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第6話 寄せては返す波のように。過去のすべてを海に流し、俺は新しい朝を生きる。

電車の揺れが心地よいリズムを刻んでいる。

都心から特急列車に揺られること二時間。車窓の景色は、無機質なビルの群れから、緑豊かな山々へ、そして広大な青の世界へと移り変わっていた。

平日ということもあり、車内は閑散としている。

俺、一ノ瀬ハルは、ボックス席の窓枠に肘をつき、流れる景色をぼんやりと眺めていた。

膝の上には、あの古本屋で買った青い装丁の本がある。

『海辺のモノローグ』

タイトルが判読不能になっていたその本の名前は、最後のページに小さく記されていた。


駅に降り立つと、鼻孔をくすぐる潮の香りが俺を出迎えた。

風はまだ冷たいが、そこには湿った不快感はなく、むしろ澱んだ肺の中を浄化してくれるような清涼感があった。

改札を抜け、海へと続く一本道を歩く。

観光地でもない寂れた海辺の町だ。

土産物屋のシャッターは閉まり、錆びた看板が風に揺れてキイキイと鳴いている。

だが、今の俺にはその寂寥感が何よりも好ましかった。


海岸に出る。

視界いっぱいに広がる水平線。

空は薄曇りだが、雲の隙間からは柔らかな光が差し込み、海面をキラキラと照らしている。

ザザァ……ザザァ……。

寄せては返す波の音が、鼓膜を優しく叩く。

俺は砂浜に降り立ち、波打ち際まで歩いた。

革靴が砂に沈む感触。

俺は適当な流木を見つけて腰を下ろし、膝の上の本を開いた。


この本は、全てを失った男が海辺で再生していく物語だった。

読み進めるうちに、主人公の心情と俺の心が重なり合い、まるで自分の日記を読んでいるような錯覚に陥った。

主人公は言う。

『復讐は、過去に自分を縛り付ける鎖だ。相手を憎んでいる間、心は相手に囚われ続ける』

その一文を目にした時、俺はハッとした。

この三年間、俺はずっとタカシとミユキに囚われていたのだ。

彼らを破滅させ、地獄に落とすことだけを考えて生きてきた。

復讐を遂げた後も、「ざまぁみろ」と思い返すことで、彼らとの繋がりを保とうとしていたのかもしれない。

だから、俺の世界は灰色のままだったのだ。

憎しみというフィルターを通してしか、世界を見ることができなかったから。


「……愚かだったな、俺は」


自嘲気味に呟き、本を閉じた。

そして、海を見つめる。

波は何も語らず、ただ寄せては返していく。

その単調な繰り返しを見ていると、ふと、彼らの「今」が脳裏をよぎった。


風の噂で聞いた話だ。

かつてのエリート、神宮寺タカシ。

彼は懲戒解雇の後、会社から巨額の損害賠償を請求され、自己破産したらしい。

妻とは泥沼の離婚裁判の末に別れ、親権も奪われた。

今は都落ちし、北関東の古いアパートに住みながら、日雇いの肉体労働で食いつないでいるという。

かつて高級スーツに身を包み、ワイングラスを傾けていた手は、今は油と泥にまみれている。

SNSで彼のアカウントを探ってみたことがある。

そこには、かつての威勢の良さは見る影もなく、世の中への恨み言と、支離滅裂な被害妄想が書き連ねられていた。

『俺は悪くない』『あいつらが罠に嵌めたんだ』

誰からも相手にされず、「いいね」の一つもつかない孤独な独り言。

彼は、過去の栄光という幻影にしがみつき、そこから一歩も動けずにいる。

それが、彼にとっての地獄だ。


そして、ミユキ。

彼女もまた、地獄の中を彷徨っている。

共通の友人から聞いた話では、彼女は実家に戻ることも許されず、ネットカフェや安いシェアハウスを転々としているらしい。

タカシとの不倫が原因で全てを失ったという事実は、狭い世間ではすぐに広まる。

まともな職に就くこともできず、夜の店で働こうとしても、精神的に不安定な彼女はすぐに辞めさせられてしまうそうだ。

一度だけ、知らない番号から留守番電話が入っていたことがある。

『ハル……寂しいよ。あの頃は幸せだったね』

掠れた声、背後で聞こえる乾いた咳。

それは、幸せだった過去の夢に閉じこもり、現実から目を背け続ける亡霊の声だった。

彼女もまた、あの雨の日の記憶から抜け出せずにいる。


俺は大きく息を吸い込んだ。

彼らは、それぞれの地獄で生きている。

自らが招いた因果の檻の中で、永遠に出られない迷路を彷徨っている。

だが、俺はどうだ?

俺もまた、彼らと同じ場所に留まり続けるのか?

被害者という立場に安住し、「俺はかわいそうだ」「俺は傷ついた」と嘆き続けるのか?


