8 魔女サマ、失業す
歌うように、彼らの名を呼ぶ。
「風の精霊、火の精霊、水の精霊、地の精霊」
久方ぶりに紡ぐ文言を、ルチアは舌に乗せた。
「古のしきたりに則って、わたしと契約をしましょう」
久方ぶりの契約に、精霊達が歓声を上げて舞い踊る。
リリーを抱えたまま、ルチアは彼らへと手を差し伸べた。
「魔力をあげる。わたしが今持っている、全ての魔力をあげるから、力を貸して」
その言葉に、くるくると宙を舞う精霊達が集い始めた。
彼らに向かって、ルチアは古の言葉で告げる。
「『この魔法陣を壊して!』」
次の瞬間、ルチアの周囲を暴風が吹き荒れた。
小規模の竜巻がルチアの周囲を抉り、魔法陣を変形させていく。目を開けていられないほどの暴風の中で、ルチアはリリーをしっかりと抱きしめた。
うっすらと目を開け、美しい顔を歪める魔女を睨み付ける。
「消えて」
強い声で命じれば、女はぎりぎりと唇を噛みしめた。
彼女に向かって、なおも強い声で命じる。
「消えて。……わたしの前に、二度と現れないで」
魔術は多種多様なもので、ルチアが使えるのは薬草魔術と精霊魔術だけだ。知識としては知っていても魔法陣は扱えないし、リリーを操った魔女のように人を操る事も出来ない。
ルチアにはリリーを助ける事が出来ないのだ。この魔女が自らリリーを操るのをやめなければ、リリーは操られたままだ。
だからこそルチアはこの魔女を倒すか、彼女に敗北を認めさせなければならない。――圧倒的な、力の差を見せつけて。
「火の精霊、燃やして!」
ルチアの声に火の精霊達が一斉に踊り狂い、周囲を舞う毒草に火を付ける。灰すら残さないほどの高温に空気が揺らぎ、ルチアの頬を一筋の汗が伝った。
「……消えて」
噛みしめるように、言葉を紡ぐ。
「さもなければ、あなたの体も燃やすわ」
そう呟けば、魔女はさっと顔を青ざめさせた。
「わたくしの体がどこにあるか、なんて――」
「この真下でしょ」
彼女の言葉を遮り、精霊達に指示を出す。
「あなた、匂いがきついのよ。精霊達に探させなくても、リリーからきつい香水の匂いがしていたら分かるに決まっているじゃない」
次の瞬間に、女が悲鳴を上げた。
うっすらと透けるその体を炎が取り巻き、また視界がぶれる。
そこにいたのは、先程花屋を訪ねてきた女だった。汗のせいで化粧が崩れ、怪物でさえも逃げ出しそうな顔になっている。過剰すぎるフリルとレースを炎が嘗め、じわじわと彼女を侵食していた。
その様を見下ろし、ふんと鼻で笑ってみせる。
「いいざまね、若作りお化け」
「何ですってぇ!?」
目をつり上げた彼女を見下すようにして笑みを浮かべ、ルチアは言い放った。
「あら、図星を突かれて激昂するなんて、貴婦人とは思えぬ醜態じゃなくて?」
リリーを抱えたまま立ち上がり、階段へと歩き出す。
「……ルー?」
何が起きたのか分からないと言いたそうな顔のアイリスに向かって、ルチアは微笑んでみせた。
「……ごめんなさい」
小さく呟いて、リリーを抱えたまま階段を下りる。
店内に入れば、そこはまるで竈の中のように熱かった。
あまりの熱気に水分が蒸発してしまったらしく、水蒸気がもうもうと立ちこめている。
ルチアが丹精を込めて世話をしていた花達は、全てが萎れるか乾燥していた。
その中で呆然とへたり込む店主を見つけて駆け寄れば、彼は青ざめた顔で「客」だったものを指し示す。
そこに、魔女がいた。
熱風に黄金色の髪を乱し、爛々と輝く紫色の瞳でルチアを睨んでいる。服は燃え上がっているが、肌には一切傷がついていなかった。
「ルアルディの魔女……!」
滴るような悪意と憎悪が込められたその声に、彼女を睨み付ける。
「何よ」
非常に不本意な事に、ルチアにとって、このような事態は初めてではなかった。
ルアルディ家は「傾国の魔女」を追放した功績によって莫大な富を得た魔術師の家系だ。「傾国の魔女」を輩出した家系には市井の民以上に忌み嫌われているし、権力争いに巻き込まれ、襲撃された事も一度や二度では無い。
その度にはね除け、もしくは未然に防いできたのだが、今回の事だけは予想外で――何よりも腹立たしかった。
「店長ごめんなさい、きちんと弁償しますからとりあえず大人しくしてて下さい」
小さく呟いて、ルチアは店主と魔女の間に立ち塞がる。
「魔女って……ルー?」
背後からかけられた声をきっぱりと無視して、ルチアは声を張り上げた。
「許さないわよ」
はっきりと告げて、ブーツの踵を床に打ち付ける。
ビシリと床に亀裂が入り、ルチアの怒りをこれ以上ない程に表した。
「……わたしを狙うのはまあ、1000歩くらい譲ってまあ良しとするわよ。ルアルディ家の魔女だもの、国内外から恨みくらい買っているでしょうよ。
若作りをして男達にちやほやされたいっていう気持ちは分からないけど、まあそれも別に気にしないわ」
でも、と再び踵を打ち付ける。先程よりも亀裂が広がり、ぐらぐらと店が揺れた。
「……リリーを操って、毒を使ったのは許さないわよ」
腕を振り、魔女を指し示す。
「わたしの家を貶めたかったの? それともわたしを?
