第4話 「ごめんなさい」と足元にすがる元カノ。今さら謝罪されても、俺にはもう響かない。
テレビの液晶画面の向こうで、見覚えのある社屋が映し出されている。
「アドヴァンス・コア」の本社ビルだ。
その周りを取り囲む報道陣と、無数のフラッシュ。
ニュースキャスターが、淡々とした口調で原稿を読み上げている。
『……同社営業部の管理職男性による、架空取引および経費の不正流用問題について、会社側は本日付けで懲戒解雇処分としたことを発表しました。被害総額は数千万円にのぼると見られ、刑事告訴も視野に入れて捜査が進められています』
画面が切り替わり、モザイクのかかった男が警察車両のような車に乗り込む映像が流れる。
うなだれ、顔を隠すその姿に、かつての覇気は微塵もない。
神宮寺タカシ。
俺の人生を壊した男の、成れの果てだ。
俺はソファに寝転がりながら、そのニュースを他人事のように眺めていた。
ネットを開けば、彼の個人情報はすでに特定され、拡散されている。
「エリート気取りの末路」「不倫旅行を経費で落とすクズ」「嫁と子供に見捨てられたらしい」
罵詈雑言の嵐。
匿名掲示板やSNSでは、彼の過去の投稿が掘り返され、嘲笑の的になっていた。
俺が匿名でリークした情報は、乾いた薪に油を注ぐように燃え広がり、彼の社会的生命を完全に焼き尽くしたのだ。
「……終わったな」
独り言が、静かな部屋に吸い込まれていく。
もっと胸がすくような思いがすると思っていた。
ざまぁみろと、高笑いできると思っていた。
だが、実際に訪れたのは、深海に沈んでいくような静寂だった。
彼がどれだけ苦しもうが、失ったものは戻らない。
壊れた時計の針が、逆回転することはないのだ。
俺の心は、復讐を遂げた熱狂の後に急速に冷え込み、今はただの冷たい石のようだった。
ブブッ。
テーブルの上のスマートフォンが震えた。
画面を見ると、『ミユキ』の文字が表示されている。
ここ数日、彼女からは何度も着信があった。
最初は無視していたし、ブロックしようとも思った。
けれど、今日というこのタイミングで、彼女が何を言ってくるのか。
最後にそれを聞いて、完全に幕を下ろすのも悪くないと思った。
俺は通話ボタンを押さず、メッセージアプリを開いた。
数え切れないほどの謝罪の言葉と、通話の不在着信履歴。
そして、最新のメッセージが一件。
『お願い、最後に一度だけ会ってください。ちゃんと謝りたいの。駅前のカフェで待ってます』
送信時刻は一時間前。
外は今日も雨だ。
俺は立ち上がり、窓の外を見た。
灰色の空から降り注ぐ雨は、街の汚れを洗い流すには弱すぎて、ただ景色を湿らせているだけだった。
「……行くか」
俺はコートを羽織り、部屋を出た。
これが最後だ。
彼女との十数年に及ぶ関係に、俺自身の手で終止符を打つために。
駅前のカフェは、休日の午後ということもあって混雑していた。
楽しげに談笑するカップル、試験勉強をする学生、仕事の打ち合わせをするサラリーマン。
温かいコーヒーの香りと、ジャズのBGM。
平和そのものの空間だ。
その店内の奥、窓際の席に、彼女はいた。
ミユキだった。
いや、かつてミユキだった女性、と言うべきか。
俺が店に入ったことに気づき、顔を上げた彼女を見て、俺は一瞬足を止めた。
やつれていた。
最後に会ったのはほんの一週間ほど前なのに、まるで数年が経過したかのように老け込んで見えた。
自慢だった栗色の髪は艶を失い、ボサボサに乱れている。
いつも念入りにしていたメイクはしておらず、顔色は土気色で、目の下には濃い隈が刻まれていた。
着ている服も、以前なら「ダサい」と見向きもしなかったような、ヨレたパーカーだ。
俺は無言で彼女の向かいの席に座った。
ミユキはビクリと肩を震わせ、おずおずと俺を見た。
その瞳は充血し、涙で潤んでいる。
「……ハル。来てくれたんだ」
声が掠れていた。
俺はウェイターにブラックコーヒーを注文し、それからようやく彼女に向き直った。
