシーラーで隠しているせいで、肌は幾らかがさがさになった。しばらくそのへんな色がひかなかったので、化粧濃くなったねと彼氏に言われた。
「お疲れさん」
わたしに鬼のような業務を放ってきた真城さんは、コンビニで買った百円のコーヒーを片手で揺らし差し出しながら、最後には先輩らしくわたしを労った。わたしは心ないお礼を言ってコーヒーを受け取る。真城さんはけだるそうに頬杖をついてエントランスの柵に頬杖をついた。吹き抜けとなっている眼下には白シャツやグレーのスーツがせわしなく行き交っていた。
「コーヒーのほうがおいしい」
「そりゃあ、そうだな」
真城さんは半開きの目をさらにほそめて笑った。どこに持っていたのか、彼も彼でコーヒーを飲んでいる。混ざり気のないブラックコーヒーは全面ガラス張りのオフィスの中で全身に光をあびてすこし透けていた。
わたしの仕事は、紅茶を売る仕事だった。企画室のホワイトボードの文字をひたすら書き留めたり、パッケージのデザイナーと連絡を取ったり、そういうことをするためにわたしは居た。紅茶はそこそこ売れた。おしゃれな見た目とそこそこ安い値段が功を奏したのだ。
不思議なことに、会社にいる人たちはコーヒーばかり飲む。茶葉の香りばかり吸い込んでいると、コーヒーの目の覚めるような香ばしさについ心を奪われてしまうのかもしれない。
カレンダーを片付けたばかりのわたしは、去った先輩の机に立ち寄り様々なものを処分した。お菓子とか、メモ帳とか、ペンとか。書類は、新品のフォルダーにまとめた。立ったり座ったり歩き回ったせいで、足の爪先はぎゅうぎゅうに押され巻爪が悪化するところだった。
その先輩の机の下に、段ボールが斜めに置かれていた。わたしはそれを片手で引っ張り寄せてひきずった。中を覗くと、ぼんやり埃くさい。光をあててよくよくみると、そこにはたくさんのパッケージのボツ案と、瓶詰めの茶葉が出てきた。ボツ案の日付は、埃っぽいにおいがするわりに新しかった。
瓶を取り出し、机の上にごとんと置いた。何のパッケージも施されていない無地の肌がきらりと光を反射する。
これは、処分すべきなのだろうか。
しゃがんだまま瓶と目線をあわせた。机の水平線の上に、それはずっしりと腰を据えて、ただ在った。
あれから一週間ほど経ち、去った先輩のありとあらゆる忘れ物をおおよそ片付けることができた。先輩の机はきれいさっぱり新品のようになり、しばらくその場所にあったが、やがて真城さんとその同僚が三人がかりでフロアの隅に追いやった。窓際で煌々と陽の光を浴びるその机は、なんとなくもの寂しかった。次のその机を使う人物を鋭意面談中であるそうだが、なかなか良き人は見つからないらしかった。
あれから真城さんは、わたしに色んな業務を振ってくるようになった。振ってくるというより、わたしからしたら押し付けにしか見えなかったのだけれど、とにかく色々と任せてくるようになったのだ。ホワイトボードにある文字を書き写していただけの時間はいつしかプレゼンをする時間に代わり、デザイナーと連絡を取るだけでなくデザインを選定するようにもなった。それは、前々から真城さんと辞めた先輩がやっていた仕事だった。わたしはプレゼンが苦手だったし、デザインの良し悪しがよくわからなかった。
あるとき、真城さんに叱られてしまったことがある。苦手なプレゼンを苦手なまま放っておいてしまったために、もう少しよく考えろと正論を突きつけられたのである。全くもって、その通りだった。わたしは何も言い返さずにひたすら悲しげに「はい」と百回くらい言った。いつだって気だるげな真城さんは、叱るときも例外なくアンニュイだった。怖くはなかったが、自分でも感じていたことをそっくりそのまま投げかけられたので、罪悪感や要領の悪さへの絶望などが大雨のように胸の中に流れ込んだ。土砂降りだった。
わたしはデザイナーとの打ち合わせ後、遅めの昼休憩を会社近くのカフェで取ることにした。時計は十四時半を回っていて、日差しはかんかんとしていた。店内はそれなりに混んでいた。
「たまごのサンドイッチを、アールグレイのセットでお願いします」
レジの順番がくるなりわたしはそう唱えた。このカフェではいつもこの組み合わせしか頼まない。コーヒーのほうが高いから、仕方なしに紅茶を頼んでいる。セットにすると何十円か安くなる。セット、と言わなくても、店員さんが勝手にセットにしてくれるけれど。
わたしは番号札を持って景色が臨める窓の席へ向かった。人の往来を眺めながらアールグレイを啜った。会社で飲む試作品より美味しいのはなぜだろう。こういうことを思っては悪いが、自社の製品のほうが確実に高級品のはずであるのに。