……おあいにくさま、わたし、慣れっこなのよ。だって魔女はこの国で忌避される存在だもの」
サファイアの瞳を凍らせて、ルチアは精霊達に助力を乞うた。
「『燃やし尽くして』」
炎の渦が魔女を包み込み、一気に燃やし尽くす。
目の前で灰すら残さずに燃え尽きた魔女の姿に、背後にいる者達が息を飲んだのが分かった。
やがて室内だというのに雨が降り出し、部屋を徐々に冷やしていく。
その頃には、店の周囲に大量の人が押しかけていた。
それも当然だ。身を守る際に竜巻を起こしたせいで建物の一部が壊れてしまったし、火の手だって上がった。おまけに空には雲一つ浮かんでいないというのに花屋にだけ雨が降っている。人が集まらない方がおかしい。
いつの間にか気を失っていたリリーを店主とアイリスに返し、ルチアはエプロンのポケットに手を突っ込んだ。
軟膏の入った小さなケースを取り出し、そっと床に置く。きっと彼らは、魔女であるルチアに触れられたくないだろう。
「……これ、リリーに塗ってあげて下さいね。魔女の作ったもので信頼出来ないかもしれませんけれど」
多分、捨てられてしまう。魔女の作った薬など、きっと彼らは信じない。
エプロンを外し、丁寧に畳む。せっかく仕事に慣れてきたのにと思ったが、仕方がなかった。
店の外に、目をぎらつかせて魔女を糾弾しようとする人々が待ち構えているのだ。
ブーツの紐を結び直し、腰に乗馬用の鞭がある事を確認する。
大丈夫だ、忘れ物はない。
小さく頷いて、ルチアは店を出た。
その途端に、敵意に満ちた視線に晒される。
「……久しぶりね、この感覚も」
ここしばらくの間ずっと穏やかな空気の中にいたから、すっかりと忘れていた。そもそも、この張りつめて居心地の悪い場所こそがルチアの本来の居場所なのだ。
小さく息を吸う。
「ごきげんよう」
にっこりと無邪気そうに笑ってみせ、ルチアは髪を掻き上げた。
「本当に寂れた花屋ね」
笑顔のまま吐き捨て、心の中で店主達に頭を下げる。
ルチアがこの花屋で働いていた事を知る者は、この中にもいるだろう。彼らが店主達を責めないようにする為にも、ルチアは悪役を演じなければいけないのだ。
「市井の暮らしはどんなものかと思ったのだけれど、本当につまらないのね」
唇を吊り上げ、笑ってみせる。
「あんまりにもつまらないから、毒でも撒いてみようかと思ったのだけれど――たかが花屋に邪魔されるなんて、思ってもみなかったわ」
毒。
その言葉を発した瞬間に、周囲が殺気立った。
脈絡のない言動でも、彼らはあっさりと信じる。彼らはルチアが魔女であるというだけで、全てを悪い方向へと捉えてくれるのだ。
「こんな事だったら、最初から毒でも撒いて遊ぶべきだったわね」
飛んできた石を風の精霊が受け止め、ルチアの足元にぽとりと落とす。
それを皮切りに降り注いだ罵声と石を、ルチアは笑顔のまま受けた。泣きそうになるのを堪える。今のルチアは、人々が思い描くそのままの、悪い魔女なのだ。悪い魔女ならば、怒り狂う人々を見て楽しむくらいの余裕がなければ。
石と罵声に混ざって、短剣や矢までが飛んでくる。ルチアの背後には花屋一家がいるというのに、当たったらどうするつもりなのだろう。
「危ないわね」
眉をひそめて、それらを燃やし尽くす。魔術を使った事で怒りの声がますます激しくなったが、気にしない事にした。
日が沈んでも人が減る事はなく、逆に増えていく。
ルチアが駆けつけた憲兵に連行されるまで、その騒ぎは収まる事が無かった。
***
「……で、クビ」
その声に、ルチアはむっとして顔をしかめた。
「何とでも言いなさいよニコラ」
お気に入りのソファに腰を下ろし、クッションを抱きしめて顔を埋める。
さすがの彼も、言葉を失ったようだった。
憲兵によって連行されたルチアは、王城まで護送された。
あれよあれよという間に国王やアロルドと面会させられる事になり、事の次第を逐一報告させられる事になったのだ。
その結果として分かったのは、この国に他国からの魔術師が潜入している可能性があるという事だった。
というのも、ルチアが燃やし尽くしたはずの魔導師は、誰にも心当たりが無かったのだ。
急遽地方に散らばっている魔術師達や魔術学院の名簿を確認したのだが、該当者はいなかった。
あの魔女の存在は、全くのイレギュラーだったのだ。他国ともなれば、ルアルディ家に恨みを抱いている魔女など星の数ほどいる。とてもではないが特定など出来ない。
この件に関しては後日会議が開かれる事になったそうだが、宮廷魔導師ではないルチアには関係の無い事だ。