「何の用だ」
冷たい声が出た。
自分でも驚くほど、感情が乗っていない。
目の前にいるのが、かつて愛し、将来を誓い合った女性だとは到底思えなかった。
ただの、見知らぬ不幸な女にしか見えない。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」
ミユキは両手で顔を覆い、すすり泣き始めた。
周りの客が怪訝そうにこちらを見ているが、今の俺にはどうでもよかった。
「謝罪ならメッセージで十分聞いた。わざわざ呼び出したのは、それだけか?」
「違うの……会って、ちゃんと目を見て謝りたくて。私、本当に馬鹿だった。ハルのこと、傷つけて……」
「傷ついた? 違うな。俺は壊れたんだよ。お前のせいで」
俺の言葉に、ミユキは息を呑んだ。
顔を覆っていた手を外し、濡れた瞳で俺を見つめる。
「タカシのこと、ニュースで見た?」
「ああ。見たよ」
「あいつ……最低だった」
ミユキは憎しみを込めて吐き捨てた。
その言葉に、俺は眉をひそめた。
お前がそれを言うのか、という呆れと軽蔑が湧き上がる。
「会社をクビになって、奥さんにも逃げられて……そしたら、全部私のせいにしたの。『お前が誘惑したからだ』って。『お前のせいで人生めちゃくちゃだ』って、怒鳴られて、叩かれて……」
彼女はパーカーの袖を捲り上げた。
そこには、赤黒い痣がいくつも残っていた。
タカシの暴力の痕跡だろう。
しかし、それを見ても俺の心は微動だにしなかった。
かわいそうだとも、痛そうだとも思わない。
ただ、「因果応報」という四字熟語が頭をよぎるだけだった。
「私、怖くて……逃げてきたの。実家にも居場所がなくて、親にも勘当されちゃって……」
「そうか。それは大変だったな」
「……それだけ?」
ミユキは信じられないものを見るような目で俺を見た。
かつてのハルなら、すぐに心配して、優しく抱きしめてくれたはずだとでも思っているのだろうか。
「ハル……私、やっとわかったの。タカシにとって私はただの遊び道具で、本当に私のことを愛してくれていたのはハルだけだったって。失って初めて気づいたの。ハルがどれだけ大切な存在だったか」
「……」
「あの頃に戻りたい。二人でご飯食べて、テレビ見て、笑い合ってたあの頃に。私、何でもする。償いなら一生かけてするから……だから、お願い。もう一度やり直させて」
ミユキはテーブル越しに俺の手を握ろうとした。
俺はその手を、汚いものを避けるように素早く引いた。
彼女の手は空を切り、テーブルの上に力なく落ちた。
「戻れるわけないだろう」
俺は静かに、しかしはっきりと告げた。
「お前は俺を裏切った。ただの火遊びのために、俺たちの十年をドブに捨てたんだ。タカシが破滅して、金も地位もなくなったから、また俺のところに戻ってきたい? ふざけるなよ」
「ち、違う! お金とか地位とか関係ない! 私はただ、ハルの温もりが……」
「温もり?」
俺は鼻で笑った。
注文したコーヒーが届く。湯気が立ち上る黒い液体を一口啜る。苦い。
「俺の中にお前への温もりなんて、もう一欠片も残ってない。あるのは、生理的な嫌悪感だけだ」
「け、嫌悪感……?」
「ああ。お前の顔を見ると吐き気がする。お前の声を聞くと虫唾が走る。お前が触れようとすると、身体が拒絶反応を起こすんだ」
容赦のない言葉のナイフを、俺は次々と突き立てた。
ミユキの顔から表情が消え、能面のように固まっていく。
彼女の心臓を抉っている自覚はあった。
だが、俺の心臓はとっくに抉り取られているのだ。これくらいの痛みは、彼女も味わうべきだ。
「そんな……ハル、嘘でしょ? あんなに愛してくれてたじゃない。プロポーズしてくれるつもりだったんでしょ?」
「そうだな。そのつもりだったよ」
俺はコートのポケットから、小さなベルベットの小箱を取り出した。
紺色の、上品な箱だ。
ミユキの目が大きく見開かれる。
その瞳に、一瞬だけ希望の光が宿るのが見えた。
