第41話「カート夫妻はそれを受けます。」
一瞬、確かに、レニアの顔に驚きの影が走るのを、ユートは見た。
こんなに早くしかもあっさりと母が決断するなどとは思いもしなかったのだろう。
それはユートも同じだった。レニアと違いまともに驚いたユートは、えっ、と小さな叫びを漏らしてしまったほどである。
レニアは、虚をつかれた顔を慌てて元に戻すようにすると、
「……早速のご快諾、痛み入ります。では、明朝にお迎えに上がります。必要な物があれば、こちらでご用意しますので、『赤の夕陽』亭までお言付けください」
そう言ってサッと立ち上がって一礼した。
「遠慮なくそうさせてもらいます。お役目ご苦労でした」
「では」
「レニアさんは、今日は一日ゆっくりと休んだ方が良いですね。体調がお悪いようですから」
ユートの母の言葉に、レニアはハッとした顔を見せたが、何も言わず部屋を辞した。
「さて」
レニアの後ろ姿を見送った母は、パンと手を打ち合わせた。その音には陽気な響きがある。
母は息子に、
「そういうことになりました。わたしとお父様は、色々と準備がありますので、あなたのことを構ってあげられません。今日は一日、好きになさい」
そう言ったきり、すぐに動き出そうとするような気配を見せた。
ユートは慌てた。
「ちょ、ちょっと待ってよ、母さん」
あまりに慌てすぎて、人前であることを忘れ、いつもの調子で言ってしまったほどだった。それを少し叱るような目で、母が見る。ユートはたじろいだが、そんなことにくじけているときではない。構わず、口を開く。
「ヴァレンスに行くことをそんなに簡単に決めていいの? レニア……さんの言うことが本当かどうかも分からないし、仮に本当だとしてもヴァレンスに行って具体的にどんなことをするかも分かってないのに。それに、そもそもあの人の仲間……か、もしかしたらあの人自身が、ハロッドさん一家を殺したんだよ。そんな人と一緒に旅するなんて!」
つい声が大きくなったが、それだけユートにとっては意外すぎる展開だったということである。暗殺者の言葉をあっさりと受け入れるなんて。母はどうかしているのではなかろうか。あまりに不用意である。せめて、もっと情報を集めてからにすべきだ。何事にも慎重を期すユートには、母の大胆さ、もっと言えば無謀さが信じられない思いだった。父にしたって、そんな母を止めるどころか、アイコンタクトでゴーサインを出しているのだから、家族の中で正気なのは自分ひとりなのではないかとユートは疑った。
「あなたの気持ちは分かります」
母は、ユートの言葉を受け止めるような言い方をした。
分かってもらえたと思ったユートは、ホッとしたが、
「しかし、これは商談です。あなたが口出しすることではありません」
一瞬後、ぴしゃりとした声を聞いて、言葉を失った。
「ヴァレンスにはジハラを通って行ってもらうことにしますので、あなたはそこで家に戻りなさい」
母はそう言うと、もう他に言うことはないとでも言わんばかりに、隣の父に話しかけた。
父は、ちらりと同情するような目を息子に向けたが、何も言わず、母に応えた。
忙しく話し始める二人。
ぽつねんと取り残された格好になったユートは、両親のすぐそばにいるというのに深い孤独を感じた。
母と父は息子に見向きもしないで、ヴァレンスに行くにあたり、ここイデュー市でなすべきことを詰めようとしている。
ユートは親に頑強に抵抗するようなガッツを持っていない。そのまま引き下がる格好で、途方に暮れて立ち尽くしていると、ちょんちょんと、隣から腕を突っつかれた。サヤである。
「ちょっといい?」
何か胸に秘すものがあるかのように、彼女は真剣な顔をしていた。
ユートはうなずくと、先に立つ彼女のあとについて廊下に出た。それから階段を降りて、宿を出る。外は晴れ。空は、海の色のような濃い青で、ところどころに波頭のような形をした白雲が見えた。
「お別れだね」
宿の近くに大きな街路樹があって、その木陰にベンチが設けられている。街路を歩く人のちょっとした休憩スペース。そこまできて、ベンチに腰かけたサヤは、隣に座らせたユートにいきなり言った。
両親にのけものにされてがっくりきていたユートの頭は、サヤのその言葉で、切り替わった。
突然に別れを告げられて、
「どうして?」
と問い返そうとしたユートだったが、考えてみれば、サヤがこのままユート達に同行すると考える方がおかしな話である。サヤにはそんな義務は無い。旧主の血縁に当たるということでこれまで義理で行動してくれていたのだろうけれど、危難が去った今となっては、その義理を通す必要も無いわけだし。
「ロンフリイだったら一緒に行くつもりだったんだけど、さっきのレニアの話で事情が変わっちゃったからね。わたしもヴァレンスに戻らなきゃ」
どう事情が変わったのか、ユートは訊かなかった。
そよ風が梢を揺らす。
街路に映る木の葉の影がさわさわした。
サヤは、すっとユートに身を寄せてきた。
「ユート」
「え、な、なに?」
鼻先が触れそうな近さに女の子の顔があって、どきまぎしたユートだったが、サヤはいたって真面目な顔をしている。冗談をやりたいわけではないらしい。