表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/41

第27話 大禍

 春休みも目前に迫ったある放課後、鈴音はなんとか生徒会長の引き継ぎ資料を作成していた。


 引き継ぎ資料の作成には時間がかかり、気付けば午後八時半。

 既に生徒会長の座は小鐘へと引き渡し、年間行事の付き添いもいくつかしたとはいえ、伝えきれていないことは多々ある。故にこれは必須の作業だった。

 時間はかかったが、なんとか成し遂げた達成感を胸に、鈴音はどこか浮かれた気持ちで帰路に付いた。


 鈴音が帰宅すると、玄関前で海良と鏡矢が言い争っていた。いや、声を荒らげているのは鏡矢だけで、海良はそれを適当にあしらっているように見える。

 普段はまともに会話すらしない二人が言い争っている。それも、人目も憚らずに屋敷の外でだ。


 言い知れぬ胸騒ぎを覚え、鈴音は急いで二人のもとへ駆け寄ると、「どうかされましたか?」と尋ねた。

 すると鏡矢はバッと振り返り、鈴音の両肩を掴んだ。

「小鐘はどうした、一緒じゃないのか?」

「え、ええ。今日は生徒会の会議後に先に帰らせました」

 鈴音の答えを聞くと、鏡矢は海良に振り返って「ほら見ろ、絶対におかしいと思ったんだ!」と叫んだ。

「鈴音は生徒会の仕事で遅くなると言っていた。だが小鐘は、そんなことは一言も言っていない!」


 榊原家は帰宅が遅くなる日は、極力事前に連絡するよう暗黙のルールがある。出かけに使用人に伝えるのが一番手っ取り早いが、伝えるのは基本的に誰でも良い。

 今朝、鈴音と小鐘が登校する直前に、鈴音は篠乃に遅くなることを伝えていた。

 今日の作業は一人でするものだったため、小鐘には先に帰るようにも伝えたはずだ。


「あの、小鐘が、どうかしましたか……?」


 鈴音は、激しくなる鼓動を抑えながら、震える声で、尋ねる。

 鈴音の問いに、鏡矢は絞り出すように、深く俯いて答えた。


「まだ帰ってないんだよ……」


 その言葉を聞いて、鈴音は頭が真っ白になった。持っていた通学鞄が、手の中から滑り落ちる。


 鏡矢は舌打ちをして、再び海良に文句を言い始める。

「だから言ったんだ。報告もなしに遅くなるなんて、あり得るはずがない!」


 息が、浅くなる。


 鈴音は嵐の前のような荒れ狂う海を見下ろし、駆け出した。


「待て鈴音、どこへ行くんだ!」


 兄の言葉など聞いている時間はない。

 手遅れになる前に、迎えに行かなければ。そんな思いが、鈴音を突き動かす。


「クソッ」

 背後でバタバタと兄が走るのを聞きながら、鈴音は足を止めることなく真っ直ぐに海へと向かった。


 どうして忘れていたんだろう。

 汐さんから音沙汰がないから油断していた。汐さんから連絡がないということは、大潮命にも気付かれぬように、魔の手はゆっくりと迫っていたのだろうか。

 けれど、兆候はあった。あったはずなんだ。


 普通の姉妹であろうとするために、小鐘が抱えた苦しみはどれだけのものだったのだろう。

 今更言い訳なんてできるはずもない。私は慢心していた。ずっと同じように、小鐘が私を求めてくれるものだと。小鐘が私のそばを離れることなんてないと。


 その間もずっと、大きな渦は小鐘を狙っていたのだ。

 小鐘の心が不安定に揺れ、やがて闇に飲まれることを知っていたかのように。

 暗く深い海の底で、神子を求めて。


 汐さんは言った「不安定な心が厄を引き寄せる」と。だから私は、大切な妹が災厄にのみ込まれることがないよう、小鐘の心を支えなければならなかった。そしてそれを、誓ったはずだった。

