第29話 息をする
「わがままばかりで、ごめんなさい」
大渦様のおかげと言うのはいささか不謹慎だろうか。命の危機に瀕していたからこそ、小鐘はようやく、全ての気持ちを鈴音に伝えることができた。
自分が神子であったことは、果たして姉にとって救いになったのだろうか。それとも、上守家次期当主という肩書をかっさらったトンビのようなものだろうか。
せめて神子ではなく、ただの妹であれば、良かったのに。
上守の血筋であること。
榊原の血筋であること。
神子として選ばれたこと。
これらは全て、小鐘が望んでなったものではない。人は生まれる場所を選べない。
上守の血筋としても、榊原の血筋としても、神子としても、上手く、正しく、立ち回らなければならない。
けれど、実の姉を愛してしまったことは、小鐘自身の問題だ。本当は、一人で解決するべきことなのだ。
それなのに今、姉に向かって、生まれてきた場所全てに抱えてきた思いを吐露したのは、ただの甘えだ。姉に、救ってもらいたがっているのだ。
この期に及んで小鐘はまだ、姉を求めていることを自覚して、吐きそうだった。
「大好きです、お姉様。あなたを、愛しています」
いつかと同じ、告白の言葉。
あなたは覚えているでしょうか。
そんな、祈るような、気持ち。
「何度も諦めようとしました。でも、駄目なんです。私は、心からあなたを愛して、そばにいたいと、思ってしまった」
もしもの話ならいくらでもできる。
何度も、何度も、小鐘は鈴音を諦めようとした。そのたびに、反動のように大きくなる気持ちが怖かった。
ずっと、ずっと、自分の存在が姉を苦しめるのだという恐怖と、肥大化していく姉への愛が、怖かったのだ。
小鐘の涙によって布団に広がってゆく染みは、小鐘の気持ちに似ている。
じわりと侵食してゆく、汚い心。
「それならどうして、私と生きようとしないの?」
鈴音の言葉に、小鐘はパッと顔を上げた。それは、小鐘が想定していた返答とは全く違うものだったからだ。
目の前にあるのは、いつものように穏やかで優しい、全てを包みこんでくれるような笑みだ。そこに少しの寂しさが混じっていた。
穏やかな声は、静かに、小鐘の中に溶けてゆく。
想定外の問いに、小鐘はやや困惑しながらも、なんとか言葉を紡ぐ。
「だ、だって、私の気持ちは……お姉様を、困らせるだけのもので……」
「誰がいつ、困ってるだなんて言ったの?」
「え?」
姉の言葉に、小鐘はひどく動揺した。
小鐘の考えはいつも、姉が困るだろう、悲しむだろうと想定し、悲観するだけだった。
実際に姉は、小鐘になんと言っていただろうか。小鐘は必死で記憶を辿り、姉との対話を一つひとつ紐解いてゆく。
そして、ようやく気付いた。
小鐘がまっすぐに想いを告げ、姉への愛を伝えるとき、姉は一度だって、小鐘に否定的な言葉を返したことはない。
「あなたは確かに私の妹だけど、だからこそ、私はあなたを愛している。その愛があなたと同じものだという自信はないけれど、あなたを失うことが良いことだなんて、絶対に思わない」
小鐘がずっと、鈴音への想いと、神子としての重責について考え、思い悩んでいたことを、鈴音は知っていた。
けれどそれは、鈴音が手を加えるべきことではないと思っていた。
それが間違いだった。
鈴音は今一度、自分の立ち位置を見つめ直す。そこはとても不安定で、上守としても、榊原としても、重要な人間にはなれない中途半端な存在。
その立ち位置を作り出した原因の一端は確かに小鐘だ。次期上守家当主として育てられてきた鈴音の立ち位置を、神子という肩書一つで奪い去ってしまったことは、否定できない事実だ。
けれどそれは、小鐘が選んだことではない。
小鐘の人生において、小鐘が自由に選べたことは、そう多くない。
榊原の血筋と、上守の血筋を併せ持つ小鐘と鈴音はとても特別な立場にある。更に小鐘は、神子という肩書を得てしまったがために、選べる選択肢はいつも少なかった。
そんな小鐘が唯一、ずっと変わらずに、選び続けてきた道がある。
それが、鈴音と共にいることだった。
鈴音も最初はどうするべきか迷っていた。倫理的に考えれば、拒絶するのがきっと正しいのだと思う。
けれど、あの荒んだ家で、唯一とも言える穏やかで温かな愛は、常に小鐘から与えられてきた。
小鐘の才能は時に鈴音を苦しめたけれど、それは小鐘の意図したことじゃない。そこに敢えて理由を求めるとするのなら、自分の努力不足だ。鈴音自身がもっと努力していれば、文化祭の日をあのように迎えることはなかっただろう。
ただ、運が良かっただけ。
あるいは、運が悪かっただけ。
もし小鐘があの暗い海の底を求めるのなら、鈴音は自分自身がその海の底で小鐘を待っていようとすら思えた。
それが例えば、破滅をもたらす共依存あったとしても。
「あなたが私を求めるのなら、私はあなたに全てを捧げたっていい」
