5 綺麗な花には毒がある、その言葉には刺がある
抜けるように青い空は全てを飲み込んでしまったのか、雲一つ浮かんでいない。
潮の香りを含んだ風が吹き抜け、思わず微睡みたくなるような日差しが部屋いっぱいに注いでいた。
淡いピンクとレースに覆われた寝台の中で、ルチアはもぞもぞと体を縮こまらせる。
忙しいのか、ここ最近はアロルドやニコラは姿を見せていない。久方ぶりに流れる穏やかな午後を、ルチアはこれ以上ないほどに甘受していた。
どこからか、菓子を焼く甘い香りが漂ってくる。今日の茶会の菓子だろうか。
とろとろとした眠気を纏ったままうっすらと瞳を開けば、眩しさに視界が白く染まる。
「……カリーノ?」
判然としない視界に巨大な影が落ちた事に気づき、ルチアは呟いた。
答えるように「ゲコッ」と鳴く彼を見上げ、のろのろと体を起こす。
目元を擦って愛しいペットを見上げれば、カリーノは寝台の横でルチアをじっと見下ろしていた。つぶらな瞳がきらきらと輝き、鮮やかな色彩の体は金色の光を纏ってつやつやとしている。
あまりにも愛らしく神々しい姿に、眠気は一気に吹っ飛んだ。
何なのだこの生物は。なぜ存在しているだけでこんなに可愛らしいのだ。彼の愛らしさは、ここまでいくと罪のように思えてくる。
今日も取れたての毒草を腹いっぱい食べさせてやろうと心の中で呟き、ルチアは体に巻き付けていた毛布をはぎ取った。午睡の時間は終わりだ。温室と庭園を回って毒草たちの様子を確認し、カリーノに食べさせるものを選別しなくては。
ワンピースから作業着のシャツとズボンに着替え、炎の色合いの髪をまとめる。
ブーツに足を滑り込ませてから作業用の手袋を手に持ち、ルチアはカリーノを見上げた。
「カリーノ、おやつを選びに行きましょう?」
首を傾げながらそう告げ、手を差し伸べる。
ルチアの言葉を理解したのか、カリーノが「ゲコッ」と嬉しそうに鳴いた。
開け放たれていた窓からその巨体を踊らせ、一目散に跳ねていく。染みるような緑と毒々しい赤と黄色が、何とも目に痛かった。
しかし、ルチアにはそれすらも愛らしく感じられる。
満面の笑みを浮かべて、ルチアも窓から飛び降りた。
「風の精霊」
ルチアの声に、風の精霊達が歓声を上げながら寄ってくる。
彼らの力を借りて地面に降り立ったルチアは、屈めていた体をぐっと伸ばした。柔らかな芝生に踵を打ち付け、カリーノが跳ねて行った方向へと顔を向ける。向かった先は庭園だろうか。
散歩も兼ね、ルチアは舗装された道を歩き出した。
ルアルディ家の敷地はとにかく広く、庭園に行くだけでも十分な運動になる。ここ最近はカリーノに乗って庭園と温室を回っていた為か、すっかり運動不足だった。
途中途中ですれ違う使用人達と挨拶を交わし、時折相談を受けながら庭園への道を進む。あちこちからかけられる声には、街では決して得られない親しみが込められていた。
薬草魔術は薬草、ひいては植物の育成から学ぶ。その為、庭師達とも話が合うのだ。
彼らは魔術師ではないが、ルチアを忌避しない。日々悪感情に晒されるルチアにとって、彼らの存在は貴重だった。
「ところで、お嬢様」
ふと会話が途切れた瞬間に、庭師の一人が今思いついたとでも言うように声をかける。
「何かしら?」
小さく首を傾げたルチアに向かって、彼は少し迷った末に口を開いた。
「お嬢様は『魔術師』を募集している仕事をお探しみたいですけど、それ以外は探した事は無いんです?」
「……どういう事?」
彼の言葉に首を傾げる。何を言いたいのか、よく分からなかった。
「ですから」
続きを促せば、彼は土で汚れたズボンに手を擦りつけながらルチアに問う。
「ルチアお嬢様は『魔女』を募集している職を探していますけど、『魔女』以外の職業を探した事はあるのかと思いまして。
――魔術は使えないですけど、お嬢様は植物に詳しいんですから、花屋とかでも役に立てると思うんですけど」
その言葉に黙り込み、彼に言われた内容をかみ砕いて理解する。
しばしの沈黙の末に、ルチアは顔を上げた。
息を詰めて見守っていた庭師達の前でぽんと手を打ちあわせる。
「――ああ、その手があったわね」
それは、今この瞬間に指摘されるまで気づかなかった可能性に気づいた瞬間だった。
***
目の前で、鮮やかな色彩が踊っている。