 それなのに、慢心して、安心して、小鐘から目を離してしまった。


 まるで普通の姉妹のように、ゆっくりと遠ざかっていく彼女の心が、不安定に揺れ動くのを、見逃してしまっていた。

 なんてことのないように、笑うから。いつものように微笑むから、大丈夫なんだって信じ切ってしまった。

 巧妙に隠された彼女の心を知り、大禍にのまれぬよう、支えてあげるべきだったのに。


**


 町のうねった坂道を全速力で駆け下りて、ようやく防波堤までたどり着く。


 鈴音の予想通り、小鐘は波打ち際をふらふらと彷徨っていた。目の焦点はあっておらず、ゆらゆらと揺れている。

 心ここにあらずといった様子で、時に足に波を浴び、ゆっくりと、ゆっくりと、海に、沈むように。


 すぐに迎えに行こうとして、ふとそれが、舞のようなものであることに気が付いた。

 いつもの大潮命へ捧げるものではない。

 けれど優雅に、あの日見た、美しい蝶のように。スカートをなびかせながら、小鐘はゆっくりと舞い踊る。


 ざぶん、と大きな波がたち、そちらへ目をやると、巨大な影が小鐘の姿をじっと見つめていた。その赤い目が一瞬、鈴音へと視線を移した。ただその一瞬だけで、鈴音の全身の肌が粟立つ。

 小鐘を取り戻しに来たという、強い決意さえ揺らがせる、鋭く赤い瞳。

 その影はゆっくりと海の底から、どす黒い手を持ち上げた。


 ぼとぼとと泥のようなものを落としながら、その手が小鐘を掴んだ。


 瞬間。弾かれたように鈴音は再び走り出した。

 恐るべき脅威が本物の災厄となって襲いかかってようやく、鈴音は自分の身にかけられた”恐れ”という呪いを振り切ることができたのだ。

 呪いに侵された真っ黒な両手が、小鐘を海の底まで引きずり込んでゆく。


「小鐘!」


 叫んでも反応はない。


「小鐘、返事をして。小鐘!」


 何度も何度も叫び、小鐘の元へ走る。

 けれどあまりにも遠すぎる。足を止めてしまった自分を呪いながら、鈴音はそれでも走り続けた。

 届かないことはわかっているのに、小鐘の姿に手を伸ばして。


 ──トプンと海の中に二つの影が消えた。


 鈴音は足を止めることなく、ただ祈るように、小鐘の名前を叫び続ける。

 走り続ける鈴音の胸元でお守りが揺れた。それは、神無月で受け取った大潮命のお守りだった。鈴音はそれを握り潰さんばかりにぎゅっと掴んで、叫んだ。


「大潮様!!!」


 バシャンッと大きな音を立てて、波が立つ。あるいはそれは、ガラスを壊したときのような、何かが崩壊する音にも聞こえた。


『痴れ者がッ、我が神子を手に掛けるなど、ふざけた真似を……!』


 空が一瞬眩しく光り、そこから人間のような姿をしたものが現れた。

 鈴音は直感的にそれが大潮命だと悟り、目を見開いた。それは、神子ではない鈴音が初めて見た神様の姿だった。

 あまりに神々しく、美しい姿に、鈴音は思わず足を止める。息も忘れ、その姿を目に焼き付けようとさえ思えた。


『鈴音、神子を頼む!』


 大潮命の言葉でハッと我に返った鈴音は慌てて駆け出し、凍てつく冬の海の中へ飛び込んだ。

 ぶくぶくと泡を吐きながら沈んでいく小鐘の手を、何度も滑りながら、ようやく掴んで、浜辺へ引き上げる。

 既に生気を失いかけている顔を見て、鈴音は焦って応急処置を始める。心臓を押し込み、自分の生きる力と共に、肺に呼吸を送り込む。

 ただ、小鐘が「生きる」ことを願いながら、何度も、何度も。


 数回繰り返したところで、小鐘が咳込み、飲んでいた水を吐き出し、呼吸を始めた。

 ホッとして鈴音はようやく力が抜ける。愛しい人の頬に触れ、その体温に安心した。


『すまない、待たせた』


 鈴音の目の前に、大潮命が降りてくる。

 姿勢を正そうとすると『そのままで良い』と遮られた。

『奴め、小癪にも結界を張っておった。お前の呼びかけがなかったら気付かなかっただろう。助かった』

「いっ、いえ。あ、えっと、あの、ありがとう、ございます」

『いや、こちらこそ礼を言う。神子をみすみす殺させるところだった』

 大潮命はそう鈴音に告げて、袖についた黒いシミを払った。あれは、大渦様の残滓だろうか。

『私は一度戻り、すぐに汐と共に再封印を施す。しかし、今夜中はまだ用心を続けていてくれ』

「はい。ありがとうございました」

 鈴音の返事を聞くと、大潮命はその場で姿を消した。

 初めて本物の神様を見たこと、会話をしたこと、大渦様の恐ろしさ。一日で飲み込むには難しい情報量だ。鈴音はしばらくその場で呆然としていた。


 濡れた服では寒いだろうかとも考えたが、自分の服もびしょ濡れであることに気付いて、せめてもと小鐘を抱きしめる。

 トクトクと伝わる心臓の音が、止まらなかったことに心から安堵した。

 いま、自分の腕の中に大切な妹がいることが、本当に幸せなことだと思えて、少しだけ涙が出た。

 大渦様という災厄を前にしても泣くことのなかった自分が、妹を失いかけたという恐怖に涙したことに、鈴音が驚くことはもうない。鈴音にとって、何よりも恐ろしいのは、妹を失うことだと理解してしまったからだ。