「……違う」


俺は立ち上がり、海に向かって叫ぶように言った。


「俺は、進む」


声が風に乗って消えていく。

俺はもう、彼らを憎むことすらやめようと思う。

許すわけではない。一生許すことはないだろう。

けれど、これ以上彼らに俺の人生の時間を一秒たりとも使いたくない。

彼らの不幸を願うことも、彼らの存在を意識することも、もう終わりにしたい。

俺の中で、彼らを「無」に帰すのだ。


俺はポケットから、一枚の写真を取り出した。

ミユキとタカシが密会していた時の証拠写真だ。

ずっと財布の奥に入れて、憎しみの燃料にしていたもの。

写真の中の二人は、愚かなほどに無防備で、そして今はもう存在しない「過去の残像」だ。


指先で写真を摘む。

風が強くなってきた。

俺は迷わず、その写真を破り捨てた。

ビリリ、という乾いた音が響く。

二つに、四つに、八つに。

細かくなった紙片は、風に煽られて空高く舞い上がった。

まるで白い蝶のようにひらひらと舞い、やがて海面へと落ちていく。

波がそれを飲み込み、沖へと運んでいった。


「さようなら」


誰に向けたわけでもない言葉。

それは、ミユキへの決別であり、タカシへの決別であり、そして何より、復讐に囚われていた過去の自分への別れの言葉だった。


その瞬間だった。

雲の切れ間から、眩いばかりの陽光が降り注いだ。

世界が一変した。

今まで灰色にくすんでいた視界に、鮮烈な色彩が戻ってきたのだ。

空の抜けるような青。

海の深遠なエメラルドグリーン。

砂浜の温かみのあるベージュ。

遠くに見える灯台の白と赤。

そして、自分の手のひらの血色。


「……色が、見える」


俺は震える声で呟いた。

目頭が熱くなる。

涙が溢れてきた。

悲しみの涙ではない。悔しさの涙でもない。

凍りついていた感情が溶け出し、溢れ出てきた、温かい涙だ。

俺は泣いた。

子供のように声を上げて、誰もいない海辺で泣いた。

三年分の涙をすべて流し尽くすように。


どれくらい時間が経っただろうか。

涙が枯れ、俺は顔を上げた。

心が驚くほど軽い。

胸の奥に居座っていた黒い塊が消え去り、そこには清々しい空洞が広がっている。

だが、それは虚無の空洞ではない。

これから新しい何かを詰め込んでいくための、希望のスペースだ。


お腹が、ぐうと鳴った。

俺は思わず吹き出してしまった。

空腹を感じるなんて、いつぶりだろう。

「何か食べたい」という欲求が、こんなにも愛おしいものだとは知らなかった。


俺は砂についた汚れを払い、歩き出した。

駅の方へ戻ると、一軒の定食屋が暖簾を出していた。

『磯料理 浜風』

古びた店構えだが、入り口からは出汁の良い香りが漂ってくる。

迷わず引き戸を開けた。

「いらっしゃい!」

威勢のいい店主の声。

俺はカウンターに座り、メニューの一番上にあった「海鮮丼」を注文した。


運ばれてきた丼を見て、俺は息を呑んだ。

マグロの赤、サーモンの橙、イカの白、大葉の緑、卵焼きの黄色。

まるで宝石箱のように輝いている。

箸を取り、マグロを口に運ぶ。

口の中に広がる脂の甘みと、醤油の香ばしさ。

咀嚼するたびに、生きる力が身体の隅々に行き渡っていくのを感じる。


「……美味い」


心からの言葉が漏れた。

ただの食事だ。ありふれた行為だ。

けれど、今の俺にとって、これは「再生」の儀式だった。

味を感じるということ。

