魔王は勇者を待っている
玉座は冷たかった。
この城に暮らしてから何度目の冬なのか数えるのはやめてしまったけれど、石の壁はいつも霜を吸って白く曇っている。
わたしはずっと待っていた。
生まれたばかりのころ、わたしを覗き込んだものがいた。親と呼んでいいのかはわからない。輪郭を持たない黒い霧のかたまりで、声だけがはっきりしていた。
――いつか勇者が来る。
霧は言った。
――それがおまえの運命の人だよ。
運命の人。意味はわからなかった。けれどその響きだけが胸の底に沈んでいつまでも溶けずに残った。
魔物たちに人間を連れてこさせた。玉座の足元に転がされたものを啜ると魂はほどけて、その人間が抱えていた言葉が中身ごと流れ込んでくる。母。畑。借金。祭りの夜の匂い。そうやってわたしは物を覚えていった。
運命の人というのは出会った瞬間に世界の色が変わってしまう相手のことらしい。
人の魂はみんなほとんど同じ形をしている。どれだけの魂を啜っても、わたしの色はいつまでも変わらないままだった。
魔物たちが人里を焼き人間たちが剣を鍛える。その繰り返しの果てに誰かがこの扉を開けるのをわたしは待ち続けた。
扉が軋んだのは、城じゅうの魔物が悲鳴を上げだしてから三日目の朝だった。
入ってきた人間は小さかった。想像していたよりもずっと。鎧は割れて片方の肩当てが失われ、髪も肌も乾いた血で黒ずんでいる。それでも目だけが燃えていた。わたしを見つけた瞬間にその火は音を立てて膨れ上がった。
「よくも」
声は喉が裂けそうなほど掠れていた。
「よくも父さんを」
剣が胸に入った。思っていたより痛くはなかった。骨の隙間を鉄がこじ開けていく感触だけが妙に鮮明で、わたしはそれを味わうようにゆっくりと息を吐いた。
「母さんを返せ。弟を返せ」
抜かれてまた刺さる。二度目は肩の下。三度目は腹。
「隣のばあさんも殺した。パン屋のじいさんも。俺と一緒に村を出た友達も。全部おまえたちが」
わたしは抵抗しなかった。手を上げることも身をよじることもしなかった。彼が刃を抜くたびに傷から黒いものが滲んで、その黒がまた彼の頬を汚した。
やがて彼の腕が震えはじめた。振り下ろす速さが落ちて刃先が肋にぶつかって滑るようになった。それでもやめない。泣きながら刺していた。
わたしは笑っていた。
こんなに強い感情を生まれてから一度も向けられたことがなかったから。
わたしの中で何かがかたちを結びはじめていた。
「ねえ」
わたしは言った。
「人間は男と女が体を合わせて子供を作るんでしょう。魔族はどうやって作るのかずっとわからなかった」
彼の手が止まった。何を言われたのか理解できないという顔で、それでも剣は握りしめたままだった。
「いまわかった。感情と感情を合わせるのね」
彼の頬についた黒いものが涙で筋になった。
「あなたがこんなに強い感情をわたしにぶつけてくれたから。わたしもあなたに会えてこんなに」
喉の奥から何かがせり上がってくる感覚がして、言葉が詰まった。
「……だか、ら」
最後まで言えたかどうかはわからない。膝が石床に落ちる音を遠くで聞いた気がする。
わたしだったものから黒い霧が噴き上がった。
噴水のように天井まで届いて梁にぶつかって砕けて、玉座の間いっぱいに広がった。
壁も床も彼の顔も黒く染まっていく。
世界の色が変わっていく。わたしの色に。
それから部屋の隅にゆっくりと集まっていって、そこで小さなかたちを結んだ。
勇者は剣を取り落とした。
彼は自分の手を見た。血と黒いもので汚れて、まだ震えている手を。
殺しに来る者は必ず憎んでいる。憎んでいない者はここまで辿り着けない。
魔王を産むには世界で一番憎まれなければならない。
黒い霧の中から小さなものが顔を上げた。まだ目鼻の輪郭も定まらないのに、彼を見つけて嬉しそうに笑った。
勇者は膝をついた。
これから百年か千年か、あの子は玉座に座って待つのだろう。運命の人を。そしていつか扉を開けて入ってくる誰かに、同じように笑いかけるのだろう。
――いつか勇者が来る。
霧が言った。生まれたばかりの小さなものを覗き込んで、優しく。
――それがおまえの運命の人だよ。
黒い霧になった、わたしの最後の言葉だった。