その後解放されて屋敷に戻ったが、ルチアも今回の出来事にはまいってしまった。
ここ数日の間は温室と庭園に行く以外はほとんど部屋を出る事も無く、閉じこもって過ごしている。大好きな毒や薬の精製も全く手を付けていない。
耐性があるとはいえ毒を盛られた事もあり、あまり動き回る気にもなれなかった。
使用人達には心配されたが、精神的なものはどうしようもない。
「リリー……」
ぼそっと呟いて、そのままソファに体を倒す。
彼女の怪我は良くなったのだろうか。操られていたとはいえ、毒草を素手で触ったり棘のある植物を掴んでいたのには肝が冷えた。
「……様子、見に行けば?」
気遣うように声をかけてくるニコラに、拗ねたような視線を向ける。
「周囲の人は、わたしが諸悪の根源だと思っているのに?」
その言葉に、ニコラが言葉に詰まった。
「……ごめんなさい」
ぼそぼそと呟いて、ルチアはますますクッションに顔を埋める。
分かっている。今のは八つ当たりだ。
けれど、言わずにはいられなかったのだ。
今回の出来事は誰にとっても予想外で、ルチアは花屋一家を危険に巻き込んでしまった。そして、それはルチアが魔女である事に起因する。
それは紛う事なき事実だ。
けれど、全てがルチアの本意ではない。
分かってはいるけれど、割り切れないものがあるのだ。
「ニコラ――」
本当に花屋の人達が好きだったから、気になって仕方がないから、わたしの代わりに彼らの様子を見てきてくれないかしら。
そう言おうとした時だった。
「ルチア!」
ルチアの名を呼ぶ声と共に、ノックもせずに扉が開かれる。
驚いて体を起こしたルチアの視界に、滝のようにこぼれ落ちる銀髪が映った。
アメジストの瞳がルチアを捉え、とろりととろける。
「ああルチア、元気そうで何よりだ」
その言葉に、ルチアは顔を引きつらせた。
「しかしなぜネグリジェ姿なんだ、昼間だというのに俺を誘っているのか、随分と大胆かつ素直になったなルチア。しかし待て、ここにはニコラもいるのだからいたずらに俺を誘惑するのは――」
「……アロルド、今はその辺で」
流れるように言葉を紡ぐアロルドに何も言えずにいると、さすがにニコラが助けてくれる。残念ながら、今は彼に構えるような心境ではないのだ。
深々とため息をついて、クッションを抱え直す。
その鼻先で、甘い香りが漂った。
「ルチア」
真面目な声に名を呼ばれ、渋々と顔を上げる。
その途端に、ルチアは息を飲んだ。
小さな白い花が、ルチアの視界いっぱいに広がっている。
上品に首をもたげて控えめに咲く花は、ルチアにも見覚えがあった。
「見舞いだ。……ちなみに、花を選んだのは店主だ」
その言葉に瞳を見開く。
「……行ってきたの?」
掠れた声で問えば、アロルドはあっさりと頷いた。
「店の修復はもう終わっていたし、客も今まで通りに来ているらしい。リリーとか言ったか、あのチビも元気そうだった」
その言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。
クッションを放りだして小さな花束を受け取り、ぎゅっと抱きしめる。
スズランの花からは、あの店の温かな空気が漂ってくるような気がした。
その時、花束の中から何かが転がり落ちる。
「あ……」
床に転がったそれをアロルドが持ち上げ、不思議そうに首を傾げた。
見覚えのあるケースを見て、ルチアは慌てて手を伸ばす。
「アロルド、それを見せて!」
ルチアの勢いに驚いたように瞬きをしてから、アロルドがルチアの手にそれを落とした。
手元に戻ってきたケースをぎゅっと握り込んでから、ルチアは花束を膝に置く。
両手を使ってケースの蓋を開けてみれば、中には――何も入っていなかった。
何も、渡した時に入っていたはずの軟膏も、綺麗に無くなっていたのだ。
視界がぼやける。
魔女であるルチアの為に、花を選んでくれた。魔女であるルチアが作った軟膏を、使ってくれた。
それだけで、十分だった。
たったそれだけの事だと、他国の魔術師なら言うのだろう。
けれど、それがこの国では信じられない奇跡なのだ。
ぎゅっと唇を噛みしめる。
止まらない涙を拭いながら、ルチアは拳を握りしめた。
「アロルド……ニコラ……」
幼なじみの名を呼び、きっと顔を上げる。
「わたし、負けないんだから」
2人に向かって、ルチアは再度宣言した。
「わたしは絶対に手に職をつけて、アロルドとの婚約を破棄してみせるわよ!」
その言葉に約一名が多大なるダメージを受けたのを、ルチアだけが知らない。