第31話「ユートは、決まりを破りました。」
勝手な手段を講じて市門を出るということは、市の決まりを破るということである。
ユートのためにあらかじめ弁護をしておけば、彼は、普段であれば絶対にそういうことを考えるような子ではない。決まりを破るということは危険な行為であり、危険な行為は極力行わないように、石橋をたたいてたたきまくって叩き割ってから改めて鉄の橋をかけてそこを渡るようにするのがユートという少年である。
しかし、このときは違った。それをしなければ市の外に出られないのであればするしかない、と素直に思っている自分を、ユートは、変だな、とも思わなかった。それだけ切羽詰まっていたということである。人が罪を犯そうとするときというのはそういう心持ちなのかもしれない。
ユートは市の壁に沿って歩き出した。壁は随分と高い。外からの侵入者を防ぐためのものであるので、当然である。しばらく歩いたところで立ち止まり、壁に手をかけてみる。壁は切りそろえた石を組み合わせて作られたもので、指をかける隙間くらいはあるようだが、簡単に登っていけるようなものではない。少なくともユートには無理である。
「何か考えがあるんですね、ユートさん」
後ろからついてきたリムウから確信に満ちた声を聞いたユートはあいまいにうなずいた。何か、というか、これしか考えようがないことが一つある。しかし、ちゃんとできるかどうか自信はない。自信はないが、やるしかない。やれることをやってみて結果無理であれば、それはもうどうしようもないのだから、宿に帰ればいい。まさか母も息子に不可能を求めることはしないだろう。
ユートは、夜の下でひそやかに声を出した。「呪文を使って、壁を越えます」
リムウから反応がない。それをユートは、非合法なことには関わりたくないがゆえの沈黙であると受け取った。当然である。冒険者は犯罪行為に関わったことを協会に知られれば、厳しい制裁を受ける。当局から罪にも問われる。残念ながら、そうしてかなり心細いことになるが、リムウとはここで別れなければならないだろう。別れてひとりでサヤを探しに行かなければならない。もちろん、それもこれも、これからすることに成功すればの話であるが。
ユートは、周囲に耳を澄ませて人気がないことを確かめた。それから空を見る。皓皓とした月が輝いているが、幸いなことに叢雲がかかりかけている。暗い方がこれからやることにとって都合が良い。
少し待つと、闇が濃くなった。月が隠れたのだ。
ユートはその機をとらえて、呪文の言葉を唱え始めた。
「『わきの下から現れ出づる月、虹の如く曲がる穴へ、羽を張りて立ち、交差して進め……夜空飛行』」
古の言葉の音楽的な響きが消えたとき、ユートの足元から地の確かさが消えて、体がふわりと宙に浮いた。浮いた体がふわふわと上昇して、ついには市壁と同じ高さにまで達した。ユートは一言、呪文を唱えた。すると、ユートの体が前へと移動する。そろそろと市壁の上を通り抜けて、抜け切ったところで、もう一言呪文を唱える。今度はゆっくりとユートの体は降下した。
しばらくして、ユートの足が地面をつかむ。市内から市外の地へと出た瞬間だった。
ユートは、急く気持ちを抑えて、ゆるやかな足取りで市壁から離れた。本当はすぐに猛ダッシュしたいところなのだが、市壁付近のどこに見張りの目が配されているか分からない。急な動きをしたり、大きな音を立てたりしない方が良いのではないかと判断したのである。
まるで盗賊みたいだなあ、と自嘲気味に考えたユートだったが、それは心に余裕があったからではなく、むしろ冗談を思うことによって気を紛らわしたかったからである。しかし、成功しなかった。市壁を越える前は事の良し悪しを考えなかったユートだったが、してしまった後に、してはいけないことをしてしまったのだという良心の呵責が急激に襲いかかってきた。
――やってしまった……。
これまで品行方正とは言わないまでも、良識のある市民として生活してきたユートだったが、これで晴れてアウトローの仲間入りである。
ユートは首をぶんぶんと横に振って、暗い暗い地の底深く沈みこんでいきそうなテンションを、どうにか引き上げようと、これからなすべきことに想いを致した。
サヤの危機を救う。
人命を救うためであれば多少の無茶は許されるハズ!
ユートはそう思い込もうとしたが、しかし、問題はあのサヤが危機に陥っているかどうかということである。平気な顔で前から歩いてくるサヤとばったり出会いそうな気がした。
ユートは、大分城壁から離れたと思われたところで、方向を変えて街道へと向かった。雲が切れて、月はその姿をあらわにしている。またいつ隠れるか分からないので、ユートは街道へと急いだ。とりあえず、街道を歩けば、いつかサヤのいる所につけるだろう。
「いやあ、『飛行』の呪文が使えるなんて、スゴイですねえ、ユートさんは」
背後から唐突な声がする。
本当に恐怖した時は叫び声なんか出ないものだとユートはそのとき思った。