契約婚約は一季限り。勝手に提出された私の『家政見本帳』どおりに館が幸せになるたび、返される日が近づきます——最後の頁の先も、と辺境伯様は仰いました
【宛先のない一季】
「一季後の婚約破棄を前提に、婚約してください」
笑うところを探した。見つからなかった。ケイ院長は冗談を言うときも背筋がまっすぐなので判別しにくいのだが、机の上には署名済みの推薦状と、見覚えがありすぎて今すぐ暖炉へ放り込みたい青い帳面が並んでいる。
「ケイ院長。確認ですが、破棄される部分が本題ですか。婚約する部分が本題ですか」
「両方よ。ラドナー辺境伯は一季だけ婚約者を迎え、閉じていた自邸を再開する。あなたはその実習に参加する。一季満了後、婚約は終了」
「大変わかりやすい説明をありがとうございます。わかりやすすぎて逃げ道がありません」
帳面の表紙には『一季家政見本』と私の字で記されている。令嬢学院の課題ではない。眠れない晩に、こんな食卓なら座ってみたい、帰ってきた人へこんな灯りを残せたら、と実務様式で書き溜めただけの空想である。
使用人の配置、献立、花の交換日、暖炉前で相談する時間。どこにも相手の名はない。宛名を書いたら、その人がいない事実まで書面になってしまうからだ。
「どうしてこれが辺境伯様の婚約者選びに使われるのです」
「自邸を再開するための見本を求められたから、提出したの。献立は現実的、費用配分は堅実、働く者の休養日まである。使える暮らしを書いたなら、使う人に会いなさい」
ケイ院長は最後まで迷いなく断定し、推薦状へ印を押した。私の空想、就職先どころか婚約先まで獲得。本人を差し置いて出世しすぎではないだろうか。
扉が叩かれ、長身の男性が入ってきた。濃い色の上着は旅の埃ひとつ許さず、けれど手にした帽子の縁だけがわずかに歪んでいる。握りしめてきたらしい。
「ヴィクトル・ラドナーです。突然の申し出をお詫びします」
「カルミア・ソーンです。突然すぎて、まだ驚きの作法が決まっておりません」
「では、決まるまで待ちます」
本当に待ちそうな顔だった。冗談のほうが先に館へ帰りたくなるほどの生真面目さである。
ヴィクトル様は青い帳面を机から取り上げた。頁の端には細い紙片が何枚も挟まれ、読み込まれた背はもう新品の硬さを失っている。
「この帳面には、私ができなかったことが書かれています。食卓を使うこと。帰りを待つ灯りを置くこと。明日の予定を誰かと決めること」
帳面ではなく、私へ向けて差し出された。
「この暮らしを、あなたと実行したい」
誰にも渡すつもりのなかった一季が、勝手に立ち上がり、辺境伯の姿で私を迎えに来た。そんな無茶があるだろうか。あるらしい。推薦印まである。
「終了すれば、私は館を去るのですね」
「はい。望まれない約束であなたを縛ることはしません」
「承知しました」
安全な期限があったから頷けた。そういうことにしておく。でなければ、彼が帳面を持つ指を見ただけで返事を決めた私が、あまりにも簡単すぎる。
* * *
【選ばれた作者】
ラドナー家へ到着した翌朝、私は家政長のヘッダさんから実習規程の説明を受けた。説明書は薄い。薄い書類ほど人生を大胆に動かすという見本である。
「実習は一季満了、または見本帳の最終頁に完了印が押された時点で終了いたします。完了した頁は再実施いたしません」
「二度目の朝食が必要になった場合は?」
「朝食そのものは毎日お出しします。実習項目として数えない、という意味でございます」
「安心しました。二日目から断食する厳格な制度かと」
ヘッダさんは眉ひとつ動かさず、もう一つの規程を告げた。
「帳面に記載された親切は、婚姻意思に数えません。実習の遂行と私的な求婚を混同しないためです」
つまり、花を贈られても帳面どおり。椅子を引かれても帳面どおり。優しくされても浮かれるな、これは職業体験です、ということだ。なんて親切な釘。胸の中央へ正確に刺さった。
