ねぇ。わたし…
六月の終わりだった。
梅雨が明けきらない夜は湿気を含み、窓の外では雨粒が街灯の光を滲ませている。
高校二年生の音は、自室の机に向かっていた。
テスト期間が近い。
数学の問題集を開いてはいるものの、集中できない。
時計の秒針だけがやけに大きく聞こえる。
カチ、カチ、カチ。
机の隅に置かれたデジタル時計を見る。
午前一時五十七分。
「もう寝ようかな……」
そう呟いた時だった。
窓ガラスを叩くような音が聞こえた。
コン。
音は顔を上げる。
だが二階の自室の窓の外にいるはずがない。
カーテンの隙間から見えるのは雨に濡れた夜だけだった。
「気のせいか……」
そう言い聞かせる。
しかし胸の奥に小さな違和感が残った。
問題集を閉じる。
ベッドへ向かおうとして、何気なく時計を見る。
午前一時五十九分。
次の瞬間。
数字が切り替わった。
2:00
同時にスマートフォンが鳴った。
ブゥゥゥゥ―――。
突然の振動音に音は肩を震わせた。
「うわっ!」
机の上で震えるスマホ。
画面を見る。
表示された文字はたった一つ。
非通知。
「こんな時間に?」
友人ではない。
家族でもない。
そもそも午前二時に電話をかけてくる人間などいるだろうか。
気味が悪かった。
出ないでおこうかと思った。
しかし着信は鳴り続ける。
十秒。
二十秒。
三十秒。
まるで相手が絶対に諦めないと言わんばかりだった。
音は恐る恐る通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
返事はない。
ザーッ……。
砂嵐のような雑音だけが聞こえる。
「もしもし?」
ザーッ……ザーッ……。
通信状態が悪いのか。
そう思った時だった。
雑音の向こうから声がした。
少女の声だった。
小さい。
遠い。
けれど確かに聞こえた。
『ねぇ』
音の背筋がぞくりとした。
『ねぇ。わたし……』
声は少し途切れた。
『見える?』
「……え?」
思わず聞き返す。
しかし返事はなかった。
通話が切れたのだ。
ブツッ。
画面が暗くなる。
部屋の静寂が戻った。
「なに今の……」
心臓が速い。
いたずら電話。
そう結論づけるには妙な気味悪さがあった。
音はスマホを置く。
そしてベッドに入った。
だが眠れない。
頭の中で少女の声が繰り返される。
『ねぇ。わたし……見える?』
気付けば三十分が経っていた。
その時。
再びスマホが鳴った。
午前二時三十一分。
また非通知だった。
音は固まった。
無視する。
そう決めた。
だが着信音は鳴り続ける。
一分近く経っても止まらない。
とうとう留守番電話に切り替わった。
静かになる。
ほっとしたのも束の間だった。
通知が表示された。
新しい留守番電話。
音は嫌な予感を覚えながら再生した。
ザーッ……。
雑音。
数秒後。
あの少女の声。
『ねぇ』
音の喉が鳴る。
『ねぇ。わたし……』
声は先ほどより近かった。
『そこにいるよね?』
ブツッ。
そこで録音は終わった。
音は震える指で停止ボタンを押した。
なぜだろう。
今の声は。
まるで。
電話越しではなく。
部屋のどこかから聞こえたような気がした。
その夜、音はほとんど眠れなかった。
―――――――――
翌朝。
目の下に隈を作ったまま登校すると、親友の真琴がすぐに気付いた。
「どうしたの? ゾンビみたいな顔してんじゃん」
「そんなにひどい?」
「かなり」
真琴は笑った。
しかし音は笑えない。
教室の窓から見える曇り空を眺めながら昨夜の出来事を話した。
真琴は最初こそ笑っていた。
だが留守番電話を聞かせると表情が変わった。
「……これ、本当にいたずら?」
「やっぱり変だよね」
「うん」
二人の間に沈黙が落ちた。
録音の最後。
微かに別の音が混じっていた。
カチ。
カチ。
カチ。
時計の秒針。
それは音の部屋にある壁時計の音とよく似ていた。
「偶然じゃない?」
真琴は言った。
「そうだよね」
音もそう思いたかった。
だが胸騒ぎは消えない。
その日の夜。
音は午前二時になる前から緊張していた。
時計が一時五十九分を示す。
そして。
2:00。
スマホが鳴った。
非通知。
昨日と同じだった。
