1
婚約解消の手続きはこんなに簡単にできるのね。
シェリルはぼんやりと書類を眺めた。既にシェリルの父エマリー伯爵と婚家のブラーゼ伯爵、そして元婚約者になるヴィンセントはサインをしておりあとは自分がサインをすれば済む。ペンをとるとうつむいたヴィンセントが目に入った。
長い話しあいの疲れのせいか真珠色の髪もペールブルーの瞳も色あせて見える。そのこわばった顔に今日こそは自分の言いたいことを言おうとするもうまく出てこない。
「この家のイチゴのミルフィーユサンド、大好きだったわ。さくさくのミルフィーユと甘酸っぱいイチゴが口の中でとけていって。いくらでも食べられた」
代わりに出てきたのはこの家に来るたびに食べていたお菓子の思い出だった。3か月前までは当たり前だったのに今では遠い昔のように感じる。
「そうだったね」
今日ここに来てから初めて視線をあわせたヴィンセントは薄く微笑む。
シェリルはエマリー伯爵家の妹娘だ。両親と2つ年上の跡継ぎの姉は恋愛結婚で、母譲りのふわふわの金の髪に垂れ目がちのミントグリーンの瞳をしたシェリルもまた彼らのような幸せを夢見ていた。そして、7年前にブラーゼ伯爵家で出会ったヴィンセントに恋をし、2年前に再会した時に婚約した。
彼とは良い関係を築いていたと思う。しかし、ある日突然ヴィンセントは3か月前に婚約破棄して出戻って来た義妹と婚約し直すと言い出し、この1月シェリルが泣いても怒ってもただ謝罪の言葉を口にし続けた。
激怒した父はブラーゼ伯爵に厳しい要求を突きつけたがそれでもヴィンセントの決意は変わらなかった。どんなに話しあっても彼の決意は変えられないと心折れたシェリルは婚約解消を受けいれた。
「後でレシピを贈るよ。いつでも食べられるように」
久しぶりに見た穏やかな笑顔で紡がれた言葉に、辛うじて自分を支えていた大切な何かがぷつりと切れた。
今のヴィンセントの愛はすべて深く傷ついた義妹のパールディア1人に注がれていて、他人に与える分なんて一切ないなんてとっくにわかっている。それでもかつてのような関係に近いものには戻れるかもと期待していた。
――婚約してから2年間、この家で2人一緒にイチゴのミルフィーユサンドを食べる時間がシェリルの幸せだった。
シェリルが愛したあの時間はもう二度と戻らない。微笑んであっさりと別れを告げるヴィンセントにとってシェリルはすでに過去の人物なのだ。
シェリルはこの1月でやつれた彼から視線をそらすとサインをした。上質な紙とペンはこんな時でも心地よいと思えるほどなめらかに書ける。隣に座った父に書類を渡すと「もういいのか?」と目で尋ねられこくりとうなずく。
父は書類をしまうとシェリルを促して立ち上がり背筋を正したブラーゼ伯爵親子を見下ろす。
「この書類は今日中に王宮に提出しておきます。ブラーゼ伯爵、急な婚約解消となったことはまことに残念ですがこちらの条件をすべて受け入れてくださったことには感謝します。新しい婚約者殿とお幸せに」
父の怒気のこもった声にブラーゼ伯爵は疲れが濃くにじんだ顔で謝罪の言葉を口にし、ヴィンセントも深く頭を下げる。
人の良い伯爵は父とシェリルに謝罪し根気強く息子を説得していた。それでも家に不利な条件を呑んででも婚約解消を決めたのは、父がシェリルのために怒ってくれているように彼もまた幼い頃に両親を亡くし、愛する婚約者に裏切られて家に閉じこもってしまった不憫な姪の将来を心配しているのだろう。
『パールはあいつに裏切られて他人を信じられなくなってしまった。だから、僕が家族として守ってやらないと』
ふいに何度も聞いたヴィンセントの声とともに潤んだブルーの瞳でこちらを見つめる真珠色の髪をした美しい少女の姿が浮かんできた。
いつも硬く口を閉じた貝のように心を閉ざした少女は信じる人間以外を寄せつけない。シェリルはブラーゼ伯爵一家に大切に守られる彼女に一度も受け入れられなかった。
シェリルはこみあげてきた苦い想いをもう二度と戻らないこの場所に捨てていこうと「さようなら」とはっきりと告げて背を向けた。部屋を出る時に「ごめん」と小さな声が聞こえた気がしたが、寄り添う父に背を押されて何事もないように進んだ。
馬車に乗ると珍しく隣に座った父がそっと顔をのぞきこんできた。
「私はこれから城に行ってこの書類を出してくる。帰りに街でシェリが好きなお菓子を買ってこよう。何が食べたい?」
父の不器用な励ましにシェリルはくすりと笑った。
「皆で分けて食べられるケーキがいいな。できたら果物がたくさんのったものが」
「ああ、わかった。なるべく早く帰る」
「ありがとう、父様」
父に微笑むとシェリルは薄いカーテン越しに外を眺めた。
7年前。真珠のように輝く髪と春空のような水色の瞳をした美しい少年との出会いは10歳だったシェリルの心を魅了した。そして、5年後に再会した彼に婚約を申し込まれてから2年間ずっと幸せだった。
ヴィンセントとの思い出がよみがえって涙があふれる。シェリルは泣きながらその1つ1つに心の中で別れを告げた。




