第32話「夜の街道を歩きます。」
ごくり、と唾を飲んだあと、ユートはゆっくりと振り返った。恐ろしいものに遭遇したとき、理屈としてはパッと確認した方が良いのだろうけれど――すぐに対応するためだ――なぜか感情がそれを許さない。そろそろとゆったり確認したくなってしまう。
振り返ったユートの前に、薄闇をまとったリムウの姿があった。
ユートは安心したが、胸の動悸はなお治まらなかった。
さっき宿から出て歩いていたところに声をかけられたときもそうだったが、今回も全くリムウの気配を感じなかった。足音も聞こえなかったし。
「すみません、驚かせてしまったようで。足音を消すのはクセになっていまして。常にそうしていないと不安なんです」
リムウの穏やかな声が、闇の中にふわっと漂った。
ユートは胸を落ち着かせた。
「でも、どうやって市壁を越えてきたんですか?」
「よじ登りました」
ユートの問いに、リムウはあっけらかんとして答えた。
――登る? あの高い壁を?
にわかには信じがたいユート。しかし、本人がそう言っているのだから信用するしかない。ウソをついているようなこともないだろうし。冒険者もランクBになると、市壁を登ることなどたやすいのだろうか。あるいは、何かしらの便利なアイテムでもあったのか。壁登り用の。
「ユートさんにお聞きしたいことがあるんですが、立ち止まっているのもなんですから、歩きながらお話しませんか」
そう言うと、リムウは歩き出した。確かにリムウの言うとおりである。こんなところで、くっちゃべっている場合ではない。ユートはリムウの隣に並んだ。
ぬるい夜気の中をユートは歩く。ときおり、木々のざわめく音と夜行性の鳥の鳴く声の他は何も聞こえない。静かな夜である。
「あの、リムウさん。良かったんですか。市壁を越えてしまったりして」
と訊いてしまってから、ユートは、リムウが何か自分に訊きたいことがあるとついさっき言っていたのを思い出して、バツの悪い思いをした。しかし、これも訊いておきたいことであるので、そのまま黙って、答えてくれるのを待っていると、
「良くはないのでしょうが、緊急事態ですから」
リムウの軽やかな答え。
「すみません、ボクのために」
「いえいえ、そういうわけでは。ユートさんの責任ではありません。自分自身の決断ですので、何かあれば、それはわたしの責任です」
ユートはリムウの義侠心に感動した。冒険者は、いくら依頼人の命だからといって、違法行為に加担する必要は全くない。というより、それは禁じられている。つまり、ユートが市壁を越えた時点で、リムウは、「ルールを破る人には付き合えません。じゃあ、さよなら」と言って帰っても良かったのである。いや、帰るべきだったと言ってもよい。それは、誰からも責められるところではない。
にも関わらず、ユートを追ってくれたということは、それはユートが心配だったからというその一事からとしか考えられない。もちろん、ユートをきちんと親のもとに返すことで得られる報酬目当てに、ユートを追ってきたということも考えられなくはないが、その可能性は高くない。冒険者ランクBは、多少の報酬と引き換えにできるようなキャリアでは全然ないからだ。
ユートは感動の余韻に浸りながら歩いた。そうして、感動しつつも、
――ボクにはそんなこと絶対にできない。
とも思った。見も知らぬ他人のために法を破るなんていうのは正気の沙汰ではない。ユートには、自分もまさに先ほど同じことをしたのだという意識はない。というのも、やった行為自体は同じでも、リムウは自発的にそれを行い、ユートは半ば以上強制的にそれを行ったのである。やったことが同じでも動機は全然違う。それが行為の質を全然違ったものにする。
「あの、リムウさんがボクに訊きたいことって何ですか?」
随分長い間歩いていたような気がするが、道を歩くたよりが現れたり隠れたりする頼りのない月のその明かりしかなく、どのくらい進んでいるのかよく分からない。でも、とにかくユートの感覚にとって長いと思われたときに、その間沈黙していた隣の青年に向かって、そう尋ねた。
リムウは、「あっ」とすっかり忘れていたような声を出すと、先ほどユートが使った呪文について尋ねてきた。
「あれはどこで習ったんですか?」
「師です。元『王宮魔導士』のゲンジがボクの先生なんです」
ユートは誇らしげに答えた。
リムウが言う。
「『飛行』の呪文は、今はもうほとんど使われてない高等呪文だと聞いています。それをその年で使えるなんて、ユートさんは大変な魔導士ですね。いくら師が良いとはいっても、大したものです」
リムウの声には混じりけのない感嘆の色がある。
呪文のことを褒められたことのないユートは恥ずかしくなって、
「でも、さっき使ったのは、本当の『飛行』じゃないんです。『飛行』の簡略バージョンで。本当の『飛行』みたいにスイスイ飛べませんし」
自分を低めるような言い方をした。
「いや、それでもスゴイことですよ。わたしの知り合いにも相当に力のある魔導士がいますが、その人でも使えませんから」
リムウの褒め言葉に、ユートは照れた。