音は震える指で通話に出る。
「もしもし」
沈黙。
そして。
『ねぇ。わたし……』
昨日よりずっと近い声。
まるで耳元だった。
『もうすぐ会える。』
その瞬間。
コン。
窓が鳴った。
音は反射的に振り向く。
カーテンの向こう。
何かが立っている気がした。
人影のようなものが。
雨に濡れた窓の外に。
だが二階の窓の外に立てる場所などない。
恐怖で動けなくなる。
すると電話の向こうで少女が小さく笑った。
『見つけた。』
ブツッ。
通話が切れた。
同時に窓の人影も消えていた。
音はしばらく動けなかった。
そして気付かなかった。
机の上に置かれたノートの端に。
濡れた指で触れたような小さな手形が残されていたことを。
―――――――――
翌朝。
音は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
正確には、ほとんど眠れていなかった。
昨夜の出来事が頭から離れなかったのだ。
窓の外に立っていた人影。
耳元で囁くような少女の声。
そして――
机の上に残されていた小さな手形。
それは夢ではなかった。
朝になっても消えていなかった。
ノートの端に残った、水で濡れたような痕跡。
大人の手ではない。
小学生くらいの少女のものに見える。
音は何度もその手形を見返した。
やがて怖くなり、ノートごと鞄へ押し込んだ。
学校へ向かう足取りは重かった。
空は曇っている。
梅雨特有の湿った風が肌にまとわりつく。
まるで何かに見られているような気分だった。
教室へ入るなり、真琴が近付いてきた。
「どうだった?」
その一言で昨夜のことを察している。
音は黙ってノートを差し出した。
真琴の顔色が変わった。
「……これ、本当に昨日なかったんだよね?」
「うん」
「誰か家族が触ったとかじゃなくて?」
「お母さんもお父さんも仕事で帰り遅かったし……」
真琴は黙り込む。
冗談では済まなくなっていた。
放課後。
二人は図書室へ向かった。
怪談話が目的ではない。
十年前の地域新聞を調べるためだった。
昨夜から音には妙な考えが浮かんでいた。
あの声は、自分を知っている。
そんな気がしたのだ。
理由は分からない。
だが「見つけた」という言葉が頭から離れない。
図書室の片隅にある郷土資料コーナー。
二人は古い新聞の縮刷版をめくり始めた。
最初の一時間は何も見つからなかった。
しかし。
「あった」
真琴が小さく呟いた。
音が顔を上げる。
新聞記事の見出し。
そこにはこう書かれていた。
『少女失踪 現在も行方不明』
二人は息を呑んだ。
記事の日付は十年前。
六月二十九日。
ちょうど今と同じ季節だった。
掲載されていた写真には、小さな女の子が写っている。
黒髪。
少し大きな瞳。
おとなしい笑顔。
音は言葉を失った。
その顔は。
どこか自分に似ていた。
「……え」
思わず漏れた声。
真琴も同じことを感じたらしい。
「ちょっと待って」
記事を読み進める。
失踪した少女は当時八歳。
自宅近くで姿を消した。
警察による大規模な捜索が行われたが発見されなかった。
名前は――
雨宮 音
音の血の気が引いた。
「嘘……」
真琴も固まっている。
同じ名前。
同じ顔。
偶然にしては出来過ぎている。
音の頭が真っ白になった。
「でも……そんなはずない」
自分は十七歳。
両親もいる。
普通に育ってきた。
失踪少女などではない。
そう思う。
そう思うのに。
心の奥で何かが引っかかっていた。
幼い頃の記憶。
それが妙に曖昧なのだ。
小学校低学年以前の記憶がほとんど思い出せない。
普通はそんなものだ。
そう言われればそれまで。
だが今は違った。
どうしても気になってしまう。
その日の帰り道。
二人は記事に載っていた住所を訪ねた。
今では更地になっている場所だった。
雑草が生い茂り、古いフェンスに囲まれている。
かつてアパートがあったらしい。
近くには小さな管理事務所が残っていた。
古びた建物。
中から老人が出てくる。
「何か用かね」
音と真琴は失踪事件について尋ねた。
老人は最初こそ渋い顔をした。
だが新聞記事を見せると、ゆっくり話し始めた。
「ああ……あの子か」
