8cm left
タイヤキを持つ手は軽やかだった。
久しく地を踏み立つ足はずっしりと重かった。
手術跡こそ残ったものの、私の足は思うがままに操れるまで回復していたのである。
しかし、筋肉は衰えていたままのようで、いっそのこと車椅子を走らせている方がいささか楽なんじゃないかと思えるほどだったけれど、それ以上に私は地面を蹴る感触に胸を躍らせていた。
二足歩行を主とする人間にとって、それは呼吸をするほどに当たり前の動作だろうが、暫くの期間ある意味で人間を辞めていた私にとって感動を覚えざるを得ない。
本当に治ったんだ。
本当に歩けるようになったんだ。
車椅子も松葉杖も、補助もいらない――私は私の力だけで、歩くことができる。
目を覚ました直後は状況を認識するまで、まるで長らく夢でも見ていたかのような気分だった。
覚めない夢の中で、私は猫の姿をしていて、狂っていく世界にあくせくしながらも抗う主人公の側にいた――冗長なストーリーだったけれど、それが夢でなく紛れもない現実であったと理解するまでに、私はかなりの時間を要したのだ。
それに気付いたのも、無意識にベッドから自分の力で降りて、無意識に直立した後のことである。
それこそ、自分の状況を理解することができなかった。
「……あれ、え?私は立てたんだっけ?」
あの一夏の物語の発端である私がそんな暢気な声を上げてしまったことは後悔するに十分だった。
そうだ。
そうなのだ。
別にこれは神が与えた奇跡でも祝福でもなんでもないのだ。
私が望み、彼が叶えた世界の結果だ――私がみんなが笑える世界を望んだ結果だ。
罪悪感に駆られながらも、自分の我が儘を一貫した結果だ。
そう思うと、自然と涙があふれ出てくる。
ぼろぼろと、大粒の雨が目尻から降ってくる。
泣くのなんて、何年振りかな……。
私は涙を拭いながら、病室を出た。
◆
「……食べる?」
私は確固たる意志を伴って、確かな目標を掲げて、公園へと辿り着いた。
辿り着いたと表現したのも、私はそこに到着するまでの間、幾度と小休止を挟み、やっとの思いで歩みを進めたのである。
公園の中心――賑わいと活気に満ちた広場に設けられたベンチに虚ろな目をして物思いに耽っている青年を私は発見した。
そして、一声。
しかし、無視である。
「ねぇ、聞いてる?」
こうして視界にわざわざ入っているというのにも関わらず、私の姿を上目遣いで視認したのにも関わらず、彼は沈黙を保ったままだった。
明らかに私の存在に気付いているはずなのに、である。
「食べる!?」
私は紙袋の中に入ったタイヤキを一つ取り出し、差し出した。
彼の目に向かってではなく、彼の口に向けて突き出した。
その図は彼とタイヤキはキスを交わしているように捉えられるものである。
「食べるのか!いらないのか!」
その怒声にようやく彼は動く気になったらしい。
面倒くさそうな少女に話しかけられたとか思っているのかもしれない。
どうやら彼の人格もまた私と同じように相当ひねくれているのか、彼はタイヤキの尻尾をかじって咀嚼した。
中身などない、およそ生地だけの無味であると言って過言でない部分から食べたのである。
恐らく、彼はショートケーキに乗った苺を最後に食べる人なのだろう――いや、もしかすれば、彼は生クリームだけを好む人種なのかもしれない。
などと、不毛にもほどがある的すら射ていない人間観察を行っていると、彼は生気の宿らない目をしたまま悩んでいる様子だった。
「何か、悩みごと?」
「そんな感じだ、まぁ、別に大したことじゃないんだけど」
見ず知らずの少女に抱えてるものを明かすなど、さすがに有り得ないか。
それもそうだろう。
けれど、私はわかっている。
彼が何を考え、何を思っているのか――何を思い悩み、何に困惑しているのか。
私はずっと彼のことを見てきたのだ。
私の本当の姿など想像だにしないだろうが、それでも私は彼のことを見てきた。
例え、彼が私に気付かないとしても、私は別にそれでいいと思うのだ。
私が、私の罪を確認するために、私だけが彼に贖罪するために、私はこのままの一方通行のような関係でもいいのだと心から思うのだ。
「大したことじゃないことで悩むなんて馬鹿馬鹿しいと思わない?そんな小さなことで頭抱えてないで、悩むんだったら世界平和とか、どうやったら戦争がなくなるかとか、そういうので悩めばいいのに」
しかし、私の姿を見て感づく気配すら見せない彼に憤りを感じた私は言ってやった。
無理も承知、何のヒントも与えていないので、さすがにこれは私の八つ当たりなんだけれど。
「君は俺の悩みを何だと思っているんだ!?」
