第43話「ユートはミシュルと、レニアに会いに行きます。」
風のように現れて、風のように去っていった女の子。
いったい彼女は何だったのかと自分に問いかけてみても答えは返らず、答えを返してくれるとしたら、母だろう。今朝母と話をしたというようなことを、サヤが自分で言っていた。とはいえ、あんまり答えを聞きたいという気にもならない。所詮、彼女と自分とでは住む世界が違うのだ。
かたや、一国の解放運動に身を投じ、昔の主人の仇を取るために命を賭している烈女。対するユートは良くも悪しくも、常識人である。既成の法と秩序を守って、できるだけ危険を避け、安穏に暮らしていくことが彼の望みである。
唯一常識的でないところと言えば、一商人の小倅であるにも関わらず、高級官僚「王宮魔導士」を夢見るという大それた希望を持っているということだろう。しかし、それは、誰しもが少年少女時代に持つであろう「こうなれたらいいなあ」という願いの淡さをいまだまとっており、その意味では常識の範疇を超えてはいない。
立ち去るサヤのために何もできない自分をユートは不甲斐なく思う部分もあったが、それもやむをえないところだった。
サヤの背が雑踏に紛れて完全に見えなくなってしまってから、立ち上がろうとしたユートは、不意に視界が暗くなったので、驚いた。
「うわわっ」
慌てて、目をふさぐものを取り除こうとすると、冷ややかな手に触れた。
後ろから、春風のように軽やかな笑い声がする。
「そんなに驚かなくても」
ユートの目から闇が払われた。ベンチに座ったまま振り向くユートを見下ろす格好で、女の子がひとり、花顔を綻ばせている。ミシュルだった。
「サヤさんは?」
「ヴァレンスに帰ったよ」
「急に? どうして?」
それは、プライバシーの問題なので、ユートは口をつぐんだ。ミシュルは勘の悪い子ではない。それ以上、サヤが帰国した理由については突っ込まなかった。
「帰る前にヴァレンスのことを色々と聞きたかったんだけど。惜しいことしたな」
ミシュルはベンチを回り込んできて、ユートの隣に腰を下ろした。
「体は大丈夫? 昨日はスゴイ冒険をしたみたいだけど、どこか怪我とかしてない?」
その言葉は同情の色に満ちていて、心地よくユートの胸を潤した。そう、スゴかったのである。昨日は一日。しかし、両親はそれをスゴいことだと認めてくれはしなかった。母に至っては、息子を叱り出す始末である。
「ユートは、ジハラに戻るの?」
母の言いつけに従うとそういうことになる。しかし、迷っている部分もあった。ヴァレンスは危険な国である。そこからやってきた二人の少女のおかげで、それがよく分かった。そんなところへ両親だけを行かせてよいものか。自分が行っても何ができるわけでもないだろうが、家でひとりで心配して待っているよりはマシかもしれない、とユートは考慮中だった。
「小母さまと小父さまが、どうしてヴァレンスの王女様に招かれているのかは、分からないんでしょう?」
ミシュルが訊いてきた。
ユートは首を横に振った。全然分からない。分かるわけがない。つい昨日まで殺そうとしていた相手を、一転、招こうというのだから、理解を超えている。
「もしかして、母と父をヴァレンスに呼び寄せて、そこで殺そうとする作戦なんじゃ……」
思わず、考えたことを口に出したユートは、自分の想像に身を震わせたが、
「それはないと思う」
即座にミシュルは否定した。
「それなら初めからそうしているハズでしょ。これまで殺そうとしていた相手に、急に『お招きします』って言っても、聞き入れてくれるわけないからね。そんなの作戦でもなんでもないよ」
「……でも、現に母さんと父さんはヴァレンスに行くことにしたみたいだけど」
「それもそうだね」
よし、とミシュルは立ち上がった。
それから、ユートに向かって、えくぼを作る。
「付き合ってくれないかな、ユート」
「どこへ?」
「『赤の夕陽』亭」
どこかで聞いたことのある名前である。それもそのはず、確か、ヴァレンスの暗殺者、改め王女の使者であるレニアが泊まっている宿名だった。
「な、なんでそんなとこに行くの?」
ユートはもう及び腰である。
ミシュルは簡単に答えた。
「レニアさんに会いに行くのよ。ちょっと訊きたいことがあるから」
「どんなこと?」
「ちょっとね」
そう言って実に魅力的な笑顔を向けてきたミシュルだが、ユートとしては、昨日殺されかけた相手である、ちょっとのことで会いたい人ではない。それに、そもそも、レニアのことはどこまで信用できるか分からない。ノコノコ彼女の前に姿をさらしたら、途端に斬られてしまう可能性だって無いことはないだろう。
ユートがそうこう考えてぐずぐずしているうちに、ミシュルはさっさと背を見せて歩き出した。ためらったユートだったが、自分のことも心配だが、とともに、ミシュル一人を最強の肉食獣リーグルの穴にも似たところに行かせるわけにもいかず、彼女の背を追うしかなかった。