老人は遠くを見る目をした。
「忘れもしない」
「何があったんですか?」
「失踪した夜な」
老人は低い声で続けた。
「近所の人間がみんな聞いたんだよ」
「何を?」
「電話の音を」
二人は顔を見合わせた。
「電話……?」
「ああ」
老人は頷く。
「その子が消える前の日から毎晩、午前二時になると家の電話が鳴っていたそうだ」
音の背筋が凍った。
「そして失踪した夜」
老人は言った。
「電話に出たあと、その子はいなくなった」
空気が重くなる。
誰も喋れなかった。
帰宅後も音の頭の中は混乱していた。
偶然。
そう思いたい。
だが一致しすぎている。
名前。
顔。
電話。
午前二時。
全部が繋がっていた。
夜が来る。
時計は一時五十八分。
音は机に座っていた。
今日は真琴と通話を繋いだままだ。
「大丈夫?」
スマホ越しに真琴の声。
「うん」
そう答えるが手は震えている。
そして。
一時五十九分。
秒針が進む。
カチ。
カチ。
カチ。
二時になった。
その瞬間。
スマホが鳴る。
非通知。
音は深呼吸した。
そして出る。
「もしもし」
沈黙。
雑音。
ザーッ。
ザーッ。
その中から少女の声。
今までで一番近い。
まるですぐ後ろから話しているようだった。
『ねぇ。わたし……』
音は動けない。
『どうして。』
少女が言う。
『どうして、わたしの名前を使ってるの?』
その瞬間だった。
部屋の電気が消えた。
パチン。
突然の停電。
「きゃっ!」
暗闇。
窓の外の街灯だけが薄く部屋を照らしている。
電話は続いている。
『返して。』
少女の声。
『返してよ。』
その声は泣いていた。
音の全身が凍り付く。
そして。
窓ガラスに何かが映った。
自分ではない。
もう一人の少女。
濡れた髪。
青白い顔。
真っ黒な瞳。
その少女がこちらを見ていた。
ガラス越しではない。
部屋の中にいる。
音のすぐ後ろに。
恐怖で振り向けない。
『やっと見つけた。』
少女が囁く。
その瞬間。
頭の奥で何かが弾けた。
知らない景色。
雨の夜。
泣いている女の子。
赤い傘。
古いアパート。
そして。
誰かの声。
――たより。
その名前を呼ぶ声。
忘れていたはずの記憶が、少しずつ蘇り始めていた。
音は気付く。
この電話はただの怪奇現象ではない。
これは。
自分自身に関係する何かだ。
そして少女は最後にこう告げる。
『明日、思い出して。』
ブツッ。
電話が切れた。
同時に部屋の電気が戻る。
しかし。
鏡を見ると。
そこには音しか映っていなかった。
だが机の上には、新しい文字が残されていた。
水で書かれたような歪んだ文字。
それはたった一言。
「わたしはだれ?」
―――――――――
その夜。
音は一睡もできなかった。
机の上に残された文字。
「わたしはだれ?」
何度拭いても消えなかった。
乾いているはずなのに、触れると冷たい。
まるで今も水が滲み続けているようだった。
朝になり、ようやく文字は薄く消えた。
だが音の心からは消えない。
昨日見た少女。
新聞の記事。
失踪した少女と同じ名前。
そして、頭の奥に蘇り始めた記憶。
それらが絡まり合い、不安だけが大きくなっていく。
学校へ向かう途中も、授業中も、音は上の空だった。
真琴も事情を知っているため何も言わない。
ただ時折、心配そうな視線を向けてくる。
放課後。
二人は再び図書室へ向かった。
今度は新聞ではない。
十年前の住宅地図や地域資料を調べるためだった。
失踪した少女が住んでいたアパート。
そこについて何か分かるかもしれない。
調べ始めて三十分ほど経った時だった。
真琴が古い資料を見つけた。
「これ」
音が覗き込む。
それは古い不動産管理記録だった。
そこには取り壊されたアパートの情報が載っている。
名称。
築年数。
住人の記録。
そして。
ある一文が目に入った。
『三〇二号室 空室扱い』
失踪少女の部屋番号だった。
だが不自然な点がある。
少女が住んでいたはずなのに、記録上では空室扱いになっている。
「おかしくない?」
真琴が眉をひそめる。
「うん」
音も同意した。
さらに読み進める。
すると別の紙が挟まっていた。
管理人による手書きの報告書。