日の光をいっぱいに浴びてうっすらと透ける鮮やかな赤はチューリップ、重たそうに頭をもたげている愛らしい白はスノーフレーク、淑やかに、しかし艶やかに咲き誇るのはリナリアだ。
視線を滑らせる。
ほんのりと甘く香るその空間で一際強い芳香を放つのは、一画に作られたハーブのコーナーだった。様々な香りが混ざったその一画は薬草魔術学の授業を彷彿とさせる光景で、思わず頬が緩む。
潮の香りをまとった風が吹き込み、一つにまとめた髪と真新しいエプロンを揺らす。
「ルー!」
店の奥から自分を呼ぶ声に、屈み込んで切り花の様子を見ていたルチアは顔を上げた。
「はーい!」
愛想の良い返事を返して立ち上がる。ぐっと体を伸ばせば、背筋に引きつれたような痛みが走った。
思わず顔をしかめてから、慌てて周囲に誰もいない事を確認する。
まだ朝も早い為か、店内に客の姿は見あたらなかった。考えてみれば、そもそもまだ開店前だ。客がいるはずもない。
とんとんと痛む背中を叩いていると、笑い声が降ってくる。
「わ、笑わないで下さいよ……!」
涙目で声の主を見上げれば、ルチアの雇い主である筋肉の塊――ではなく花屋の店主が盛大に吹き出した。
「ひどいです!」
一向に笑い止む様子の見られない彼を、軽く睨んでみせる。
「だってお前、ばあさんみたいに腰を叩いてるから……!」
言い訳じみたその言葉に思わず顔を赤らめて、ルチアはそっぽを向いた。
「だ、だって腰が痛かったんですもの」
「分かる、それは分かるけどな、ルー。どう見ても良い所のお嬢ちゃんが……ばあさんと同じ仕草って……!」
笑いの発作がぶり返したのか、店主は途中で言葉を途切れさせる。
店内に響き渡る爆笑に苦笑して、ルチアは肩をすくめた。彼と出会ってからはまだ日が浅いが、相当な笑い上戸である事はこの数日でよく分かっている。
なおも笑い続ける店主を見上げて、ルチアは腰に手を当てた。
「店長、笑っていないで開店準備を教えて下さいよ。その為に今日は早く来たんですから」
開け放たれた窓から見える時計台が、開店時間が迫っている事を告げている。周囲では精霊達が飛び回り、日の光を浴びる植物達を見て歓声を上げていた。
「もうそんな時間か」
ようやく笑いを収めた店主が我に返ったように呟き、ルチアを手招きする。
彼に続いて店の裏手へと移動し、ルチアはエプロンのポケットからペンと手帳を取り出した。
ルチアがこの花屋に雇われてから、既に5日が経っている。
植物の手入れに関しては知識が豊富なルチアだが、学ぶ事や覚える事は多く、手帳が手放せなかった。
ぼんやりと、ここ数日の事を思い返す。
庭師の言葉は、ルチアの視野を大きく広げた。指摘されるまで気づかなかったのだが、魔術を使わずとも働く事は出来るのだ。
そもそも、魔術を学んだからといって魔術を使う職に就く必要など無い。いっそ魔女である事を隠して職を得てしまえば周囲から厳しい目で見られる事も無いし、何よりも就活がしやすい。
今更のようにそう気づき、ルチアはその日の間に動いた。
王都で生まれ育ったとはいえ、上流階級に属するルチアは街の一部しか出歩いた事が無い。さらに、ここ数年は魔術学院に在籍していた為ほとんど街に降りてはいなかった。ルチアの顔は、あまり市井に知れ渡っていないのだ。
ならば、それを利用しない手はない。
魔女である事を隠せば、今まで出歩いた事の無い地区で職を探す事は思った以上に簡単だった。
職業相談所には顔が知られている為、彼らからの求人情報は当てにならない。勝手の分からない街を延々と歩き回る事を覚悟していたが、予想外の所から助けが現れた。
商業地区のすぐ近くに作られた広場で、求人情報が張り出されている掲示板を発見したのだ。
張り出されている求人情報は古いものから新しいものまで混ざっていたが、その場に漂う精霊達に問いかければすぐに新しいものを教えてくれた。
その中で最も自分に向いていそうな仕事――植物に携わる事の出来る仕事を探し出し、ルチアは自分を売り込んだのだ。
突如として飛び込んできた上に「自分を雇え」と主張するルチアの姿に店主は驚いたようだったが、ルチアが植物の知識が豊富な事、そして人手が足りなかった事もあり、その日のうちに仮採用が決まった。しばらくの間店で仕事をさせ、適正や勤務態度を見て本格的に雇うかを決めるらしい。