もしかしたら、まだチャンスがあるかもしれない。この指輪を受け取れば、また元の二人に戻れるかもしれない。そんな浅ましい期待。
俺は小箱を開けた。
中には、プラチナのリングが収められている。中央には小粒だが質の良いダイヤモンドが輝いていた。
給料の三ヶ月分。
あちこちの店を回って、彼女に一番似合うデザインを何ヶ月も悩んで選んだものだ。
「綺麗……」
ミユキがうっとりとした声で呟く。
俺は指輪を箱から取り出し、指先で摘んだ。
窓から差し込む鈍い光を受けて、ダイヤが冷たく煌めく。
「これを渡して、一生大事にするって誓うつもりだった。お前との未来だけを見て、俺は生きていくつもりだった」
「ハル……ありがとう。私、絶対幸せに……」
ミユキが手を伸ばす。
その指先が指輪に触れようとした瞬間。
俺は手を離した。
カラン。
乾いた音がして、指輪は俺の飲みかけのコーヒーの中に落ちた。
黒い液体の中に、プラチナの輝きが沈んでいく。
波紋が広がり、やがて消えた。
「え……?」
ミユキは凍りついたように動かなくなった。
カップの中を覗き込み、そして俺の顔を見る。
意味が理解できないという顔だ。
「ゴミだ」
俺は短く言った。
「今の俺にとって、それはただのゴミだ。お前との思い出も、お前への感情も、すべてこれと同じだ。泥水の中に沈んだ石ころと変わらない」
「どうして……どうしてこんな酷いことするの!?」
「酷い? お前がしたことに比べれば、可愛いものだろう」
俺は伝票を掴んで立ち上がった。
もう、話すことは何もない。
未練も、怒りも、悲しみも、すべてこのコーヒーカップの中に沈めた。
「待って! 行かないで! ハルがいなくなったら、私、本当に一人ぼっちになっちゃう! 死んじゃうかもしれないよ!?」
ミユキが席を立ち、俺の足元に縋り付いてきた。
彼女は床に膝をつき、俺のジーンズの裾を掴んで泣き叫ぶ。
店中の視線が突き刺さる。
「痴話喧嘩か?」「ひどい男だな」そんな囁き声が聞こえる。
だが、今の俺には雑音にしか聞こえない。
俺は彼女を見下ろした。
かつて愛した女性が、形振り構わず足元で泣いている。
その姿を見ても、俺の胸には何も込み上げてこなかった。
可哀想だという同情すら湧かない。
ただ、煩わしい。
靴底に張り付いたガムを見るような、無感動な視線。
「離せ」
俺は冷たく言い放った。
「死にたければ勝手に死ねばいい。俺の知ったことじゃない」
「ハルッ……!」
「お前は自分で選んだんだ。タカシという刺激を。その結果がこれだ。全部、お前が招いたことだ」
俺は彼女の手を強引に引き剥がした。
ミユキは床に崩れ落ち、子供のように泣きじゃくっている。
「ごめんなさい、ごめんなさい」と、壊れたレコードのように繰り返す声。
それを背中で聞きながら、俺はレジへと向かった。
自分の分のコーヒー代だけを支払い、店を出る。
自動ドアが開くと、冷たい風が吹き込んできた。
雨はまだ降り続いている。
傘を広げ、俺は歩き出した。
振り返ることはしなかった。
背後で、カフェのドアが閉まる音がした。
それと同時に、俺の中でミユキという存在が完全に過去のものとなった。
復讐は終わった。
タカシは社会的に抹殺され、ミユキは絶望の淵に突き落とされた。
俺を裏切った二人は、相応の報いを受けた。
完璧な勝利だ。
誰が見ても、俺の完全勝利だ。
けれど。
俺の足取りは鉛のように重かった。
傘を叩く雨音が、俺の空っぽになった心に反響する。
「勝った」という事実だけがそこにあり、その先には広大な虚無が広がっている。
目的を失った俺は、これからどこへ向かえばいいのだろうか。
色のない灰色の世界で、俺は一人、立ち尽くしていた。
家に帰るまでの道のりが、永遠のように長く感じられた。
街の景色はモノクロームに見える。
信号機の赤も、街路樹の緑も、すべてが灰色にくすんで見えた。
俺は深く息を吐き出し、雨の中をただ歩き続けた。
心の中に降り続く冷たい雨は、いつまでも止みそうになかった。




