2cm left
◆
彼――立屋 千尋に出会ったあの日から二週間ほど前に遡ってみるとしよう。
いや、それよりももっと過去から遡ってみるのもいいかもしれない。
まぁ。
あの時から始まった後悔を懺悔するためにも、筆を執ってみよう。
◆
十歳、夏――
小学生だった私を前触れなく突如として襲ったのは一台の軽自動車だった。
真横から、まるで風に攫われるかのように、私は宙に舞ったと思う。
耳を塞ぎたくなるような衝撃音と共に、遥か彼方へ飛んだと思う。
曖昧なのも当然、刹那の事故に私は何が起きたのかさっぱりわからなかった。
どうして私は飛んでいるのか、どうして宙を舞っているのか、まさか人間であるはずの私の背中に羽が生えたのか――なんて、わけもわからないまま撥ねられた。
撥ねられてしまった。
けれど。
一瞬の出来事の中、私はどこか理解していたのだと思う。
宙を無様な格好で舞いながら、必死に自問していた。
どうして。
どうして。
どうして――。
たしかに、信号は青色だったはずなのに――
◆
十五歳、夏――
五年前の事故が及ぼした後遺症は深刻なもので、どうやら重要な神経を傷つけたらしく、懸命なリハビリもむなしく徒労に終わった。
それでも私はもう一度、自らの足で自由に立ち、走り回りたいと諦め切れないでいた。
けれど、医師からは一生を車椅子で生活しなくてはいけないと宣告され、両親からは泣きつかれた。
「どうして……」
「どうして……」
「どうして……」
「どうして……」
「どうして……」
「どうして……」
「どうして……」
私が泣きたい。
どうしてこうなってしまったのか、何か悪いことでもしたのか、日頃の行いが仇となったのか――答えのない自問を繰り返してしまう。
偶然がもたらした悲劇によって、こうもあっさり人の人生が終わるのかと、私は十五歳にしてそんなことをずっと考えていた。
よく言えば、幼いながら達観していたのだろう。
まぁ、それは過言ではあるか。
しかし少なくとも、泰然としていたのは確かだ。
こうして意味のないリハビリを続けることも、結局は暇つぶし、手持ち無沙汰のようなもので――私は明確に理解していた。
そんなことをする意味などないということを。
実のところ、諦め切れずに僅かな可能性にかける、というわけではなかったのだ。
両親にその健気な様を見せることによって、私は責め立てられ泣きつかれることを回避していた。
全く、自分でも思うが、狡賢い。
そんな下らない日々を五年も続けていた。
それはもう、長年そんなことを続けていれば惰性にもなるだろう。
その頃になると、両親は私を見て泣かなくなった。
責められることもなくなった。
そして。
怪我から復帰できないままでいた私は、一人、病室に取り残された。
微かにしか動かない両足。
痛ましい縫合痕。
誰も、誰一人、心配する人はいなくなってしまった。
事故直後は毎日のように病室に訪れていたクラスメートも、今では中学生になり、私のことなどとっくに忘れ去ってしまったのだろう。
三日三晩付き添ってくれた両親は週に一度、着替えを持ってくる程度でそれ以上のことはなくなってしまった。
時間が解決する。
それが当てはまったのは私ではなく、両親と友達だった。
私は当時の時間から停止したままだった。
その中――病室のベッドの上で数学のドリルを懸命にこなしていた中、大きな窓から見える病院の敷地で黒い猫が一匹、男性に愛でられていた。
何と言うことではない。
取りとめて、気にすることでもない。
しかし、病院の外とは言え、様々な患者が入院、或いは通院する敷地内に猫がいるのは少々問題なようにも思える。
その様子を伺っていると、案の定、近くを通りかかった白衣の中年男性に抱きかかえられ、敷地の外に出されていた。
「……野良猫かな」
私は首輪がついていないことを確認して、そう呟いた。
けれど、遠目からでもわかるほどの艶やかなその毛並みを見るに、そうは思えないが――もしかすれば、近所の人から可愛がられている野良猫なのかもしれない。
◆
次の日も。
次の日も。
また次の日も。
正午を過ぎてから現れるその黒猫は毎度のように、色々な人から愛でられ、そしてお決まりのように呆れた医師から追い出されるという日々が続いた。
全く。
性懲りもなく、あの猫は一体何がしたいのだろうか。
可愛がられるためにやって来ているように見えるけれど、それにしたって、ただでさえ警戒心の強い猫が――野良猫がああも知らない人に懐くのは珍しい。
私はそこで決心する。
「明日は私も行ってみよう」
その決意が後に災いの種を撒くことになるとも知らずに。