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第5話 復讐完了。けれど残ったのは虚無感だけ。死んだような日々の中で出会った一冊の本。

季節は巡り、あの雨の日から三年という月日が流れた。

東京の街は相変わらず喧騒に包まれ、人々は何かに追われるように早足で歩いている。

ビルの隙間から見える空は、今日もどこか曇りがちだった。

俺、一ノ瀬ハルは、都内の広告代理店でプランナーとして働いている。

タカシとミユキへの復讐を終えた後、俺は以前の会社を辞め、転職をした。

環境を変えれば、気分も変わるかもしれない。

そんな淡い期待を抱いていたが、結局のところ、俺の内側にある世界は何も変わらなかった。


「一ノ瀬さん、この企画書の修正、確認お願いできますか?」

「ああ、そこに置いておいてくれ。後で見ておく」

「……はい。あの、顔色が悪いようですけど、大丈夫ですか?」

「問題ない。少し寝不足なだけだ」


後輩の女性社員が心配そうに俺を覗き込むが、俺は視線をパソコンのモニターから外さずに答えた。

彼女は少し躊躇いがちに「無理しないでくださいね」と言い残し、デスクを離れていく。

社内で俺は、「仕事は早いが、何を考えているのか分からない人」という評価を受けているらしい。

感情を表に出さず、雑談にも応じず、ただ淡々と業務をこなす機械のような存在。

それが今の俺だ。


復讐を遂げた直後、俺を支配したのは強烈な達成感などではなかった。

ただ、燃えカスになったような疲労感と、底なしの虚無感だけだった。

タカシは懲戒解雇された後、多額の賠償金を背負い、家族に見捨てられ、地方の工場で日雇いの仕事をしているという噂を聞いた。

ミユキは実家からも縁を切られ、夜の街に沈んでいったとも、どこか遠くの街で一人ひっそりと暮らしているとも聞いた。

二人の人生は、俺の計画通りに壊れた。

ざまぁみろ、と笑うべき結末だ。

けれど、彼らが不幸になったからといって、俺が幸せになるわけではなかった。

マイナスになった彼らの人生が、俺のプラスになるという方程式は、この世には存在しなかったのだ。


俺の心は、あの日からずっと「灰色」だった。

美味しいものを食べても味がしない。

美しい風景を見ても心が動かない。

面白い映画を見ても笑えない。

喜怒哀楽のすべての感情が、分厚いガラスの向こう側にあるようで、触れることができない。

ただ息をして、食事をして、眠る。

消化器官と呼吸器がついた肉の塊が、惰性で動いているだけのような感覚。

それが、復讐という劇薬を飲み干した人間に与えられた副作用なのかもしれません。


その日、俺は珍しく定時で会社を出た。

特に用事があったわけではない。ただ、オフィスの乾燥した空気に耐えられなくなっただけだ。

駅へ向かう大通りは帰宅ラッシュの人波で溢れ返っている。

信号機の電子音、車のクラクション、どこかの店から流れる流行りの音楽。

それらすべての音が、俺の鼓膜を不快に叩いた。


「……うるさいな」


俺は逃げるように、路地裏へと足を踏み入れた。

普段は通らない道だ。

ビルとビルの谷間にあるその細い道は、薄暗く、湿った匂いがした。

だが、表通りの喧騒よりはずっとマシだった。

野良猫がゴミ箱の陰からこちらを警戒し、室外機が低い唸り声を上げている。

宛てもなく歩いていると、不意に視界の端に古ぼけた看板が映り込んだ。


『古書 夕凪堂』


時代に取り残されたような、木造の小さな平屋。

軒先には裸電球が一つだけ灯り、ガラス戸の向こうには本の山が積み上げられているのが見えた。

なぜだか分からないが、俺はその店に吸い寄せられるように足を止めた。

普段なら素通りするような場所だ。本など、ここ数年まともに読んでいない。

活字を目で追うことすら、今の俺には億劫だったからだ。

けれど、その店の佇まいには、今の俺の心に似た静寂があった。


カラン、コロン。


引き戸を開けると、錆びついたドアベルが頼りない音を立てた。