そういえば、先輩の遺品であるあの瓶に入った茶葉は、何の紅茶だったのだろう。ふと気になったわたしは、真城さんに叱られたことによる遣る瀬無さをその瞬間だけ忘れてオフィスに戻るなり机の上の瓶を手にとった。便の蓋をそっとあけると、よき茶葉の香りがふわっと広がる。先ほど味わった香りと近い気がした。わたしは左手に持っていた瓶の裏をふと見てしまった。答えが書いてあった。この茶葉は「アールグレイ」らしい。わたしは溢さないよう蓋を閉じると、また机の隅にその瓶を置いた。
わたしはそれから、努力だけはしてみようと思うことにした。ノー残業デーの終業後、帰りの電車の中で購入したばかりのハウツー本を読む。題名は「初心者でも完璧! 納得させるプレゼン術」だった。ページ数が多くて少し重い本だった。読むことで、いかにわたしのプレゼンがわかりづらい上に薄っぺらだったのかがよく分かった。ずきずき痛む傷口に塗りこむように、寝る前もひたすらそれを読んだ。また寝不足になって、へんな色のくまができた。化粧をすれば違和感なく隠れるのだが、やはり濃くなってしまってコンシーラーとファンデーションの減りが異様に早くなった。
次の週のプレゼンで、わたしは一応それを実装させてみた。安っぽいアイデアがいくらか立派に見えたので、わたしはそのとき結構驚いた。真城さんも眠そうな目を見開いていた。上司も同僚も手を口の前で組むのはやめて背をしゃんと伸ばしていた。でも、わたしのアイデアは採用はされなかった。結局は、案しだい。思い知らされる。
真城さんは、終わったあとまたコーヒーをくれた。エントランスの柵に肘をひっかけて、会議のときあれほど見開いていた瞼はいつもどおりの位置に戻っていた。真城さんがあんなに目を大きく開けるとは思わなかった。
「やっぱり、コーヒーのほうがおいしい」
「そりゃあ、そうだな」
いつかしたような会話をわたしたちは交わした。紅茶なんて、と不貞腐れると真城さんはゆるく小さく笑い声をあげた。頭を下げたままのわたしを見て真城さんは「ふう」と息を吐くと、柵につけていた肘を離してわたしのほうへ体を向けた。
「今日、飲みに行くか」
「いえ、結構です」
わたしはできるだけきっぱり言ってデスクに戻った。正直な話、泣いてしまいそうだったし、大酒飲みの真城さんと飲みに行くくらいなら部屋で大泣きしたほうがましだと思ったからだ。わたしはバッグを持って、昼休憩をとることにした。
「たまごのサンドイッチを、アールグレイのセットでお願いします」
お参りでもするかのように恭しく店員さんにお願いした。眼鏡をかけた純文学風の男性の店員さんは、慣れた手つきでレジに打ち込んでいく。言われなくてもわかっている六百十円をわたしはトレーの上にすでに置いていた。五番の番号札とアールグレイを渡されて、わたしは窓のそばで腰を下ろす。温かいアールグレイを飲んだら、心が少し軽くなるような気がした。
次の次の週のプレゼンは、その前のプレゼンより多く批判された。ようやく藻掻き始めたわたしを見て、みんな本気になってわたしに向かってきたのである。本当の意味では、それは喜ばしいことなのだろう。しかしわたしは、それを受け止めきれるような器用さや度量や強さみたいなものが明らかに欠陥していた。わたしは寝る間も惜しんでプレゼンを書いた。惨敗した。書いて、書いて、また惨敗。センスがないんだ、と思って才能のせいにした。そもそも、「初心者でも完璧! 納得させるプレゼン術」という題名の本を買う時点で少し、センスが無い。
そんなことをしているうちに、彼氏にフラレてしまった。小夜の肌のきれいなところが好きだったのに、という別れ文句付きだった。悲しかった。肌年齢があがってしまったことが悲しかったのではない。誕生日にあげた手編みの手袋とか、風邪をひいたとき鍋焼きうどんを作ったこととか、真心の部分が全く持って彼氏の心を揺さぶっていなかったことが悲しかった。
「わたしはあなたが、寝るとき頭を撫でてくれる瞬間が好きだったよ」
あなたの髪が多少薄くなっても、愛せる自信があったのに。わたしは涙すら出なかった。肌も心も目元もからからに乾いた状態で力なく笑って言うと、彼氏だった男は嫌そうな顔をした。一瞬、腹が立った。平手打ちの一つでもかましてやろうかと思ったが、せめて最後は良い女子でいたかったので、やめた。
泣かなかったおかげで、目は腫れなかった。