古びた文字を追う。
その内容に、二人は息を呑んだ。
――――――――
六月二十九日。
深夜二時。
三〇二号室より通報。
少女が「知らない女の子から電話が来る」と訴える。
保護者は悪戯と判断。
翌日も同様の通報あり。
少女は繰り返し同じことを話した。
『その子は私だと言っている』
――――――――
音の指が止まった。
背筋に冷たいものが走る。
真琴も黙っている。
続きがあった。
――――――――
七月三日。
少女失踪。
部屋から発見されたメモ。
『ねぇ。わたし、みえる?』
――――――――
音の心臓が大きく跳ねた。
今、自分が聞いている言葉そのものだった。
偶然ではない。
絶対に違う。
何かが繰り返されている。
そんな気がした。
その日の帰宅後。
音は意を決して両親に聞いてみた。
「ねぇ」
「ん?」
母親が振り返る。
「私って、小さい頃どこに住んでた?」
母親の動きが止まった。
一瞬だけ。
本当に一瞬だった。
だが音は見逃さなかった。
「どうしたの急に」
「ちょっと気になって」
母親は笑った。
しかし目が笑っていない。
「今と同じ市内よ」
「それだけ?」
「それだけ」
会話は終わった。
けれど音には分かった。
何かを隠している。
夜。
時計は一時五十五分。
音はベッドに座っていた。
今日は真琴も家に来ている。
一人では危険だと考えたのだ。
二人とも緊張していた。
時計の針が進む。
一時五十八分。
一時五十九分。
そして。
二時。
スマホが鳴った。
非通知。
音はすぐに出る。
「もしもし」
雑音。
ザーッ。
ザーッ。
今までよりも大きい。
耳障りな音だった。
そして。
少女の声。
『ねぇ。』
その声を聞いた瞬間。
部屋の温度が下がった。
真琴も異変に気付く。
「寒い……」
窓は閉まっている。
エアコンも切れている。
なのに吐く息が白い。
『ねぇ。』
少女が繰り返す。
『思い出した?』
「あなたは誰なの?」
音が尋ねる。
沈黙。
数秒後。
少女は静かに答えた。
『わたしは。』
雑音。
途切れる声。
『わたしは――』
ブツッ。
そこで通話が切れた。
同時に部屋の照明が明滅する。
パッ。
パッ。
パッ。
そして完全に消えた。
暗闇。
その瞬間。
鏡の前に人影が立った。
少女だった。
昨日より鮮明。
長い黒髪。
白いワンピース。
雨に濡れたような身体。
顔は見えない。
うつむいている。
真琴が悲鳴を上げた。
「た、たより!」
音は動けなかった。
少女がゆっくり顔を上げる。
その顔を見た瞬間。
音の世界が揺れた。
その顔は。
自分だった。
「え……?」
少女は音と同じ顔をしていた。
まるで鏡像。
いや。
少しだけ違う。
幼い頃の音だった。
十年前の。
あの新聞写真の少女。
少女は口を開く。
『やっと。』
涙を流しながら。
『やっと会えた。』
その瞬間。
音の脳裏に大量の記憶が流れ込んだ。
雨。
電話。
暗い廊下。
泣いている少女。
そして。
事故。
階段。
転落。
血。
悲鳴。
記憶の洪水。
音は頭を抱えた。
「やめて……!」
だが止まらない。
十年前の夜。
何があったのか。
ついに思い出してしまう。
――――――――
あの日。
失踪したのではなかった。
少女――本当の音は。
アパートの階段から落ちた。
事故だった。
頭を強く打った。
生死の境を彷徨った。
だが助かった。
命は助かった。
しかし。
記憶を失った。
名前も。
家族も。
過去も。
すべて。
――――――――
そして。
事故の後。
ある事情から引き取られた。
今の家族に。
新しい人生を与えられた。
だから。
失踪扱いになった。
戸籍上の複雑な事情。
大人たちの判断。
様々な理由によって。
少女は過去から消された。
――――――――
だが。
記憶だけが残った。
忘れられた少女として。
――――――――
音は涙を流していた。
少女も泣いていた。
『思い出してくれた。』
そう呟く。
ようやく終わる。
そう思った。
しかし。
次の瞬間。
少女の表情が変わった。
笑ったのだ。
不自然に。
口元だけが裂けるように。
『でもね。』
音の背筋が凍る。
『それだけじゃない。』
「え……?」