 車のエンジン音が聞こえて振り返ると、見慣れた車があった。お抱えの運転手は既に業務を終えたあとで、運転手は鏡矢だった。

「良かった、無事だったのか……」

 鏡矢は安堵し、体から力が抜けると共に、車体に覆いかぶさるように体を預けた。

 守ると決意した矢先にこれでは、先が思いやられるな。鏡矢は深くため息を吐いた。


「帰ろう。二人とも、車に乗れ。外は冷えるだろう」

 真冬の海だ。このまま二人を放置しては、すぐに風邪を引いてしまうだろう。

 鈴音は車のシートが濡れるからと断ろうとしたが「気にすることはない」と鏡矢は無理やり二人を後部座席に乗せた。

 車内は暖房が効いていて、鈴音はその温かさに安堵した。

「シートが駄目になったら、買い換えればいいだけだ」

 さすがは次期榊原家の当主だけある、余裕のある答えだ。鈴音は少しおかしくて笑ってしまった。

 鈴音の笑いにつられたように、鏡矢は少しだけ頬を緩ませて、車のペダルを踏んだ。


 家に到着すると、既に業務終了時間は過ぎているのに、篠乃たちが車を迎えた。

「おかえりなさいませ、お二人共。ご無事で何よりです」

 篠乃はいつものように静かにそう言ったが、その瞳には涙が滲んでいた。梅芽は言うまでもなく号泣だ。

 妹がこんなにも人に愛されていることを、鈴音は嬉しく思った。


 まだぐったりとしている小鐘の入浴を任せ、自分はどうしようかと考えていると「一緒に入ればいいじゃないか」と鏡矢は言った。

 鈴音は少し考える。確かに、榊原家の風呂は広いから、一緒に入ることは決して不可能ではない。いま、全身びしょ濡れのまま待つのは風邪を引きそうだし、目の前から小鐘を失うのは少し怖かったので、鈴音は鏡矢の提案を受け入れることにした。

「篠乃、私のお風呂の準備もしてくれる?」

「承知いたしました」

 ほっと息を吐いたら、くしゃみが出た。冬の海に飛び込めば当たり前か。

 鈴音はあのとき、冬の海だなんて考えずに海に飛び込んだ。ただただ、小鐘を救いたくて。

 梅芽が慌ててタオルを差し出すので受け取って、軽く体の水を拭き取る。


 何はともあれ、小鐘も私も無事に生還できた。近々、汐さんから連絡があるだろう。


 風呂の準備が終わる頃には小鐘の意識もだいぶはっきりしてきた。これなら後遺症の心配もないだろう。

 鈴音の部屋に二人分の寝床を用意するように指示して、鈴音は小鐘を連れて風呂に入った。


「今日は、ごめんなさい……」


 湯船に浸かる小鐘が、体を洗っていた鈴音の背中に話しかけた。


「私のせいで、みんなに迷惑かけて…… 駄目ですね、私は、神子なのに」


 大きな渦は確かに迫っていた。

 夢の中で、心の奥底で、大禍の予感を孕ませていた。

 それをきっと大丈夫だと思い込もうとして、それが今日の失敗に繋がった。

 小鐘は自分の不甲斐なさが、恥ずかしくて、申し訳なくて、仕方がなかった。


「神子にだって、できないことくらいあるわよ。大潮様だって、大渦様の結界に気付けなかった。神様にすら不可能があるなら、私たちに不可能があるのは不思議なことじゃないでしょう?」


 振り向いた鈴音は、小鐘に穏やかに微笑んだ。

 それでも小鐘は、自分の失敗が悔しくて仕方がなかった。何より、姉を危険に晒したことが、許せなかった。


 ざぶん、と音を立てて、鈴音は小鐘の隣で体を湯に沈めた。


「今回の件だって、本来は大潮様と大渦様との諍いだったのに、小鐘は巻き込まれただけじゃない。何も気にすることはないわ」


 小鐘の頭に、コツンと優しく鈴音の頭が触れる。


「あなたが生きていてくれて良かった」


 鈴音の言葉に、小鐘は答えを返すことができなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