第34話 望むこと
居間を飛び出した小鐘は鈴音が後ろに付いてきていることを確認すると、鈴音の腕を引いて自室に飛び込んで鍵を締めた。
まだ、頭が熱い。まるで全てを悟り、諦めたような姿が許せなかった。
今更、父親のような顔をされることが、我慢ならなかった。
「お姉様は良いんですか!?」
鈴音の肩をかすめるような勢いで、小鐘は背後の扉を殴りつけた。衝撃に扉が小さく軋み、二人の間に重苦しい沈黙が落ちる。
小鐘は一瞬だけ姉の瞳を見つめて、すぐに逸らした。これ以上、涙をこらえきれそうになかったから。
「私には到底納得できない。今まで私と関わろうともしなかったくせに、今更父親面!?」
小鐘に会わないように朝早く家を出て、夜遅く家に帰る。廊下で出くわすことのないよう、こそこそと隠れる。
そんな相手が父親だなんて、認められるはずもない。
「あの人が一番、私を普通にしてくれなかったのに! 痛みでも、苦しみでも、お姉様と同じであれば、それでも良かったのに!」
いつか大潮命が見せた幻のように、怒鳴りつけ、相手を萎縮させるだけの躾でも、小鐘は別に構わなかった。それが姉と同じであるなら、それが普通になるから。たとえ世間一般と違うものだとしても”榊原家の普通”になるから。
「私は今更、あの人を許せるはずがない……」
小鐘は鈴音の胸元に崩れ落ちた。
滲んだ涙が姉の服を濡らすことに気を割けないほどに動揺して、声が震える。
「私が悪いんですか? 私はあの人を許すべきなんですか……?」
一人だけ全てを懺悔して、すっきりしたとでもいうような顔で見つめる視線が、許せなかった。
小鐘一人だけを置いて、世界だけが進んでいくような感覚に囚われて、ただ、蓄積した憎しみだけが小鐘を呑み込んでゆく。
鈴音は少しだけ考え、迷いながらも小鐘の問いに答えた。
「……こんなことを言っても良いのかわからないけれど、私は、小鐘が許したくないなら許さなくて良いと思っているわ。あなたには、その権利がある」
それだけのことを、あの父親はしてきたのだ。
鈴音にとっての父は恐ろしいものだったし、その点で言えば憎んでいるとも言える。
けれど、父の厳しさは、町の中心である榊原家と上守家、そのどちらとしても相応しく育てなければ、という気負いからくるものだ。それを知ってからは、生きづらい人なんだろうなと、同情することすらあった。
憎らしく思うほど厳しい父親だったが、彼は確かに鈴音の父親だった。
しかし、小鐘に対してはどうだったろうか。小鐘が生まれてすぐのことは、鈴音も幼かったから、流石によく覚えていない。けれども、記憶に残る小鐘と父の関係は、まるで家族とは思えなかったように思う。
小鐘が叫んだ『私の人生に、あなたはいなかった!』は、二人の関係を正しく表していると、鈴音は思った。
「あえてさっきのお父様の言葉を選ぶなら、開き直ってしまえばいい。あなたが望むのなら、あなたの家族は、あなたの望む人だけでいい。それは例えば、私一人だって。あなたの選んだことならば、この町では、それが許される」
戸籍は変えられないけどね、と一言添えて、鈴音はころころと笑った。
「それに、どうせ、この家に居られるのも後数年。上守家に入れば、あなたの父は、汐さんになるわ」
そうして一通り笑うと、鈴音は静かに息を整え、そっと小鐘の頬に指を添えた。
「だから、落ち着いて、息を吸って」
頬に触れた指で、そっと小鐘の顔を上げさせる。まだ涙の滲む小鐘の瞳に、しっかりと視線を合わせて、鈴音はゆっくりと、その心に届くように問いかける。
「あなたの望むことを、教えて?」
小鐘の息を吸う音が、静かな部屋に響いた。そうして、ゆっくりと、口を開いた。
「わ、私は、お姉様がいれば、それでいいです……」
再び小鐘の瞳から涙がこぼれだす。
いつもまっすぐに小鐘に向き合ってくれた人の言葉にまっすぐ向き合い、心からの願いを──心から望むことを、答えた。
「あなたのそばにいて、息ができるのなら、あとはなんだっていい」
小鐘から溢れる涙はとめどなく。その理由は、もはや小鐘にもわからない。
ただただ苦しくて、切なくて、寂しくて。あるいは、憎しみや、憤り。愛おしさと、悔しさ。その他すべての感情が入り混じり、小鐘の涙を作り出していた。
「そう、そうね……」
それを鈴音はただ受け止め、小鐘の体を抱きしめる。
「あなたが望むように、生きていきましょう」
他の何を犠牲にしてでも。鈴音は心の中で、そう呟いた。
切り捨てるべきもの、利用するもの。それらを考えて、考えて、小鐘のための最適解を導き出す。
鈴音が小鐘の頭を撫でると、小鐘は少し恥ずかしそうに、はにかんで俯いた。
守るべきものは一つ。鈴音は既に心に決めていた。
小鐘が望むように生きていけるように、小鐘の進むべき道を整備していくことが、この先の鈴音のやるべきことだ。
「今日はもう遅いわ。寝ましょうか」
鈴音はその冷たい覚悟を微塵も感じさせない優しい微笑みを小鐘に向けた。
「……歯磨きしてない」
「ふふっ、そうね。歯磨きしにいきましょう」
部屋を出ると、篠乃と梅芽が待機していた。梅芽の様子からみるに、どうするべきか迷った末に、まだ業務時間内だから待つことに決めたのだろう。
鈴音は篠乃たちに、自分の部屋に布団を二つ用意して、その後はもう下がるよう指示をした。
鈴音が洗面所の扉を開けようとした瞬間、扉が引かれて鈴音の手が空を掴んだ。
そこに立っていたのは幸いにも兄で、二人を見ると「おやすみ」と微笑んで部屋に帰っていった。
「小鐘的には、お兄様はどうなの?」
「う〜ん……ちょっと、町の人たちみたいだけど、お兄様っぽくは、してくれてる感じ」
「それならまあいいか」
そもそも小鐘は父以外は家族だと認めている様子であったし、父以外のことは気にせずとも良いだろうと、鈴音は結論付けた。
兄の背を見送り、歯磨きを済ませると、鈴音は小鐘を連れて自室へ戻った。
小鐘は鈴音の指示を聞いていなかったため、何故自分の布団が姉の部屋にあるのかよくわからなかったが、あまり気にすることなく布団に入っていった。一日で考えることが多すぎたため、考えるのをやめたのだ。
小鐘にとって、鈴音のそばは安全地帯だ。そのそばで眠れるなら、それに越したことはない。
部屋の戸締まりをすると、鈴音も自分の布団へ入っていった。
既に小鐘はうつらうつらと目を閉じかけていたので、鈴音は小鐘の視界を遮るようにそっと手を添えた。
「おやすみなさい、小鐘。良い夢を」