食堂へ入ると、私の帳面に描いた朝が待っていた。窓辺の丸卓、焼いたパン、蜂蜜を少しだけ落とした温かな乳、季節の果実。向かいの席にはヴィクトル様がいて、私が座るまで手をつけずにいた。
「窓からの光が強すぎますか」
「いいえ。ちょうどよいです」
「パンの焼き加減は」
「理想どおりです」
「椅子の高さは」
「ヴィクトル様、朝食は点検競技ではありません」
「失礼しました。初回なので、不備があれば早いうちに直したく」
卓上には青い帳面が開かれていた。『最初の朝食は、同じ卓で温かいものを食べる』。若干気恥ずかしい一文が、現実の湯気を立てている。
ヴィクトル様は自分のパンより先に蜂蜜の器を私へ寄せた。私が甘いものを好むとは帳面に書いた。これは規程内。危ないところだった。危うく喜ぶところである。
「それも実習の範囲ですか?」
「はい。あなたが書いたとおりに」
「では、正しく実行されています」
蜂蜜を塗りすぎた。これは浮かれたのではなく、実習への敬意である。敬意は甘いほどよい。
食後、ヴィクトル様は私の顔をしばらく見てから、最初の頁へ完了印を押した。印面が紙を離れる小さな音で、理想の朝が完成し、同時に二度と実習できないものになった。
「一件、完了ですね」
「はい。明日からも朝食はご一緒してよろしいでしょうか」
「それは実習項目ではなく?」
「館の運営上、意見交換の時間が必要です」
なるほど、会いたいのではなく意見交換。私も蜂蜜の補充状況について重大な意見を持っている。ぜひ毎朝、長々と交換しようではないか。
* * *
【帳面どおりの朝】
見本帳は恐ろしいほど忠実に現実になった。朝食、一件。玄関での出迎え、一件。夕食後に暖炉前で翌日の予定を相談、一件。数えれば平静、数えなければ大事件。私は毎日、心の中に優秀な会計係を雇っていた。
「お帰りなさいませ、ヴィクトル様」
「ただいま戻りました」
最初の出迎えの日、ヴィクトル様は扉をくぐったところで止まった。外套を受け取ろうとした私ではなく、その後ろの灯りを見て、また私を見る。何か言いかけた唇は、結局いつもの実務報告を選んだ。
「西側の納屋は修繕に入れます。三日ほど音が出ます」
「承知しました。ところで外套を離していただけますか。今の私は出迎える婚約者ではなく、布を引っ張る置物です」
「申し訳ない」
彼はすぐに手を放し、それからほんの少し口元を緩めた。笑顔、確認。私の会計係が一件と叫ぶ。勝手に数えるな。これは帳面の『帰宅した者を明るく迎える』に含まれる。
暖炉前では、翌日の花をどこへ移すか相談した。私は客間の白い花を食堂へ、食堂の黄色い花を玄関へ、と提案したが、ヴィクトル様は青い帳面を見ながら難しい顔をしている。
「何か問題が?」
「あなたの記述では、相談は互いの希望を一つずつ出すことになっています。私はまだ出していません」
「では、どこに何色の花を置きたいですか」
「あなたが朝食を取る窓辺に、黄色を」
「理由を伺っても?」
「朝の光に合うと思います」
返答までが一拍だけ長かった。私が黄色を好むと知っているから、などという答えは帳面にない。ないものを勝手に補うな、私。空想の増築は危険です。
翌朝、窓辺には黄色い花が置かれていた。ヴィクトル様は席に着くなり花ではなく私の反応を見て、私が笑うと青い帳面へ印を押した。完了を決める基準が、どうも私の顔に寄りすぎている気がする。
「項目は花の配置ですよね」
「そうです」
「花をご覧にならないのですか」
「配置は昨日確認しました」
「では、今は何を確認なさったのです」
ヴィクトル様は紅茶を一口飲んだ。答えを飲み込むには、少々小さすぎる一口だった。
「運用後の評価です」
「私の顔で?」
「主な利用者ですから」
家政運営、便利な言葉! 照れも期待も不審な鼓動も、すべてその大袋へ放り込める。私もありがたく利用した。
やがてヴィクトル様は、帰宅すると最初に食堂を覗くようになった。私が書き物をしていれば用件を思い出し、いなければ書斎へ戻る。用件の内容は花瓶の水、明日のパン、薪の乾き具合。辺境伯が直接確かめるには、どれも国家機密性が不足している。