店内は狭く、天井まで届く本棚が迷路のように入り組んでいる。

古本特有の、紙とインクと微かな埃の匂い。

どこか懐かしく、落ち着く香りだ。

レジの奥には、白髪の老人が一人、丸椅子に座って文庫本を読んでいた。

俺が入ってきても、彼は顔を上げず、ただページを捲る手だけを動かしている。

「いらっしゃい」とも言わない。

その無関心さが、今の俺には心地よかった。


俺は狭い通路をゆっくりと歩いた。

背表紙に並ぶタイトルを眺める。

古い文学全集、色褪せた背表紙のミステリー、誰が読むのか分からない専門書。

どれも、かつて誰かの手に渡り、そしてここに流れ着いたものたちだ。

ここにある本は、一度は役目を終えた「過去の遺物」だ。

まるで今の俺みたいだな、と自嘲気味に思う。


店の奥、埃をかぶった木箱の中に、一冊の本が無造作に放り込まれていた。

青い装丁のハードカバー。

タイトルは箔押しで、擦り切れて半分ほど読めなくなっている。

『……の……独白』

著者名も知らない。

ただ、その深い藍色の表紙が、なぜか俺の目を捉えて離さなかった。

それは、かつてミユキと一緒に行った夜の海の色に似ていた。

いや、俺の心の中に広がる、果てしない虚無の色にも似ていた。


俺は無意識に手を伸ばし、その本を拾い上げた。

パラパラとページを捲る。

中には栞が挟まったままだ。前の持ち主が、読みかけで手放したのだろうか。

文字の列が目に飛び込んでくる。


『波がすべてを洗い流すと言うけれど、それは嘘だ。波はただ、そこにあるものを別の場所へ運ぶだけなのだから』


その一文に、指が止まった。

心臓が、トクンと小さく跳ねた気がした。

ずっと止まっていた感情の歯車が、錆びついた音を立てて僅かに動いたような感覚。

俺はずっと、復讐が終わればすべてが洗い流されて、新しい自分になれると思っていた。

けれど、そうではなかった。

喪失も、痛みも、罪悪感も、すべては形を変えて俺の中に沈殿しているだけだったのだ。


「……いい色をしているね」


不意に、背後から声をかけられた。

驚いて振り返ると、いつの間にかレジの老人が立っていた。

丸眼鏡の奥の瞳は、穏やかだが、どこか全てを見透かすような鋭さを持っていた。


「え……?」

「その本だよ。あんたが持っているその青い本。ずっと売れ残っていたんだが、ようやく持ち主が現れたようだ」


老人はしわがれた声で言った。

俺は手元の本を見下ろした。


「持ち主……いえ、ただ手に取っただけです。買うかどうかは……」

「あんた、その本と同じ目をしているよ」


老人の言葉に、俺は言葉を詰まらせた。

同じ目?


「深い海の底みたいな、何も映さない目だ。……何か、重い荷物を下ろしたばかりかい?」


心臓を鷲掴みにされたような気分だった。

この老人は、何を知っているんだ。

俺は警戒心を強め、一歩後ずさった。


「あなたには関係のないことです」

「そうだな。関係はない。ここはただの古本屋で、わしはただの店番だ」


老人はふふっと笑い、自分の顎髭を撫でた。


「だがな、ここに来る客はみんな、何かを探しているか、何かを捨てに来るかのどちらかなんだよ。あんたは、どっちだい?」


探しているのか、捨てに来たのか。

俺は何もしに来たつもりはない。ただの気まぐれだ。

けれど、老人の問いかけは、俺の心の柔らかい部分に深く突き刺さった。

俺はずっと、捨てようとしてきた。

ミユキへの未練を、タカシへの憎しみを、そして自分自身の惨めさを。

復讐という行為でそれらを捨て去ろうとして、結局は自分の中身まで空っぽにしてしまった。


「……分かりません。自分でも、何がしたいのか」

「分からなくていい。分からないから、本を読むんだ」


老人はゆっくりと俺に近づき、俺の手にある本を指差した。


「本っていうのはな、他人の人生の欠片だ。あんたの空っぽになった隙間を、少しだけ埋めてくれるかもしれない。……あるいは、あんたが流せなかった涙の代わりに、泣いてくれるかもしれない」


