5cm left
そんな夢を見たからと言って、見てしまったからと言って、別段、あの黒猫を探しているというわけではない。
いや、勿論、滅多にすることのない外出をこうしてわざわざする理由があるとすればそれに尽きるのだろうけれど、しかし、確固たる目的があるかと問われれば返答は難しい。
心のどこかでは黒猫を探しているのだろうし、偶然にも見つけることができればいいなぁと希望を抱いているのかもしれない。
まぁ、うん。
こういうところが私の駄目な性格なのだろう。
中途半端で、曖昧で、自分の気持ちすら理解できていないのだ。
自分に正直になれない――そうなのかもしれない。
主目をあえて隠してしまう――そうなのかもしれない。
しかし、果たしてそこに理由があるのだろうか?
わざわざそうする理由が、果たしてあるのだろうか?
それも――わからない。
きっと私はあの時に壊れてしまったのだと思う――五年前の事故以来、壊れてしまったのだと思う。
今でこそ外傷は完治したけれど、しかし傷痕が癒えたかと言えばそうではない。
痛々しい手術跡は残ったままで、私は基本的にそれを隠すように包帯をいたるところに巻いている。
まるでミイラのように。
いや、それはいささか過言ではあるけれど。
ともかく、私は傷痕を包帯で隠すように――自分の気持ちも隠してしまっているに違いない。
なら、自分を曝け出せばいいじゃないか、自分に正直に生きてみてもいいじゃないか、そんな簡単に開き直れるほど私は純粋ではなかった。
捻じれて歪んでしまっている。
人格にもひびがはいっている。
それが五年前の事故をきっかけに形成された人格なのか、それとも元々そんな人間なのかはわからないけれど、いずれにせよ私が歪んでいることに違いはない。
ほんと、面倒くさい女だと自覚している。
目的なしの外出などしない私がこうして外を車椅子で走っている事実があるのにも関わらず、黒猫の捜索を偶然に見出した目的だと思い込もうとしているのだから――あぁ、面倒くさい。
あの猫が偶然見つかればいいなぁ?
馬鹿言え。
最初からその目的のために外出しているじゃないか。
そんな自問自答を心中で繰り返す。
たまたま外出したい気分になっただけ?
馬鹿言え。
最初から目的のために行動を起こしているじゃないか。
そんな自問自答を胸中で繰り返す。
私は自分自身すらをも騙すことができる。
「……………………………………?」
そんな風に自分の歪んだ性格と向き合っている最中、目の前の丁字路を左に折れる小さな黒い影が見えた。
それは間違いなく、猫の影だった。
しかし、野良猫など日常的に見かける周辺で、それが捜索中の黒猫だとは判断できなかった。
わからないけど。
追ってみるしかない。
決意と共に、車椅子を走らせる。
さすがにここまで結構な距離を走行してきたので腕が張って疲れが感じられる。
十五歳の細腕ではいくら軽量化された車椅子とは言え、走行距離に限界があるだろう。
それでも、私はできる限りの力を振り絞って懸命に走らせた。
丁字路を左折。
そのまま直進。
一瞬、見失ってしまったがすぐに先の方で闊歩する黒い影を捉えることができた。
そう遠くない、けれど、疲労困憊の私にとってその影との距離は絶望すら感じさせられるものだった。
まるで、高温地獄の砂漠の遥か先にオアシスを見つけたような、そんな気分。
待って。
待って。
行かないで。
そんな願いを心中で反復したことに意味があったとは思えないが、しかし、どうやらその願いが届いたらしく黒い影はその場でぴたりと立ち止まったのだった。
少しずつ。
近づいて、わかる。
間違いなくその影は猫だった。
それも黒い猫――黒猫の後姿が目に映った。
「やっぱり、間違いない……」
黒猫の後方、数メートルという距離まで近寄って確信する。
そう。
やはりこの間まで病院の敷地内に毎日のように訪れていた猫だった。
毛並みの艶やかな、それでいて鮮やかな――私の知る黒猫だった。
猫の行動原理についてなど概ね知らない私だったので、どうして『彼女』は病院に来なくなってしまったのか、その理由はわからないけれど、しかし、想定していた最悪の事態は避けることができたようで安心だ。
どこかで野垂れ死んでしまったのかと思っていた。
或いは、安息地を求めて旅立ってしまったのかと思っていた。
まったく。
私の不安をよそに悠然と闊歩している様を見ると憤りすら感じられる。
まぁ、私が勝手に抱いている感情ではあるのだけれど。
どうやら、後方につけた私の存在に気付いていないらしく――いや、さすがに警戒心の強い猫のことだから気付いているのだろうけれど、私には見向きもせず、同じ調子で歩いていた。
これではどちらが飼われているのかわからない構図になってしまっているけれど、それこそまるで猫が主人のようで、私はそれ以上近づくこともなく、後を追うだけだった。
いや、そもそもこの猫は野良猫なはずだから、その表現の仕方は間違えているか。
「どこに行くんだろう……」
直進して、左折。
さらに右折。