けれど聞けない。帳面にある親切は婚姻意思に数えない。私たちは規程に守られながら、規程を盾にしていた。
* * *
【帳面にない一杯】
その日の紅茶は、香りだけで私の足を止めた。渋みが穏やかで、乾いた果実の甘さがある。学院で一度だけ飲み、値段を聞いて二度目を諦めた茶葉だった。
「仕入れ先から試供品が届いた」
尋ねる前にヴィクトル様が言った。早い。言い訳は先に出したほうが不審になるという実例を、身をもって教えてくださっている。
「偶然、私の好みと一致したのですね」
「以前、あなたがこの香りを好むと言っていたので選定した」
「試供品を?」
「仕入れ先を」
偶然、即死。私の会計係が帳面を投げ捨てて踊り始めた。落ち着け。茶葉一つで婚礼の鐘まで鳴らすんじゃない。
卓上の青い帳面を開いてみたが、茶の種類については『互いに好みを申告し、交互に選ぶ』としかない。私の好みだけを覚え、しかも館へ常備する項目は、どの頁にも見当たらなかった。
茶缶を棚へ収めていたヘッダさんが、簡潔に告げた。
「その項目は見本帳にございません」
それだけ言って、蓋を閉じる。決め手だけ置いて立ち去るとは、さすが家政長。後始末を当事者へ任せる判断が早い。
私はヴィクトル様を見た。ヴィクトル様は茶杯を見た。茶杯にはなんの責任もないのに、両側から視線を集めて気の毒である。
「帳面外だそうです」
「家政上の改善だ。居住者の嗜好に合わせた備品の最適化は必要になる」
「居住者は二人おりますが、こちらは私専用ですね」
「私は苦手ではない」
「お好きですか」
「積極的には選ばない」
私専用ではありません、という顔で、私専用の茶を飲んでいる。しかも少し渋そうだ。生真面目な人が言い訳をすると、行動だけがどんどん正直になるらしい。
「では、実習成果として数えておきます。嗜好に合わせた備品の最適化、一件」
「帳面には追加しないでほしい」
「なぜです?」
「最終頁が近づく」
ヴィクトル様はそれだけ言い、苦手な茶をもう一口飲んだ。私は返事の代わりに自分の杯へ口をつけた。香りが近すぎる。期待というものは、飲み込むたびに温度を増すらしい。
翌日も、その翌日も、私の席には同じ茶が出た。ヴィクトル様は自分用の茶を別に頼めたはずなのに、向かいで同じものを飲んだ。
帳面外の一杯、一件。実習成果という箱へ押し込むには、日ごとに蓋が浮いてきた。
* * *
【最後の頁】
館はもう、朝になるとパンの匂いがして、夕方には玄関の灯りがついた。窓辺の花は私が替え、ヴィクトル様は帰宅すると食堂を覗く。暮らしは帳面から抜け出し、私たちが見ていなくても自分で歩けるようになっていた。
青い帳面の未完了は、最後の一頁だけだった。『一季の終わりに、整えた館を共に見回り、次に必要なものを話し合う』。過去の私は、ずいぶん残酷な締めくくりを書いたものである。次がある人の文章だ。
「食堂、問題なし。客間、問題なし。書斎は本が増えすぎです」
「必要な資料だ」
「半分は植物図鑑ですが」
「あなたが花の名前を尋ねるから」
「一度です」
「次もあるかもしれない」
私たちは館を回り、最後に玄関へ戻った。ヴィクトル様は帳面を開いたまま、完了印を手にしている。押せば実習は終わる。けれど印面は紙の上で止まり、降りてこなかった。
「次の項目は」
低い声が玄関に落ちた。
「ありません。これが最後です」
「次季の記述は?」
「見本帳は一季分ですから」
「では、続きを作る予定は」
「ありません」
短く答えるほど、喉の奥が狭くなった。書けるはずがない。次の季節に誰かがいると想像する方法を、私はこの館で知ってしまった。
ヴィクトル様の指が完了印を包み直した。それでも押さないので、私は帳面を閉じた。
「一季満了でも実習は終わります。印を急がなくても、明日で終了です」
「そうだったな」