溺れそうな期待と嫉妬と羨望の中で、仄暗い海の底で、家族という檻の中で、ただ一人、真っ直ぐな愛を与え続けてくれた人。
「だからどうか、私と息をして、生きていて」
小鐘の頬を鈴音の両手が包み、そして、唇が触れ合った。
驚いた小鐘が慌てて顔を離すと、鈴音は、少し切なそうに笑いながら、小鐘に尋ねた。
「……だめ?」
「な、え、えっ!?」
小鐘は困惑を隠すこともできず、その場でうろたえる。
「ま、待ってください。えっ、いや、なんで……」
その声は次第に震えていく。
「だって、ずっと、駄目だって、思ってきたのに」
ポロリと、小鐘の瞳から涙がこぼれた。
「そ、そうだ! 引き止めるためでしょう? そうじゃなきゃ、こんなこと……」
小鐘の言葉に、鈴音はふっと息を漏らした。
「馬鹿ね。私がそんなことするわけないって、あなたもわかっているでしょう?」
あなたが一番私を見ていたのだから。そんな鈴音の言外の言葉を、小鐘は正しく受け取った。
鈴音の言葉に、小鐘は反論の余地をなくし、押し黙る。
「私のこの気持ちが、家族としてのものなのか、あるいはあなたと同じものなのか、今の私には断言できない。そしてこの先、あなたと同じように、あなたを愛せるかどうかはまだわからない」
鈴音が小鐘を想う気持ちは本物だ。小鐘を心から愛している。
けれどまだ鈴音には、その感情が恋愛感情なのかは自信がなかった。
「けれど、あなたを大切に思っていて、あなたを失いたくないと思っていることは、信じて」
互いの愛が等価値である必要なんてない、ただ互いの愛が確かなものであればそれだけで良い。
鈴音はゆっくりと、穏やかに、小鐘に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「不安なら何度だってキスをするわ。あなたの望むもの全てを捧げても良い」
鈴音は再び小鐘の頬を両手で包み込むと、その体から、想いが伝わるようにと額を合わせる。
「大好きよ、小鐘。あなたを、愛しているわ」
それは、小鐘の言葉をそのまま鏡に映したような言葉だった。小鐘が姉にその想いを告げた言葉をそのまま、鈴音は小鐘に宛てるように返した。
触れ合った額から、じわりと温もりが広がる。
鈴音の言葉が実感を持って、ゆっくりと小鐘の体の中に溶けてゆく。
「大丈夫。あなたは、私に、愛されている」
次の言葉は、小鐘の中をするりと通り抜けた。既にその愛を受け止める道ができていたからだ。
だから小鐘は、泣きながら姉に抱きついた。
「好き、大好きです。あなたが、大好きです、愛しています!」
「ええ、わかっているわ。私も、あなたを愛してる」
そうして抱き合ったまま、小鐘は何度も何度もその想いを告げ、しばらくすると、疲れて眠ってしまった。
大渦様の件もあり、体力は随分消耗していたはずだ。ここまで保ったのも奇跡だろう。
鈴音は愛おしい妹を、ゆっくりと布団に寝かせる。緊張の糸が切れたように、穏やかで、あどけない表情。
最近は小鐘の眠る姿を見ていなかったな、と鈴音はふと思い出した。
きっと無理をして、我慢して、一人の部屋で眠っていたのだろう。今後どうするのかは小鐘次第だ。心が通じ合ったと安心して、深夜に勝手に侵入してくることはなくなるかもしれないな。あるいは調子に乗って一緒に寝ることを日課とするだろうか?
「大丈夫よ、小鐘。あなたが私を愛していて、私もあなたを愛しているのだから──」
きっともう眠ってしまっていて、届かないことをわかっているけれど、鈴音は言葉を続けた。
「きっと二人でなら、どんな困難も乗り越えられるわ」
寝息を立て始めた小鐘の頭をゆっくりと撫でると、まるでなんてことのない日のような穏やかさをも感じてしまう。
二人で過ごす休日の午後のように、穏やかな顔で眠る小鐘。涙の跡をそっと拭うと、くすぐったげに声をもらす。鈴音は、幸せそうに眠る小鐘が自分のそばにいるのなら、どんなことだってできそうな気がした。
眩しそうに眉をひそめた小鐘に覆いかぶさるようにして、光を遮る。
「あなたはいま、どんな夢を見ているのかしら」
夢の中にも自分はいるのだろうか。鈴音はそんな不毛なことを考えて、ふっと息を吐くと、立ち上がって部屋の電気を消した。夢の話など、小鐘が目覚めてからすれば良いだけのことだ。
障子越しの窓から差し込む月明りを頼りに、鈴音は小鐘の眠る布団へと戻る。さすがに一つの布団で二人で眠ろうとすると狭く感じるが小鐘は何度もやっていたことだ。何かコツでもあるのか、今度聞いてみても良いかもしれない。
鈴音は小鐘の手を握ると、小鐘の隣に横になった。
上守、榊原、神子。どれも難しい問題だ。
姉妹で愛し合うために乗り越えるには、きっとかなり大変なことになる。
それでも乗り越えていこう。戦っていこう。鈴音はそう決意し、目を閉じた。
「おやすみなさい、小鐘。良い夢を」