美味しいと思えること。

それがこんなにも幸せなことだったなんて。

俺は夢中で丼をかきこんだ。

味噌汁の温かさが、五臓六腑に染み渡る。


店を出る頃には、日は西に傾きかけていた。

夕焼けが空を茜色に染め始めている。

その美しいグラデーションを見上げながら、俺は駅へと向かった。


ポケットの中でスマートフォンが震えた。

またミユキからか、あるいはタカシか。

俺は画面を見た。

表示されていたのは、会社の同僚からのメッセージだった。

『一ノ瀬さん、来週の打ち上げ、参加しますよね? 美味しい焼き肉屋予約したんで!』

今までなら、「不参加で」と即答していただろう。

他人と関わるのが面倒だったから。

けれど、今は違う。


『ありがとう。参加するよ。楽しみにしてる』


そう返信を打ち、送信ボタンを押した。

たったそれだけのことで、指先が少し軽くなった気がした。


電車に乗り込み、俺は窓側の席に座った。

列車が動き出す。

遠ざかる海。

俺の苦しみを飲み込み、浄化してくれた海。

ありがとう、と心の中で呟く。


窓の外を流れる景色は、来る時とは違って見えた。

家々の灯り、道路を走る車のライト、歩く人々の服の色。

世界はこんなにも色彩に溢れていたのだ。

俺は窓に映る自分の顔を見た。

そこには、憑き物が落ちたような、穏やかな表情の男がいた。

目の下の隈はまだ残っているし、痩せた頬もそのままだ。

けれど、その瞳には確かな光が宿っていた。


ミユキと過ごした十数年は、決して無駄ではなかったと思いたい。

楽しかった思い出も、愛した記憶も、裏切られた痛みも。

それら全てが、今の一ノ瀬ハルという人間を形作っているのだから。

傷は消えないかもしれない。

ふとした瞬間に思い出して、胸が痛む夜もあるかもしれない。

それでも、俺は生きていく。

色を取り戻したこの世界で、一歩ずつ、自分の足で。


ふと、鞄の中の青い本が目に入った。

『海辺のモノローグ』

この本の主人公は、最後どうなったのだろう。

俺は続きを開いた。

最後のページには、こう書かれていた。


『嵐は過ぎ去った。空には虹がかかり、僕は新しい靴を履いてドアを開ける。行き先はまだ決めていない。けれど、どこへでも行けるという自由が、僕の背中を押してくれる』


俺は本を閉じ、深く頷いた。

そう、行き先はまだ決まっていない。

明日から何をするか、どんな人生を歩むか。

それは白紙のままだ。

だが、その白紙をどんな色で塗るかは、俺自身が決めることができる。


「さて、帰ろう」


俺は独り言を呟いた。

東京へ戻ったら、まずは部屋の掃除をしよう。

あの殺風景な部屋に、観葉植物でも置いてみようか。

新しい服を買いに行くのもいいかもしれない。

行きたい場所、やりたいこと、食べたいもの。

小さな「希望」が、次々と心に浮かんでくる。


電車の心地よい揺れに身を任せながら、俺は目を閉じた。

瞼の裏には、あの穏やかな海の青色が焼き付いている。

そして、その向こう側には、まだ見ぬ新しい朝が待っているような気がした。


潮騒のモノローグは、もう聞こえない。

これからは、俺自身の言葉で、俺自身の物語を紡いでいくのだ。

長く、暗い雨の夜は明けた。

俺は今、確かな足取りで、光の中へと歩き出していた。

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