流せなかった涙。

俺はあの日から、一度も泣いていない。

ミユキを追い出した日も、タカシが破滅した日も、カフェでミユキを拒絶した日も。

涙なんて枯れ果てたと思っていた。

けれど、本当は心の奥底で凍りついていただけなのかもしれない。


俺は再び、手元の本に視線を落とした。

青い表紙が、手の中で微かな熱を帯びているように感じた。

『……の……独白』

この本の中には、何が書かれているのだろう。

今の俺には理解できない言葉かもしれない。あるいは、読み進めるのが苦痛になるような物語かもしれない。

それでも、この「青」に触れていたいと、強く思った。

この無機質な灰色の世界で、唯一、色を持った存在のように思えたからだ。


「……これを、ください」


俺の声は少し震えていたかもしれない。

老人は満足そうに頷き、レジへと戻っていった。


「三百円だ」


安い値段だった。

俺の人生を変えたかもしれない出会いが、たったのコーヒー一杯分。

財布から小銭を取り出し、老人の掌に置く。

老人は茶色い紙袋に本を入れようとしたが、俺はそれを制した。


「そのままでいいです。今、読みたいので」

「そうかい。……良い旅を」


老人は不思議な言葉を口にした。

良い旅を。

ただ本を読むだけなのに。

だが、その言葉は妙に俺の心に響いた。

店を出ようとして、俺は一度だけ振り返った。

老人はまた元の丸椅子に座り、文庫本の世界へと戻っていた。

まるで最初から俺などいなかったかのように。


店の外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。

雨の匂いが強くなっている。

空を見上げると、分厚い雲の切れ間から、微かに月が見えた。

いつもならただの光源にしか見えない月が、今日は少しだけ、寂しげで美しく見えた。


俺は脇に抱えた本の感触を確かめながら、歩き出した。

足取りは、来る時よりも少しだけ軽かった。

まだ世界に色は戻っていない。

灰色の絵の具で塗りたくられたままの景色だ。

けれど、手の中にあるこの「青」が、俺の止まっていた時間を動かす鍵になるような予感がした。


帰りの電車の中、俺は本を開いた。

周囲の乗客の話し声や、電車の走行音が遠のいていく。

文字の一つ一つが、乾いた砂に水が染み込むように、俺の中に吸い込まれていった。


物語の主人公は、大切な人を海で失った男だった。

彼は毎日海に行き、波に向かって語りかける。

返事のない問いかけ。届かない言葉。

その痛切なまでの孤独が、俺の孤独と共鳴する。

読み進めるうちに、俺の視界が少しずつ滲んでいくのが分かった。

最初は目の疲れかと思った。

けれど、ページの上にぽつりと落ちた雫を見て、俺はそれが涙だと気づいた。


「……あ」


俺は慌てて指で拭った。

周りの人に気づかれないように、顔を伏せる。

三年ぶりだった。

感情が動いたのは。

胸の奥が痛い。締め付けられるように苦しい。

けれど、その痛みこそが、俺がまだ「生きている」という証拠だった。


本を閉じる頃には、電車は最寄駅に到着していた。

ホームに降り立つと、冷たい夜風が頬を撫でた。

俺は深呼吸をした。

肺いっぱいに吸い込んだ空気は、今までよりも少しだけ澄んでいる気がした。


「……海へ行こう」


自然と、その言葉が口をついて出た。

復讐のために訪れた場所でも、デートのために行った場所でもない。

ただ、俺自身のために。

この本を持って、海へ行こう。

そこで、俺の中の澱んだものをすべて吐き出して、過去と決別しよう。


俺は改札を抜け、明日の予定を頭の中で組み立て始めた。

有給休暇はまだ残っている。

明日の朝一番の電車に乗れば、昼には海に着くだろう。

モノクロームの視界の端に、駅前の花屋の鮮やかな色彩が飛び込んできた。

赤いバラ、黄色いひまわり、白いユリ。

それらの色が、灰色だった俺の世界に、ポツポツとインクを落としたように滲み始めていた。

再生の予感は、確かな決意へと変わりつつあった。

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