目的があってそこへと向かっているのか、それとも、ただそぞろ歩いているだけなのか――いい加減、猫の後を黙って追うことにも飽きていた私は一気に近づいて、そして追い抜き、前方を塞ぐために腕に力を込めた。
車輪を懸命に回した。
しかし、その目論見はむなしくも看破されていたようで、猫は同じタイミングで突然、走り出したのだった。
全速力である。
到底、人が走っても追いつけない――車椅子ともなれば尚更追いつけるはずもなく、私は前を走る猫の行方を目で追いながら懸命に車椅子を走らせた。
まったく、どんなハンデ戦だ。
遥か先にまで遠ざかった猫は突き当たりの角を右に折れ、その姿は見えなくなってしまった。
しかし、私は諦めずに走る。
走らせる。
どうして私がこうまでして黒猫に執着しているのか、そんな理由などあるはずがないだろう。
いや、あるとすれば、ただの興味本位の好奇心で、壊れてしまった私の日常に与えられた一つの刺激を失いたくないという思いだったのかもしれない。
あの猫が私の日常を変えてくれた、などと言うつもりはさらさらない。
変えられたとも思わないし、変わったという自覚も勿論ない。
あの猫と出会ったのはついこの間のことで、確かにおよそ初めて経験した抱っこには何とも表現のし難い高鳴りを覚えたものだけれど、だかと言って、それで私の崩壊した日常が回復するはずがないのだ。
それだけならば、私はここで黒猫の追跡を諦めていただろう。
病院に来なくなったのも、周辺をそぞろ歩いているのも、猫由来のただの気まぐれに過ぎないと判断したことだろう。
いくら病院内で可愛がられたとは言え、所詮は野良猫――どこに行くのも、どこに向かうのも、どこで死ぬのも、それも勝手だ。
いささか乱暴な言い方になってしまったけれど、掛け値なしにそれが現実だろう。
しかし。
私は諦めなかった。
その姿が見えなくなっても尚、私は諦めなかった。
それは何故だろうか。
いや、問うまでもない――昨日見たあの夢のせいだ。
あんな夢を見てしまったから、黒猫のことが気になって仕方がないのだ。
いくら自身の人格が歪んでしまっていると自覚しているからと言って、夢と現実の区別ができないほど破綻しているわけではない。
或いは、子供ではない。
夢は所詮、夢。
夢であったことなど、脳が生み出すただの妄想とイメージにしか過ぎないのだ。
そんなことは当然わかっている、理解している。
だからこそ、私は諦めなかった。
多分これは、だから、ただの好奇心なのだろう。
別にあの黒猫を捕まえたからといって、何があるわけでもない。
あの黒猫が夢に出てきたそれと酷似しているからといって、何があるわけでもあるまい。
だからこその、好奇心だ。
それ以外の理由がもしあったとするならば、それは恐らく、もう一度猫を抱いてみたい――その程度の我が儘に過ぎない理由だろう。
「…………………………………………………………」
猫は死んでいた。
黒猫は死ぬに死んでいた。
一目でそれが死体だと、死骸だと、息絶えた存在だと理解できるほどに死んでいた。
辺りに血溜まりを作り、赤黒い肉片を散らし、粉砕した体はおよそ二度と動くことがないと思わすには十分だった。
内臓が飛び出し、目を見開いて、下を伸ばしながら死んでいたのだ。
道路の真ん中で――車道の中央斜線の上で。
信号は赤色だった――
「……あ、あ、あ」
声にならない声が断続する。
惨死した猫を前に体は動かなかった。
体中の穴という穴から嫌な汗を感じつつ、私はその死体に近づくことすらできない。
何か行動に出ることはおろか、私の頭の中は混乱状態で、そんな状況に陥った場合の対処法など考えることすらできなかった。
しかし。
私は次の瞬間、我に返る。
自分が瞬きをも忘れて目を見開いていたということを自覚した。
誰もが、誰しもが――すぐ隣で惨死した黒猫の姿を見て見ぬ振りを決め込んで、通り過ぎるのだった。
それを見て、私は我に返った。
誰も、何も、しない。
隣に異常な光景をおきながら――およそ馬鹿な野良猫が車に轢かれて死んだだけ、と思っているかのように何事もなく通り過ぎて行く。
過ぎ去っていく。
どうして?
どうして誰も何もしないの?
自然と拳を握る力が強くなってしまう。
大人たちの残酷な目に、怒りを覚えてしまう。
無用な厄介事に首を突っ込むべきでない、ただの野良猫だから――そんな理由で無視を決め込む大人たち。
どうして。
どうして。
どうして、どうして、どうして、どうして――
どうして、見て見ぬ振りをするの?
どうして、私は何もせずに静観しているの?
「……え?」
信号が青色に変わり、横断する人の群れの中から黒猫の死体に向かう二人がいた。
同じ学生服を着た男女の生徒だった。
何やら女子生徒が促しているようで、男子生徒は猫の死体の上に鞄から取り出したタオルを被せ、それで包むように両手で抱えた。
善良なその行動を見た大人たちは、そこでようやく重い腰を上げるように男女生徒に寄り添ったが、それでも汚いものでも見るかのような目つきは変わらなかった。
そのまま、男女生徒は大人たちに軽くお辞儀をした後、対岸にある大きな公園の中へと消えていたのだった。
私は彼らを追うことはせず、考えることはやめて、その足で病院へと戻るのだった。