第16話「ユートは貸し馬車屋と交渉します。」
サヤはカウンター越しに、ずいっと兄ちゃんに、顔を寄せた。
自分の代わりに交渉役を買って出るかのように前に出たサヤを、ユートは、どうするつもりなんだろうか、と疑問の目で見た。それは期待の目でもある。ユートは女の子も苦手だが、この兄ちゃんのような乱暴な言動をする男も苦手である。サヤがうまく扱ってくれるのだろうか。
男は、うさんくさそうなものでも見るような目で、サヤを見ている。
すると、サヤは、本当にうさんくさい行動を始めた。すなわち、男に向かって、上目づかいをすると、
「ねえ、おねがーい。わたしたち、今とっても急いでるのぉ。馬車がどうしても必要なのよぉ。貸して、お兄ちゃん」
間延びした声を出した。同時に両手を、胸の前で組み合わせる。
男は、うげ、という顔をちょっと引くようにすると、ユートを見て、
「おい、お前の連れ、頭がおかしいのか?」
言った。
ユートは、そんなことありません、とはっきりと言えないことが悲しかった。どう答えれば良いのか迷っていると、
「お兄ちゃん。サヤの、お・ね・が・い」
サヤがウインクを放つのが見えた。
ピンクのウインク弾は、貸し馬車屋の男のハートを打ち抜いたりはしなかったようである。
「何やってんだ、お前?」
冷たい声で、男が訊く。
サヤは、ちょっと首を傾けるようにしながら、
「色仕掛けだよ。お兄ちゃん」
猫撫で声を出す。
「はあ?」
「お兄ちゃん、女の子に縁がなさそーな顔してるから、ちょっと甘えてみれば、馬車貸してくれるかなって思ったんダヨ」
「『ダヨ』じゃねえ! お前、今さらっと失礼なこと言ったろ。ぶっ殺されてーのか、このアマ!」
「殺されたくはないよ。わたしには夢があるからね」
そう言うと、サヤはその瞳を夢見るように輝かせた。
「そのうちの一つはね、料理のできる男の子と結婚することなんだ。わたしが家に帰るとね、彼はいっつも何か作っておいてくれるのよ。『先に飲んでたけど、君もどう?』なんて言って、作っておいた料理を出してくれるんだ。そのとき飲むのはやっぱり『ギンジョウ』だな。『ギンジョウ』知ってる? ヴァレンスのお酒よ。おいしいんだ、これが。まあ、数回しか飲んだことないんだけどね。今度、機会があったら飲んでみてね、お兄ちゃん。この『お兄ちゃん』っていうのはね、そう言うと男の人は喜ぶって友だちから聞いたから、さっきから言ってるの。喜んでる? で、どこまで話したっけ、そうだった、料理を出してくれるとこまでだったね。わたしは毎日作ってくれる彼にお礼を言うの、『いつもごめんね』って。すると、彼はこんな風に答える、『サヤに料理をするのはボクの喜びなんだよ、マイ・スウィート・ハニー』って。『ありがとう。本当にあなたと結婚してよかったわ、ユート』」
言い終わると、サヤは、ほお、と吐息をついた。
聞いていた、というより無理やり聞かされていた男は、頭がくらくらしたようだった。
ユートは、サヤのおしゃべりには馬車屋の男よりも少しだけ耐性があったが、妄想上の彼女の夫に自分がスターリングされていることに気づくと、男に負けず劣らずくらくらした。悪い冗談である。
先に回復したのはユートだった。
「お願いします、貸してください!」
ぼおっとしているサヤの隣から口を出す。
男は、ぶるぶると頭を振って、正気を取り戻すと、
「わりいが、規則は規則。カートさんとこには懇意にしてもらってるが、規則は破れねえ」
さきほどよりは柔らかな口調で答えた。
ユートは、がっかりした。どうやら、ここでは両親の信用で契約するわけにはいかないようである。
――歩いて行くしかないか……。
馬車と徒歩では、隣市までの所要時間に三、四倍ほどの差が出る。一刻も早く父母のもとに行きたい現状では馬車を諦めがたいものがあるが、とはいえどうしようもない。貸し馬車屋は他にもあるが、父母が利用しているのはこの店だけであり、他の店ではよっぽど可能性が無い。
諦めたユートは、ありがとうございました、と言って、カウンターに背を向けた。そのまま、店を出ようと一歩を踏み出す。そのとき、後ろから、すなわちカウンターの方から、ちゃりちゃりちゃり、と硬貨の音が聞こえてきた。
振り返ったユートの目の前で、サヤが、カウンターの上で革の小袋を逆さにしていた。その小袋から、金色に輝くコインが溢れ出ている。莫大な量である。ユートは目を丸くした。貸し馬車屋の男も同じようにしている。
「これで足りる? 必要な分だけ持ってってね、お兄ちゃん」
サヤがにこやかに言う。
ユートは驚きを覚ますと、彼女の意図を読み取って、口を開きかけたが、その前にサヤが、
「あとで返してくれればいーから。遠慮は無用です」
ユートの意図を見通しているかのように言った。
ユートは、知らない人から、しかも女の子からお金を借りることに抵抗があったが、そういう心の問題と両親の命のどちらが大切であるかと考えれば、答えは明らかだった。