いつの間にか、カフェで飲むアールグレイがわたしの心の拠り所のようになっていた。いつもわたしが行くと、眼鏡の純文学風がアールグレイを淹れてくれる。仕事で失敗して凹む度に、そのカフェへ足を運んだ。いよいよわたしの注文を覚えたらしく、純文学風はわたしの顔を見るなり紅茶の準備を始めるし、奥のお姉さんは卵を冷蔵庫から出す。わたしは少し気恥ずかしくなった。店の人からしたら、常連さんってどんな感じなのだろう。嫌われてないかな、というしなくてもいい心配をついしてしまう。
ここで飲むアールグレイはいつだって心地よい温かさで、わたしの胸やお腹のつっかえを掬いあげるようにして体じゅうを駆け巡った。こんなアールグレイが、きっともっと世の悩める人たちに必要だと、思う。
「あ……」わたしは、はっとして顔を上げた。窓にわたしの顔が映っていて、そのわたしも何かに気づいたような顔をしていた。そのとき、純文学風がわたしの手元へそっとサンドイッチを置いていった。わたしは小さく会釈をすると、「ごゆっくり」と存外いい声で言って、去っていった。
その次のプレゼンで、わたしは瓶詰めのアールグレイにミントカラーのパッケージを巻いてそれを会議室にいる全員に売り込んだ。
「リラックスできるひと時を共にできるように、という思いを込めて、香り高い茶葉とさわやかなパッケージの色を合わせました」
わたしは、緊張を吹き飛ばすようなるべく堂々と胸を張って言った。みんなが真剣な目でわたしを見ている。プレゼンが終わると、先輩方が口々に討論を始める。
「瓶に入れるのは、うちとしては新しいな。コストは少し厳しいかもしれないが……」
「最初の値段は少し高めでもいいんじゃないか? 専門店と提携して、瓶を再度持ってきたら安くする、とかもありだ」
「デザインはもっと検討する余地ありだな」
「もうちょっとリラックスっていう部分を押さないと」
はい、はい、とわたしはメモを取っていく。書きながら、違和感を覚えた。先輩方の反応がいつもと違う、ような気がする。
「つまり」真城さんが口を開く。気だるそうな目を細めて笑った彼は「みんなこの話に乗る気でいるってことで合ってる?」と全員に聞いた。
めいめいに意見を述べていた先輩方は一瞬黙ると、力強く頷いた。わたしは、どうしようもなく胸が高鳴るのを感じた。会議はそこで一旦お開きになり、次の会議からはわたしの案が引き続き議題にあがることになった。
「やったな」
真城さんはわたしのデスクまで来て、そう言った。「誰もが雨宮のこと見なおしたと思うぞ」
わたしは俯いて「ありがとうございます」と言った。すこしだけ、恥ずかしかった。褒められるというのはこうも心をくすぐるものである。
真城さんのほうを見ると、真城さんは頭の後ろをかきながら少し目を泳がせていた。
「あー。その……なんだ」
歯切れ悪そうに言う先輩にたいして、わたしは首をかしげる。真城さんはわたしと目が合うと瞼を引き上げて目を見張ったが、すぐに目をそらした。なんなの、と思っているうちに、別の先輩が「真城ー! 昼行くぞ」と呼びかける。おう、と気まずそうに返事をして、真城さんは行ってしまった。
わたしは、あのカフェへ行った。今日は、お祝いだ。いつも悲しい気持ちで飲んでいたアールグレイを、今日は嬉しい気持ちで飲むのだ、と意気込んで足を運んだ。純文学風は少しきょとんとしたように、わたしの応対をした。
「六百十円でございます」
「はーい」
わたしは財布を取り出して千円札と十円玉をトレーに置いた。純文学風は、四百円とレシートをわたしの手に乗せる。ついでに、わたしに向かって
「いいことがありましたか」
と聞いてきた。え、とわたしはつぶやく。まさか、話しかけられるとは思わなかったからだ。
「いつも悲しそうな顔をしているのを、拝見してましたので」
純文学風はそう言って優しげに微笑んだ。わたしは胸がきゅうと掴まれひっぱられるような気持ちになった。
「今日は、うれしい気持ちでアールグレイを飲むんです」
「はい」
「そう、決めたんです」
そうですか。彼はそう言ってアールグレイを給仕した。湯気の立つカップをかちゃりとソーサーに乗せ、お盆の上に置きわたしに渡す。
「ごゆっくり」彼はそう言ってわたしを見送った。わたしはいつもと同じ席に腰掛け、眼下で行き交う人々の往来を見た。見ていたら、先輩に引っ張られる真城さんが見えた。面倒くさそうな歩き方は上から見るとさらに顕著だった。
わたしは純文学風の淹れてくれた紅茶を飲んだ。ぽう、とお腹が温かくなって、ふと、フラれたときのことを思い出してしまう。あのときは一滴の涙も出てこなかったのに、目が曇って泣きそうになる。それを紅茶とともに押し込んで、濡れた目をゆるくカーブさせ、
「やっぱり、コーヒーのほうが気兼ねなく飲めておいしい」と笑った。