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第5話 理由

 会話もなければ進展もない、静かな食事を終え、家族はまた散り散りになる。海良は夫婦の私室へ、鏡矢たち三兄妹もそれぞれの自室へ戻る。

 心が一体でないのだから、食事中だって散っているようなものかと、小鐘は心の中で嘲って笑う。

 最愛の姉も守れない自分が嫌で、小鐘は何かから逃げるように浴室へ向かった。


 入浴を終えて部屋へ戻ろうとした小鐘の前に、鈴音が現れた。

「小鐘」

 どこか怯えを孕んだ瞳に、小鐘は少し困惑しながら「どうかしましたか?」と返す。

「その、ちょっと……」

 迷いながら小鐘を呼ぶ鈴音を見て、小鐘はその理由を考える。自分を部屋に招き入れようとする姉は、何かを探すようにふらふらと視線を宙に泳がせている。

 同じように周囲をざっと見渡すと、篠乃の姿がない。今日の仕事を終えて、離れへと帰ったのだろう。専属の侍女らは皆、母屋の隣にある離れで暮らしている。

 そこでようやく姉の考えを察した小鐘が軽く右手を上げると、梅芽はすぐに頭を下げて、パタパタと小走りで去っていった。臆病さや慎重さは察しの良さか、梅芽はこんなときにとても都合が良い。

