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第35話 親はなくとも子は育つ

 小鐘が逃げるように立ち去り、それを鈴音が追いかけて、居間には三人が残されていた。

 そこで、鏡矢は父と向かい合い、口を開いた。


「小鐘は、神子として、生まれたときから特別に扱われてきた。父さんは神子である小鐘を恐れ、避け続けてきた。それは、小鐘を神子として強く意識していたからです」

 その通りだと思った。だから、忠臣は黙って、鏡矢の次の言葉を待った。

「小鐘は、自分が特別視されることを嫌っていました。しかし、ある程度の年齢になれば、町民らの反応には一定の理解を示し、納得……というよりは、諦めるようになりました」

 小鐘とて既に分別のつく年齢だ。青海の町を理解すれば、仕方がないと諦めた。

 それに、学校での友人らとは、姉から学んだ処世術によって、当たり障りのない「普通の友人」として振る舞うこともできた。心の奥底までは覗けなくても、普通の友人のように振る舞うことができた。


「母さんは、上守家の人間だ。神子を敬うなと言う方が難しいだろう。けれども、母親としても接してくれていた」

 共に食卓を囲み、母ばかりが喋ることも多かったが、会話もあった。


「でも父さんは、逃げるばかりで小鐘と向き合おうとすらしなかった。そうすることで、小鐘を特別に祀り上げ、小鐘に自分自身の特別さを強く意識させた。父親として、小鐘に接することはなかった」

 それどころか、関わることすらしなかった。これまでの教育方針では、神子に対して不適切ではないか。何か粗相はないかと、必要以上に気にしていた。

「小鐘が神子だと知っても、町民らは案外気さくで、たまにありがたがるくらいだ。この町で最も小鐘を特別にしていたのは、父さんだよ」


 忠臣は、特別であることを嫌う小鐘を最も特別に扱い、父としての責務を放棄して家族にすらなれなかった。


「これは、父さんが選んだ道だ」


 鏡矢は最後にそう言って立ち上がると、静かに居間を去った。


**


 深夜、他の誰もが寝静まった頃。忠臣と海良の寝室の灯りはまだ点いていた。忠臣が書類の整理をしていたからだ。


「なあ、海良」

「んー、どうしたんだい?」

 先に横になっていた海良が、間延びした返事をする。

「『親はなくとも子は育つ』という言葉があるだろう」

「ああ。親が死んでも子供は育つって意味でしょ」

 忠臣は、小鐘があれほど取り乱すところを初めて見た。そして、あんな言葉を言わせてしまったことを、後悔した。正直なことを言えば、あれほど拒絶されるとは思っていなかったのだ。


「とっくの昔に、あの子たちの親としての俺は、死んでいたのかもしれないな」


 忠臣の、紙を捲る手が止まる。


「衣食住は与えた。金も、立場も。……だが、それだけだ。俺はあの子に、この世界での”息をする方法”一つ、教えてやることもできていなかったんだな」

 やり直せるだろうか、とは言わなかった。そんなことは無理だとわかっているから。


「……贖罪できるだろうか」


 姉妹の未来は、前途多難だ。まずは神との話し合いからだなんて、とても正気とは思えない。町民らを納得させる必要もある。

 それらの手助けをすることで、これまでの罪の一端でも、許されたなら────

「都合が良すぎる話か」

 忠臣はため息を吐き、書類の束をまとめて机に置いた。


「俺は、ずっとあの子が怖かった。いや、あの子の権力が、というべきだろうか」

 小鐘の自覚がない頃から、小鐘は神子であり、それはこの町で絶対の存在だということを示している。青海にとっての神子とは、榊原家当主などとは比べ物にならないほど、遥かに強い権力を持つ。

 忠臣の教育は厳しすぎると言えるものだった。忠臣も自覚はあったが、それが榊原家として必要なことだと信じていた。

「神子というのは、この町にとって特別な存在だ。これは、上守で育ったお前のほうが知っているのだろうが……」

 海良が肯定するように頷いたのを見て、忠臣は更に言葉を続ける。

「そんな神子に対して、俺の教育は適切だろうか、もし不興を買えばどうなるのだろうかと、不安だったんだ」

 もし小鐘が「忠臣は不要だ」と言えば、忠臣は榊原家当主を降ろされる。榊原家に──いや、この町で生きていけるのかさえもわからない。

「だから、逃げた。俺は、そんな娘と向き合ってこの先を考えるのではなく、それを放棄して逃げたんだ」

 そして十数年かけて生まれた溝は、二人の関係を明確に隔絶した。

 忠臣は両手で頭を抱えて俯くと、ボロボロと涙をこぼし始めた。


「愛していたんだ。本当に。大切な娘だと思っていたんだ……!」

 だからこそ、祭りのたびにその姿を見に行った。体育祭で裏方をしている姿さえ愛おしく思えた。

 全てが今更の懺悔だとしても、もう何も取り戻せないとしても、それだけは真実なのだ。

 しかし、それを言葉にして伝えることもせず、直接関わろうともせず、信じてほしいと思うのはあまりに傲慢な願いだろう。

 娘の言葉に傷つく権利さえないのだと、忠臣は苦しげに喉の奥から絞り出した。

「小鐘も、鏡矢も、鈴音も、皆、俺の大切な子なんだ。皆、俺の愛する子なんだ。愛して、いたんだよ……」

 その愛し方が間違っていたとしても、忠臣にとっての三人は、間違いなく愛する家族だった。そんな簡単なことを伝えることすら怠ったのだと、忠臣は半ば自虐的に嗤う。


 それまで静かに忠臣の懺悔を聴いていた海良が体を体を起こし、忠臣に歩み寄る。

「そうだね、知っているさ」

 くしゃくしゃと乱雑に頭を撫でられ、忠臣は顔を上げる。それは少年時代から変わらない、二人の関係を思わせた。

「アタシが何年アンタと一緒にいたと思ってるんだ。ちゃんとわかってるよ」


 幼い頃から父に厳しく躾けられてきた忠臣にとって、自分の教育は正しいものだと思っていた。父と同じように、子を育てようとしていただけだ。

 それが愛だと信じていた。

 間違いに気付いたのは、手遅れになってから。


 忠臣は涙を拭って立ち上がった。

「そろそろ寝よう、海良」

 部屋の電気を消すと、部屋にはただ月明かりだけが残った。それを頼りに二人は布団へ向かい、ようやく横になった。

「ああ、おやすみ、チューちゃん」

「おやすみ、海良」

 いつもの挨拶が幾分か忠臣の心を溶かす。けれどもそれは、忠臣の本意ではない。

 今の自分に与えられるべきは、ただ、冷たい後悔だと思った。


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