魔女ではないというだけで驚く程あっさりと決まってしまった職に愕然としつつ、ルチアは意気揚々と帰宅したのだった。
「それにしても、良家のお嬢様ってのも大変なんだなあ。綺麗な格好をして笑ってるだけかと思ってたら、随分とえぐいじゃねえか」
指示に従って黙々と店頭に桶を並べていると、しみじみとした声で話しかけられる。
その言葉に、ルチアは苦笑した。
「仕方ないですよ、権力争いとか財政とか色々ありますし、何よりわたしは一人娘ですし」
桶の中に茎の根本を切った花を活けながら、それに、と言葉を続ける。
「すぐに結婚させられないだけ、まだマシな方です」
「俺にはその考え方が分からねえけどな。可愛い子どもには、自分の好きな奴と一緒になって欲しい」
そうぼやく店主の表情は、やや曇っている。きっと、3歳になる愛娘の事を考えているのだろう。
ルチアの職が簡単に決まったのは、ある程度自分の事情を話したからでもあった。彼はルチアの境遇に、いたく同情してくれたのだ。
「だってよ、ルーはお嬢様だけど働いて自立したいんだろ?」
その言葉に頷く。
「はい」
「それなのに、本人の意思を無視して政略結婚だなんて酷いだろ」
「それを破談する為に、今働かせてもらっているのですけど?」
ついと首を傾げてみせれば、店主は「そうだな」と呟く。
「ルーは努力家だからな。一生懸命やってくれてるし、アイリスやリリーとも仲良くしてくれる。でも、だからこそ俺達は、ルーの可能性を潰すような政略結婚が酷い話だって思うんだよ」
その言葉に、ほんのりと胸が温かくなった。
急に現れて働き始めたルチアに、彼の妻であるアイリスと愛娘のリリーはとても良くしてくれている。知らない花の名前を教え、時折差し入れを持ってきてくれる。ルチアの事情を知ってからは事ある毎に声をかけてくれるし、周囲の案内までしてくれた。
そのおかげで、ルチアは自分でも驚く程すんなりと花屋に溶け込めたのだ。
彼女達の為にも、ルチアは早くこの仕事を覚えようと気合いを入れていた。
アイリスは店長と対照的で、花のように愛らしい女性だ。彼女は現在二人目の子どもを腹に宿していて、その為に花屋の仕事が出来ない。二人の娘であるリリーはまだ幼く、店の手伝いどころか目を離せない。
店に飛び込んだルチアが最初に引き合わされたのが、その二人だった。曰く、彼女達と上手く付き合っていけない従業員は雇いたくないそうだ。
それを聞いて、ルチアは彼が本当に妻と娘の事を大切にしている事を理解した。
彼女達の事を話す時の彼の眼差しは、本当に優しい。よくよく聞いてみれば、そもそも花屋を始めたのは妻であるアイリスが花好きであったからだという。丁寧に花の世話をする彼の姿はお世辞にも絵になるとは言えなかったが、不思議と違和感が無かった。
この花屋は、本当に温かくて居心地が良い。
毎日この場に訪れる度に、ルチアはそう感じている。
日の光に満ちた店内も、掃除の行き届いた空間も、全てが温かいのだ。
魔女であるルチアが知らなかった世界が、そこにはあった。
店内に枯れた葉や土が落ちていない事を確認してから、ぽんと店主の肩を叩く。
「店長、お店開けるんですからそんな顔していないで下さいよ。わたし、頑張りますから!」
とびきりの笑顔に気合いを滲ませて、ルチアは拳を握りしめた。
「じゃあ俺の愛しい婚約者に送る花を選んでもらおうか」
不意にかけられた声に、笑顔のままで振り返る。
「いらっしゃいま……」
次の瞬間、ルチアは凍り付いた。
朝日を浴びて、長い銀髪が黄金色の光を纏っている。
シャツとズボン、外套という軽装なのに、なぜか彼の周囲だけ華やいだ空気が漂っていた。
これでもかという程色気を振りまくアメジストの瞳が細められ、動きを止めたルチアをなめ回すように観察する。
「……なかなか」
真顔でそう評した彼を、亜麻色の髪の華奢な男が呆れたように見上げた。
「何度も言うけど、変態っぽいからねそれ」
「相変わらず酷いな」
「僕の胃を痛める君ほどじゃないよ」
何か言っているようだが、ルチアの耳には全く入らない。
ぎこちなく体を動かして、ルチアは彼らを指差した。
「……ルー?」
急に挙動不審になったルチアを見て、店主が首を傾げる。
「な……んで、あなた達がいるのよ――!」
ルチアの叫びが店内に轟くのは、その数秒後の事だった。