 姉がホッとした顔で梅芽を見送るのを見て、今度こそ小鐘は促されるまま姉の部屋に入った。

 用意されていた座布団に座り、姉と向き合う。呼ばれた理由はわからないが、特に断る理由もない。


 静かになった部屋で、鈴音は眉を下げ、けれど妹を心配させまいと、小鐘に向かって笑顔を見せた。

「今日は見苦しい姿を見せてしまってごめんなさい。心配をかけたわね」

 そう言って頭を下げた鈴音を見て、小鐘は反射的にその肩を掴んだ。これ以上、姉が謝ることのないように。

「見苦しいだなんてそんな!」

 普段なら、小鐘がこんなに強く鈴音に触れることはない。しかし小鐘は、姉が自分に頭を下げるところなど見たくはなかった。

「わ、私こそ、力になれなくて、ごめんなさい」

 肩から手を離し、腕を伝い、手を握る。

 どうすれば伝わるだろうか。どう言えば、姉にとって最も救いとなるだろうか。

 自分の消極的な選択が、姉に与えた負担を、自分こそが詫びたかった。けれど姉はきっとそれを肯定しない。


 考えても、答えは出ない。だからせめて、これだけは知っていてほしいと、小鐘は口を開いた。

「大好きです、お姉様。あなたを、愛しています」

 鈴音がどう思っていようと、小鐘のこの気持ちは変わらない。こんなことでは想いが揺らぐことはない。

 小鐘の気持ちは、恋愛感情もあるけれど、家族愛でもある。どんなときでも自分を愛する人がいるのだと、鈴音に知っていてほしい。


 小鐘の言葉を受けた鈴音は、少し驚いた顔をして、それから眉を下げた。しかしそこに先程までの弱々しさはなかった。ただ少し、安堵したように見えて、小鐘も力を抜く。

「小鐘は、いつもそう言ってくれるのね」

 握られた手を握り返しながら、鈴音は息を吐いた。そこに憂いは混じらない。

「きっと、あなたがいるから、私は息ができるのね」

 溺れそうな期待と嫉妬と羨望の中で、仄暗い海の底で、家族という檻の中で、ただ一人、真っ直ぐな愛を与え続けてくれた人。それが、鈴音にとっての小鐘だ。


 高校生になった妹は、昔に増して強くて、優しくなったと思う。

 それに比べて、自分のなんと情けないことか。妹に励まされて、妹に支えられて生きている。私は姉なのだから、私こそ、妹の助けになるべきなのに。

 鈴音にとって本心で心を許せるのは小鐘だけだ。幼少期の思い出が、父だけでなく、母や兄への不信感を残している。

「小鐘は、何故──」

 何かを尋ねようとして、やめる。今このときがそれに相応しくないと思ったからだ。それに、質問の答えはきっと変わらない。


「そろそろ寝ましょうか」

 姉の提案に、小鐘は頷いて立ち上がった。そして部屋を出ようとした小鐘を、鈴音が引き止めた。

「待った」

 ドアノブにかけていた小鐘の手に、鈴音の手が後ろから重ねられる。

「え、えっと、お姉様?」

 突然背後から抱きしめるような形で止められたものだから、小鐘は大いに困惑した。背中から伝わる姉の体温が、小鐘を更に混乱させる。

 鈴音はその体勢のまま、部屋の鍵をかけた。

 カチャン、と冷たく響いた音に、小鐘はドキドキと心拍数の高まりを感じていた。過度に期待しているわけではないが、それでもこの状況はあまりに期待せざるをえない。


 鈴音の気配が後ろから離れたのを察知して、小鐘はそろそろと振り返った。

 姉の様子は拍子抜けするほどいつも通りだった。自分の邪な期待が叶わないであろうことは当然だが、先程までの沈んだ雰囲気がなかったことに、小鐘は安堵した。

「どうせ今日も一緒に寝るんでしょう?」

 日々の夜這い、あるいは奇襲が功を奏したといえば良いのだろうか。小鐘には願ってもない提案だった。

「一人分の布団だから狭いでしょうけど……おいで、小鐘」

 布団で手招きする鈴音を拒む理由など小鐘にはない。小鐘はここ数日で一番の笑顔を見せ「喜んで!」と答えた。


 布団の中で小鐘は、姉の言葉を思い出していた。『何故』から先は綴られなかった言葉。けれど小鐘は、この先を、知っている。

 何十回、何百回と尋ねられたことだ。


 だからだろうか。夢を見た。


「あなたは、何故私をそんなに好いてくれているの?」


 いつかの休日、鈴音は小鐘にそう尋ねた。

 これが、質問のその先。

 何故小鐘が鈴音を愛するのか。


 時折鈴音は思い出したように同じ質問をする。だから小鐘はそのたびにこう返すのだ。


「お姉様がお姉様だからですよ」



**


 幼い頃から小鐘は、天才だ、神の寵児だともてはやされてきた。

 神子だと判明したのは小鐘が五つになる頃だったが、当然ながらこの事実は、これらの評価を後押しした。


 教えられたことはなんでも完璧にこなすことができたし、人並み以上の成績を残すことができた。だから周囲の人間は小鐘を完璧な人間だと思っていたし、殆どの場面に於いてそれは正確だった。

 しかし、どんなに天才でも、誰にも教えられていないことは知ることができないだろう。

 単純な勉学ならいずれその答えにたどり着くこともできるだろうが、ルールやマナー、モラルといったものは場面や状況によって大きく異なる。

 基本的に必要なマナーは教育係が教えてくれる。しかし小鐘には、一般常識を教えてくれる人がいなかった。


 幼少期、一人で動けるようになってからは、あちこちを駆け回った。どんなに無茶な冒険をしても、小鐘の肌には傷一つ残らなかった。

 そんな小鐘を咎め、教え導いてくれたのがほかでもない鈴音だった。

 使用人たちはオロオロとするばかりで、私に何かあったらどうしようと。私の反感を買って解雇されるのを恐れていたのかもしれない。

 そんな使用人らを見かねて、いつも鈴音が現れる。

「こらー! 裸足で庭を走らない!」

 今にして思えば、全身を泥だらけにするような冒険への注意がそれなのかと少し面白くもある。おそらく姉は姉で焦って混乱していたのだろう。

 傷がつかないからといって、痛くないわけではない。棘を踏んだとき、転んだとき、何かにぶつかったときは確かに一瞬の痛みを感じてはいた。

 誰もが「神子様だから大丈夫」と触れずにいる中で、鈴音だけが「そんなに走り回ったら危ないでしょう!」と、泥だらけの小鐘を捕まえて、タオルで全身を優しく拭いてくれた。


 厳格だと噂だった父はため息ばかりで私を叱ることなどなく、母は笑ってなんでも許してくれた。いつも不機嫌な兄と会話をすることは殆どなく、使用人らは私を恐れるばかり。

 そんな中、お姉様だけが私に普通を教えてくれたのだ。


 いつだって「仕方ないわね」なんて笑いかけてくれるあなたを、愛してしまった。

 夕暮れの居間で長椅子に座って本を読む姉に、膝枕をお願いしたあの日以来、姉が椅子の端に座るようになったことを、敢えて触れるのは野暮というものだろうか。

 甘える小鐘を、そのまま受け入れてくれて、慈しみ、微笑む大切なお姉様。


 お姉様が私に抱くのは、家族としての愛情であって、恋や性愛ではない。

 私がお姉様に抱える感情は確かに下世話なそれらの情でもあるけれど、それ以上に家族としても愛している。だから、この恋が実らずとも、家族として愛してくれるならそれで十分なのだ。


 今は、きっと。


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