素早い突っ込みはどうやら健在らしい。
悩み。
悩み、か――実際のところ、別に悩んでいるわけではないのだろう。
ただ単に、考え耽っているというだけで、それが悩みに直結しているわけではないのだろう。
見た限り、気力はあるようだし、多分。
「悩みなんて、笑い飛ばせばいいんだよ」
「そうできたらいいけどな……」
「世界平和って、つまり戦争がない世界ってことでしょう?けれど、それは幸せとは違うんだよね。戦争がなくても、貧困は絶えないし、格差は埋まらない。なら、世界平和って何なのかな?幸せな世界って何なのかな?」
私は柄にもなく聞いた。
その真意として、私は彼を知りたかったのだ。
崩壊してく友情関係を目の当たりにして、彼は脆い世界だと感じたことだろう――それなのに、光明を模索し、抗い続けた彼の価値観を知りたかった。
彼が持つ人生観を知りたかった。
彼を学びたかった。
彼のことを、もっとよく知りたいと思ったのだ。
それは今まで彼の側にいながらも放棄していたことだ――私の我が儘が露見するのが怖くて、私の罪が周知することを恐れて、立ち入ることができなかった領域だ。
「平和と幸福はイコールじゃないんだよ。安息が幸福とは限らない。それだけの話」
などと、簡単に言う彼。
迷いを見せない様子から伺うに、彼はそんな価値観を当然として所持しているようだった。
「わぁ!簡単に言うね!」
私は感嘆の声を上げる。
「……そういう話は総理大臣になってから考えろよ」
「なら幸福とイコールなのは、一体何なのかな?」
どこか呆れた様子で肩を竦める彼だったが(見ず知らずの人から声をかけられているのだから当然である)、私は構わずに問う。
もっともっと、知りたいのだ。
どうして私の我が儘な願いを叶えたのかを。
もしかすれば、この行為もまた私の罪滅ぼしなのかもしれない。
自分の都合で放棄して逃げていた領域に踏み入れて、償おうとしているのかもしれない。
今まで何も訊けなかったけれど、ようやく私は彼に訊けるようになったのだから。
「幸福者は金持ちでもなく、成功者でもなく、人間関係が充実している者――ってどっかの偉人が言ってたな」
今度は、自分が有する価値観ではなく、偉人の言葉を引き出す彼だった。
「それ言われると、私、反論できなくなるよ。大家の文言にケチをつけることになるよ」
まぁ、それも――一瞬の迷いもなくその言葉が出てくるということも、彼自身が持つ価値観の表れなのかもしれない。
彼もまた、そのどっかの偉人と同じ共通した幸福観を有しているのだろう。
だから、私は。
今度は私が――
私が幸福観を言う番だ。
あの事故から何の教訓も学ばなかった――学ぼうとしなかった私だけれど、その中でも一つだけ、私は得たものがある。
幸福観、ならぬ、不幸観だ。
私を見て誰も笑おうとしない、同情の笑みも向けない。
どころか、哀れみの目で私を追い詰めようとしている。
その中で見出した、私なりの不幸観――だからこそ、私はその対極に位置する幸福観を学んだ。
だから。
だから、私は。
綺麗な言葉で紡ぐ資格など本来ないのだけれど、私は――言える。
胸を張って、恥ずかしげもなく、私の価値観を――言える。
だから、私は。
今度は私が、彼に伝えよう――
「皆が笑えれば、幸せなんだと思う。貧しくても、格差社会でも、笑えるってことは、すごく楽しいことなんだと思う」
その言葉を聞いて、彼は目をひん剥いた。
驚きと焦りを混ぜた色を浮かべていた。
それもそうだろう。
ついさきほど、私が言った言葉なのだから。
私が最後の最後に、自分の我が儘を彼に伝えた言葉と同じなのだから。
彼は感づいたかのように、ゆっくりと口を開いた。
「なぁ、――君、名前は?」
「私の名前?」
私は精一杯とぼけてみせる。
曖昧で中途半端で、人を煙に巻くことこそ私のひねくれた歪んだ人格だ。
けれど、今はもう違う。
私はそんな醜い自分のせいで、彼を巻き込んでしまった――彼の友人を巻き込んでしまった。
彼にたくさん辛い思いをさせたことだろう。
彼にたくさん苦い思い出を作らせたことだろう。
私は二度と、彼に対してそんなことなどしたくない。
絶対に、何が何でも、彼の前では素直になろう――今の私は心底そう思えるのだから。
私は言う。
はっきりとした口調で言う。
彼に一言一句聞き逃して欲しくないからこそ、理解を促すかのように言う。
「私の名前は――」
どうやら神様は悪戯がお好きなようだ。
私の名前は噴水が上げる水音に掻き消されてしまった。
しかし、彼には届いていたのか、
「笑えよ」
と優しい微笑みで私を受け入れたのだった。
だから私は、
「笑ってる」
と返した。