『まだ思い出してない。』
少女が一歩前へ出る。
真っ黒な瞳。
そこに映るのは狂気だった。
『わたしが聞きたいのは。』
少女が囁く。
『どうして、わたしは電話をかけていたの?』
その言葉と同時に。
音の頭の奥に。
まだ封じられていた最後の記憶が動き始める。
十年前。
電話をかけていたのは。
誰だったのか。
そして。
電話の向こうにいた「わたし」とは何者だったのか。
音は気付く。
今まで追いかけていたのは幽霊ではない。
もっと恐ろしい何かだった。
そして午前二時の電話は。
まだ終わっていない。
―――――――――
その夜。
少女が消えたあとも、音はしばらく動けなかった。
真琴も青ざめた顔のまま床に座り込んでいる。
部屋には静寂だけが残っていた。
時計の秒針が進む。
カチ。
カチ。
カチ。
音は震える手で時計を見た。
午前二時十三分。
電話は終わっている。
少女も消えた。
なのに。
嫌な予感だけが残っていた。
胸の奥がざわつく。
何かがまだ終わっていない。
そんな確信があった。
少女は言った。
「まだ思い出してない」
確かに事故の記憶は戻った。
失われた過去も知った。
けれど。
肝心なことが残っている。
十年前。
なぜ電話が鳴っていたのか。
なぜ少女は「わたし」と名乗ったのか。
そして。
なぜ今になって再び電話がかかってきたのか。
音は机に向かった。
頭痛がする。
けれど考えなければならない。
少女の最後の言葉が頭の中を何度も繰り返している。
――わたしが聞きたいのは。
――どうして、わたしは電話をかけていたの?
その時だった。
突然。
頭の奥で何かが繋がった。
まるでバラバラだった記憶の欠片が、一つの絵になるように。
音の顔から血の気が引いた。
「……違う」
真琴が顔を上げる。
「たより?」
「違う……」
声が震える。
「電話をかけてたのは……」
そこで言葉が止まった。
認めたくなかった。
認めれば全てが変わってしまう。
けれど。
もう分かってしまった。
――――――――
十年前。
本当の音は事故に遭った。
意識不明となり、病院へ運ばれた。
数日間、生死の境を彷徨った。
その間。
少女は夢を見ていた。
真っ暗な場所。
何もない世界。
そこで一人の女の子に出会った。
自分と同じ顔をした女の子。
その子は言った。
『ねぇ。わたし。』
――――――――
そこで記憶は終わっていた。
ずっと。
今までは。
だが今は違う。
その続きを思い出してしまった。
――――――――
女の子はこう言った。
『代わって。』
――――――――
音は息を呑む。
その言葉と共に、最後の記憶が蘇る。
――――――――
真っ暗な空間。
二人の少女。
同じ顔。
同じ声。
同じ名前。
その片方が泣いていた。
そして言った。
『わたしはもう帰れない。』
『だから代わって。』
――――――――
そこで記憶は途切れる。
そして。
病院で目覚めた。
記憶を失った少女として。
――――――――
音の全身から汗が噴き出した。
「そんな……」
真琴も異変を察した。
「何?」
「私……」
声が出ない。
喉が締め付けられる。
「私……本当に音なの?」
その瞬間。
部屋の照明が消えた。
パチン。
暗闇。
同時にスマホが鳴る。
ブゥゥゥゥ―――。
二人は凍り付いた。
時計を見る。
午前二時。
あり得ない。
さっき二時十三分だったはずだ。
なのに。
時計は二時を示していた。
秒針も動いていない。
時間が止まっていた。
スマホには非通知。
音は恐る恐る電話を取る。
「もしもし」
返事はすぐに来た。
少女の声だった。
しかし今までとは違う。
はっきりしている。
近い。
まるですぐ隣にいるようだった。
『ねぇ。』
音は震えた。
『やっと思い出した?』
「あなたは誰なの」
沈黙。
数秒後。
少女は答えた。
『わたしは音。』
音の心臓が止まりそうになる。
『本当の音。』
冷たい汗が流れる。
『そして。』
少女の声が少し変わった。
泣いているようでもあり。
笑っているようでもあった。
『あなたは。』
長い沈黙。
そして。
告げられた。
『わたしじゃない。』
その瞬間。
部屋中の鏡が割れた。
バリンッ!
