第28話 焦がれるもの
風呂を出ると、鈴音は篠乃と梅芽に今日の業務の終了を指示した後、小鐘を連れて自室に戻った。きちんと指示通りふとんが二つ、並べて敷かれている。
本当なら食事を摂ったほうが良いのだろうが、いまの鈴音と小鐘には、何かを食べるという気力がなかった。
代わりに一杯ずつ白湯を受け取り、ようやく一息ついたところで、小鐘がポツリと呟いた。
「どうして…… 助けたんですか?」
「え?」
小鐘の問いは、鈴音にとって突拍子もなく、全く理解できないものだった。
どうしてだなんて、家族だからに決まっている。
「私は、生きていたくなかった。暗い、海の底に沈んで、このまま息を、止めてしまいたかった」
まるで自らの心臓を握りつぶすかのように、小鐘は自らの両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
ボロボロと両目から溢れ出してくる涙を止めることすらせず、ただ、心臓の音を、止めるように、小さな背を丸める。
今からでも、息を止めて、醜く蠢く心臓を止めて、消え去ってしまいたかった。
小鐘が大渦様の誘いにまんまと流されてしまったのは、小鐘自身が消えたいと望んでいたからだった。
不安定な心は既に均衡を崩して、負の方向へと落ちていた。
だから大渦様は簡単に小鐘を海に呼び寄せることができたのだ。
小鐘が神子として生まれ、あの家が少しでも姉にとって生きやすい環境になったのなら、生まれてきた意味はあったのかもしれない。
けれど、その先は?
「もし今、私がいなくなっても、お姉様が上守を継げば、それで元通りでしょう?」
後から生まれ、すべてを奪った悪魔にも等しい自分を、何故愛してくれるのか、ずっとわからなかった。
その優しさを享受する資格があるのか、わからなかった。
「神子なんてどうせ滅多に生まれないものです。これまで薄れてきた血の中ですら、私という存在が生まれた。数千年もすれば、再び神子は現れますよ、きっとね」
自分という実例があるのだ。誰が反論できようか。ましてや神子である小鐘の言葉に。
「町民の反発は多少あるかもしれないけれど、当事者の私がいなくなれば納得せざるをえない。そうでしょう?」
小鐘は鈴音に向かって、できるだけ優しく、子供をあやしつけるような穏やかさで、微笑んだ。
「もとより上守に戻るのはお姉様だった。それが、もとに戻るだけですよ」
その微笑みは一秒と保たず、小鐘はただ何かを諦めたように、無表情に呟く。もはや鈴音に言い聞かせることすら諦めたかのように。
「良いじゃないですか。お姉様はもうすぐ高校を卒業して、上守に入る。そうしたらお父様を恐れることもなく、お兄様に怯えることもない。幼少期のような悲劇は、再び訪れることはない」
「幼少期ってあなた、何を言っているの?」
鈴音の問いに、小鐘は無感情に答える。
「神様は、もし私が生まれていなかったらという、もしもの世界を教えてくださいました。そしてそれがきっと、幼少期の家庭環境そのものなのだと思いました」
きっとあの家族は、ずっとあのようにして生きてきたのだ。
恐ろしい父、そのせいで心の余裕を失ってしまった兄。それらを受けてなお、榊原のため、上守のためと努力する姉。
きっと小鐘がもたらしたものは安寧ではなく停滞だ。逃げ惑う忠臣との関係は、何一つ発展していないのだから。
「神子という存在はたしかに特別です。でも、千年に一度現れるかという奇跡のような存在がいなくなったところで、町民が迎えるのは元の生活ですよ」
奇跡なんて起こらない。起こっていなかったことにすればいい。
きっといつか現れる未来の神子がどんな未来を選ぶのか想像もつかないけれど、それは小鐘の知ることではない。
ただ、いまこの自分がここにいて、何の益があるというのだろう。
「私は、お姉様の”普通”になりたかった。普通の家庭で、普通の妹。なんでもない、どこにでもいるような、”普通”の女の子になりたかった」
特別な力を持って生まれてきた。
特別な血筋、特別な家系、特別な才能。
何もかもが特別だった。
特別な私は、誰からも特別に扱われた。
たった一人、お姉様を除いて。
恐ろしいと噂されていた榊原家当主は、特別な私を恐れて干渉を避ける。それを憎く思ったことは一度や二度ではない。
使用人の話や、お兄様やお姉様の態度、それらが物語るあの人の姿は、私を見て怯える忠臣の姿と決して重ならない。
せめて兄や姉と同じように、厳しく接してくれたのなら、小鐘は今ほど忠臣を憎んではいなかったと思う。
お母様は神子としての私を、大変ありがたがる。しかしこれはお母様の血筋が上守であり、上守は神の血を引く家系だから、仕方のないことだとは思う。
幼い頃から大潮命という神を崇め奉ってきた上守の人間が、神子を特別に扱うのは当然で、それが義務だとも言える。だからそれで、母のことを恨んだことはない。
けれど、同級生らの語る”母“という存在との違いが、苦しくて、寂しかった。
お兄様は比較的”普通”に接してくれているけれど、徹しきれていない。物事の端々で私を特別扱いし、重要なことほど私に決定権を委ねる。
そもそも兄の態度は、姉の態度を模倣したものだ。お姉様が私を普通に扱うことで私が喜ぶことを知っているから、同じように普通に扱うことが私の求めるものだと判断してそう行動しているにすぎない。
それでも、母たちよりはよほど良い。神子としてだけではなく、きちんと私に向き合おうとしてくれているようで。
使用人は言わずもがな。
そもそも仕える主人なのだから、特別扱いするのが当たり前だ。そこに文句はない。
そんな中、お姉様だけが私の普通でいてくれたのだ。だから私は、同じように、普通の妹になりたかった。
いつもいつも寝室に侵入して、告白をして、きっと迷惑をかけていただろうな、と思う。
「私だって、普通の姉妹に憧れたことはあるんですよ。そしてそれを目指そうとしたこともあった」
本当は、恋人になどなれなくても良かったのかもしれない。
いつも愛を伝えるのは、姉の優しさを確かめたくて、離れていかないことを信じたくて、変わらず普通に接してくれることを知りたかったから。
そんな、ただの試し行動に過ぎない小鐘の行動を、いつも優しく受け止めてくれた姉を、愛するなという方が無理がある!
なんてね。すべて私の自分勝手な言い分ですよ。
告白の言葉がいつか力を持ち、本当に愛してしまうようになったことについては、浅はかで馬鹿な私を笑うしかないのだけれど……
本当の恋で、本当の愛で、偽物の始まり。
「ごめんなさい。本当はわかっていたんです。私は普通にはなれないこと、この恋が──実らないこと」
姉妹愛なんて優しい響きであったなら、良かった。家族愛なんて、美しいものであったなら、良かった。
けれど私は、姉を愛してしまった。
抱えていた好意を、恋愛感情にしてしまった。
「いいんです。わかっています。間違っているのは、私だってことくらい」
だから、息を止めて、
あの暗い海の底に、
沈んでしまいたかったのだ。




