第7話「ユートは逃げ出します。」
立ち上がったユートの耳に、ヒュン、という空気を切る音が聞こえたのと、カキンという金属音が聞こえたのはほぼ同時だった。思わずユートが向けてしまった目に、短剣が地面に転がっているのが見える。ユートのすぐそばである。そうしてまた、自分のすぐ目の前に華奢な後ろ姿があるのをユートは見た。サヤである。どうやら、ユートに向かって投げられた短剣を、サヤが叩き落としてくれたらしい。投げたのが誰であるかは、考えるまでも無い。
「あのさあ、ユート」
金色の髪をショートにした少女は、敵対する黒髪の少女を見ながら、ユートには目を向けないで言った。緊迫する雰囲気にそぐわない普通の調子の声である。
「三十秒もたせてくれないかな? その間にあたしはリニアをやっつける呪文を完成させるから」
ユートはぞっとした。この子は何を言っているのか。三十秒もたせる、というのは、今しがた短剣を投げてくれた少女と三十秒やり合えということか。普通に無理である。彼女と三十秒もやりあったら、十回は死ねる自信がある。
「三十秒あれば、あたしの極大呪文が完成する。それさえできれば、リニアを倒すことができるわ」
どうでもいいことながら、彼女の名前は「リニア」ではなく、「レニア」である。「ラニア」か「レニア」か分からなかったら、サヤはあいだを取ったのだろうか。
まるで冒険パーティを組んだ二人の戦士が、強大な魔物と戦っているかのようなノリのサヤである。おそらく冗談を言っているのだろう。仮に本気だとしてもどうにもできないわけであるが、ユートにとっては、冗談では済まされない話である。
――はやく逃げないと……。
いつの間にか、レニアの手には、もう一本の短剣が現れている。
――早く!
しかし、迂闊には動けない。地面から立ち上がったときに、短剣を投げられたということからすると、レニアの意識は、油断なくユートに向いているということだ。不注意に動けば、あと何本あるかしれない短剣で、向けた背中をぶすりとやられるかもしれないのだ。
とはいえ、そういう判断を冷静に下すための修羅場を、ユートはこれまで一度もくぐったことが無かった。なので、感情に駆られるまま行動を起こした。すなわち、二人の少女に、くるりと背を向けて、一目散に走り出したのである。そのあまりに軽率な動きが、逆にレニアにとっては虚となったのだが、もちろん、ユートはそんなことは知る由も無い。
ユートは走った。
その足が向かう先は、隣家である。
――人がいれば助けてもらえる。
ユートの家は郊外にあって、ゴミゴミした町中とは違い、隣家まではたっぷりとした距離がある。ユートは走る。彼の脳裏には、レニアが鬼のような形相で追いかけてくる姿がありありと映っている。振り向いたら負けである。後ろを振り返ったら最後、追いつかれて、取って食われてしまう。そんな妄想が、しかし、あながち妄想と言って片づけられない状況が、現状である。現に、ついさっき、二度も殺されかけたのだ。
――なんで、ボクが! なんで、こんなことに!
走りながら、どうしようもなく浮かんでくる問いに、答えてくれる者はいない。
隣家の門を見たとき、ユートは、ホッとした。ここに飛び込めば助けてもらえるはずだ。そう考えたときに、思いついたことが一つ。
あのレニアという女の子は、自分をかばう人間をどう扱うだろうか。
――反逆者に味方するものは、すなわち、反逆者だ。
レニアが、サヤに言っていた言葉を思い出した。
ユートは背筋が寒くなるのを覚えた。自分が助けを求めた人間が、レニアの凶刃にさらされる姿を想い浮かべたのである。
ユートの足は、隣家の門前で止まった。振り返る。追いかけてくる者はなかった。遠目に、二人の女の子が対峙しているのが見える。
ユートはすばやく考えをまとめた。頼れるのは誰か。すぐに思いついたのは、市の警察組織ともいえる「自警団」である。自警団であれば、危険を及ぼしても問題はないだろう。市民の安全を守るために危険を受け持つのが当該組織の存在意義だからである。
自警団詰所の本庁は市の中心部にあるのだが、支所が市のそちこちに点在していて、その一つがこの近くにもある。ユートは、そこまで走ることに決めた。そのとき、レニアの短剣と向かい合っているサヤのことを考えなかったわけではなかったが、ユートにとって、サヤが心配だから戻る、という選択肢は論外だった。
理由その一。自分が戻っても、事態は改善しない。右往左往して、サヤの邪魔になるだけである。
理由その二。サヤ自体がどういう子なのか明らかではない。なので、彼女の味方をする必要自体があるのかどうか分からない。
理由その三。怖い。これが一番大事。
というわけで、ユートは、隣の家の門の前から、市街地へと向かって駆け出した。普段、「王宮魔導士」になるため、走り込んでいるので走るのは苦にならない。ユートの家は小高い丘の上にあるので、街に向かうときは、坂を下ることになる。必死の気持ちに、坂道を下る勢いが加わって、ユートは素晴らしい速度で疾走した。