私の空想は役目を果たした。館は完成、実習は成功、婚約者は退去。すべて予定どおり。予定どおりとは、こんなにも腹立たしいものだっただろうか。
自室へ戻り、旅行鞄を寝台の上へ置いた。衣類を畳み、机の引き出しを空にし、棚の本を紐でまとめる。借りた部屋を借りる前の姿へ戻す作業は得意だ。何も残さなければ、初めからいなかったことにできる。
戸口で床板が鳴った。振り向くと、ヴィクトル様が立っていた。
「明日の出立時刻を確認しに来た」
「朝食後を予定しています。馬車の手配は済ませました」
彼の視線が、空になった棚から旅行鞄へ移る。いつもなら用件を整えて話す人が、口を開いたまま何も言わなかった。
「不足がありましたか」
「いや」
「館は、もう大丈夫です。私がいなくても帳面どおりに運営できます」
安心させるための言葉だった。ヴィクトル様の顔から、安心だけがきれいに消えた。
* * *
【返された旧帳】
最終日の朝食にも、私専用の茶が出た。ヴィクトル様はほとんど口をつけず、私は味を覚えておこうとして、結局いつもの半分も飲めなかった。卓上には青い帳面と完了印が置かれている。
「一季の実習にお招きいただき、ありがとうございました」
決めていた挨拶を言う。言葉は正しく並んだ。正しいだけだった。
「館が再開できたのは、カルミアのおかげだ」
「見本帳がお役に立てて何よりです」
「違う」
ヴィクトル様は完了印へ手を伸ばした。指先が柄に触れ、けれど掴まずに引かれる。印は箱へ戻され、蓋が閉じた。
「実習は今日で終える。規程どおりだ。旧い婚約も、ここで終了する」
「はい」
安全な出口が開いた。なのに立てない。膝の上で組んだ指が、ひどく不作法な形に絡んでいた。
ヴィクトル様は青い帳面を私へ返した。何度も開かれた頁は柔らかく、私一人で書いた頃とは別の厚みを持っている。
「この帳面は完成した。書かれた暮らしも、もう私が守れる」
「それなら——」
「だが、それでは足りない」
彼は私の顔を見た。完了を待つときの確認ではない。答えが怖くても逸らせない人の目だった。
「朝、あなたが蜂蜜を塗りすぎることも、帰宅すると外套より先に私の顔を見ることも知っている。黄色い花を窓辺に置くと笑う。あの茶を好むが、熱いうちは飲めない。書斎で考え込むと、羽根ペンの先で机を二度叩く」
帳面のどこにも書いていない私が、一つずつ彼の声で置かれていく。
「帳面どおりに笑う婚約者がほしいのではない。うまく迎えられない日も、何も相談したくない日もあるあなたに、ここにいてほしい」
ヴィクトル様の手は卓上で固く握られていた。
「この帳面の婚約者ではなく、あなたに残ってほしい。実習ではない婚約を、私と結んでほしい」
数えられなかった。朝食も、出迎えも、茶も、何一つ項目にならない。心の中の会計係は職務を放棄し、どこかへ消えた。
「私が書いた暮らしではなく、私と暮らしたいとおっしゃっているのですか」
「そうだ」
「帳面から外れた私は、理想どおりには動きません」
「知っている。あなたは寒い朝に起きるのが遅い」
「二度だけです」
「三度だ。私は三度とも食堂で待った」
そんなところまで数えなくてよい。けれど彼は、私が帳面からはみ出した跡を大切そうに覚えていた。
「拒まれると思っていましたか」
「思っている。今も」
平静を失った顔で、ヴィクトル様は答えを待った。私が去る前提で荷をまとめたように、この人も拒まれる前提で言葉を整えていたらしい。似た者同士にもほどがある。二人揃って、期待だけを荷造りするのが下手だった。
「では、まず旅行鞄をほどくところから、お手伝いいただけますか」
彼の握った手が開いた。
「残ってくれるのか」
「はい。ヴィクトル様と暮らしたいです」
言えた。たったそれだけの言葉に、一季かかった。
困った。選ばれてしまった。私が必死で整えた理想ではなく、寝坊の回数まで正確に記憶されている私自身が。
ヴィクトル様は椅子の脇から、もう一冊の帳面を取り出した。青い旧帳より少し大きく、表紙にも中身にも一文字もない。