真琴の悲鳴。
ガラス片が飛び散る。
音はその場に膝をついた。
頭の中に大量の記憶が流れ込む。
知らない人生。
知らない景色。
知らない家族。
知らない名前。
知らない顔。
それは。
音の記憶ではなかった。
事故の日。
本当の音は死んでいた。
病院へ運ばれる前に。
誰にも知られず。
確かに。
死んでいた。
では。
目覚めた少女は誰だったのか。
答えは簡単だった。
あの暗闇で出会った存在。
あの「わたし」。
それが今の音だった。
音は叫んだ。
「違う!!」
認めたくない。
受け入れたくない。
十七年間生きてきた。
友達もいる。
家族もいる。
思い出もある。
それらが全部偽物だなんて。
そんなことあるはずがない。
しかし。
少女は静かに言った。
『偽物じゃないよ』
音が顔を上げる。
『あなたはちゃんと生きてた』
『ちゃんと笑ってた』
『ちゃんと泣いてた』
『だから』
少女の声が優しくなる。
『返してほしかっただけ』
涙が伝う。
『わたしのことを忘れないでほしかっただけ』
その瞬間。
音は理解した。
少女は奪いに来たのではない。
消しに来たのでもない。
ただ。
忘れられたくなかったのだ。
十年前。
誰にも知られず消えてしまった自分を。
思い出してほしかった。
それだけだった。
音は泣いた。
声を上げて。
少女も泣いていた。
同じ顔で。
同じ涙を流しながら。
『ありがとう』
少女が微笑む。
『見つけてくれて』
その姿が少しずつ透け始める。
『もう大丈夫』
「待って」
音は手を伸ばした。
「行かないで」
少女は首を振る。
そして最後に。
あの日と同じ言葉を言った。
優しく。
穏やかに。
まるで別れの挨拶のように。
『ねぇ。わたし……見える?』
「見えるよ」
音は泣きながら答えた。
「ちゃんと見える」
少女は微笑んだ。
そして。
静かに消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
電話も切れた。
時計の針が再び動き始める。
カチ。
カチ。
カチ。
午前二時一分。
長い夜は終わった。
――――――――
それから数か月後。
音は平穏な日々を取り戻した。
電話はもう鳴らない。
怪奇現象も起きない。
真琴もようやく笑うようになった。
そして音は時々思い出す。
あの少女のことを。
もう一人の音のことを。
忘れないように。
消えてしまわないように。
――――――――
ある雨の日。
音は帰宅していた。
傘を閉じる。
玄関の扉を開ける。
ふと振り返る。
誰もいない。
けれど。
どこかで聞こえた気がした。
『ありがとう。』
音は小さく笑った。
「こちらこそ」
雨音だけが響く。
それで終わりだった。
……はずだった。
――――――――
その夜。
午前二時。
眠っていた音のスマホが鳴る。
非通知。
久しぶりの着信。
音は目を覚ます。
画面を見る。
躊躇いながら通話ボタンを押す。
「もしもし」
返事はすぐに来た。
聞き覚えのない少女の声。
震える声。
泣きそうな声。
――――――――
『ねぇ。わたし……見える?』
作者のお話
もうすぐ夏ですし、怪談に挑戦してみました。ほんとは、起承転結で四話構成で出そうと思っていたのですが、結局全部1つに纏めて短編にしてだすことにしました。怪談は書いてて嫌になるかと思いました。また書きます。