「次季の帳面を用意した。あなたが続きを作る予定はないと言ったから、私が紙だけ選んだ」
「紙だけ?」
「内容を一人で決めれば、また実習になる」
白紙の頁が開かれた。未来というものは、こんなにまぶしくて、罫線まで引いてあるらしい。
* * *
【白紙の次季】
「最初の予定を相談したい」
ヴィクトル様は白紙の次季帳を私たちの間へ置いた。旧い婚約実習は終わった。完了印は押されなかったが、一季の期限はきちんと満ち、私は一度、彼の婚約者ではなくなった。
そして今から、誰の見本でもない婚約を始める。
「交互に一行ずつ書くのはいかがでしょう。片方だけが理想を押しつけないように」
「賛成する。最初は私が書いても?」
「内容によります」
「相談とは、書く前にするものか」
「お気づきになって何よりです」
ヴィクトル様は真剣に考え、白紙の一行目へ指を置いた。私も頁を押さえようとして手を伸ばし、指先が触れる。どちらも引かなかった。
「最初の予定は、結婚式にしたい」
「次季の最初に?」
「可能なら最初の日に」
「最初の予定が結婚式なのは、相談ではなく決定事項ではありませんか?」
「日取り、招く者、花、食事は相談する。結婚することだけは、譲るつもりがない」
普段なら家政上の合理性を三つほど並べる人が、今日は一つも隠れ蓑を使わない。実習を終えたヴィクトル様、たいへん強い。私の平静はたいへん弱い。
「それも実習の範囲ですか?」
「いいえ。私があなたとしたいことです」
同じ問いなのに、今度は胸へ釘が刺さらなかった。代わりに、触れた指から熱が上がってくる。
「では、書いてください」
ヴィクトル様が一行目に『私たちの結婚式』と記した。生真面目で、飾り気がなく、少しだけ右上がりの文字だった。
「次はカルミアの番だ」
私はその下へ『翌朝、一緒に朝食を取る』と書いた。
「蜂蜜を用意する」
「塗りすぎても指摘しないでください」
「健康に影響しない範囲なら」
「もう条件がつきました」
「相談だからな」
三行目には、ヴィクトル様が『専用の茶を切らさない』と書いた。私は横から『ヴィクトル様は別の茶を飲んでよい』と付け足す。
「同じものを飲みたい」
「お好きではないでしょう」
「あなたが飲むときの顔は好きだ」
急にそういうことを言うのは規程違反ではないだろうか。残念ながら、もう規程がない。私を守っていた盾は消え、代わりに逃げずに笑うヴィクトル様がいる。
次は窓辺の花。その次は書斎に置く椅子。さらに次は、休みの日には何もしないこと。私たちは一行ごとに尋ね、譲り、時々取り合った。白紙は決められていないから怖く、決められていないから二人分の希望を置けた。
「頁が足りなくなったら、どうします?」
「新しい帳面を買う」
「一季が終わったら?」
「次の季節を書く」
「その次は」
「また、その次を」
ヴィクトル様の指が、私の書いた朝食の行をゆっくりなぞった。
「完了した頁も、今度は何度でも実施したい」
「では明日の朝食は、二度目ですね」
「実習ではない最初の朝食だ」
数え方まで変わってしまった。朝食、一件。出迎え、一件。帳面外の茶、一件。そうしなければ抱えられなかった幸福が、今は数えなくてもここにある。
私は白紙の余白へ、小さく書き足した。
『帰る人を待つのではなく、帰ってくる場所を二人で作る』
ヴィクトル様はそれを読み、私を見る。完了印を押す前の確認癖は、たぶん一生直らない。
「これでよいですか」
「いいえ」
彼の顔が固まる前に、その下へもう一行加えた。
『ただし、希望は必ず口にすること』
「まず私から実行しても?」
「どうぞ」
「カルミア。次季も、その次も、ここにいてほしい」
「はい。私も、ここにいたいです」
触れたままの指を、今度は私から少し重ねた。白紙の次季帳には、まだいくらでも余白がある。私たちの予定は、これから交互に書けばよかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




