第25話 どうか透明な愛を
正月休みも終わったある朝、小鐘は妙な違和感と共に目覚めた。
時計を見るといつも起きる時間だ。天気は晴れ。障子越しに光が差し込んでいる。
また今日から、憂鬱な学校が始まる。妬みや嫉みは常に小鐘の周りに渦巻いて、羨望や尊敬は重責としてのしかかる。それらをすべて、笑顔で受け流す。上手い世の渡り方は、姉に教えてもらった。
さっさと着替えようかと思ったところで、ようやく違和感の正体に気付いた。
梅芽がいない。
新人とはいえ使用人だ。朝寝坊で主人を起こしそこねるなんてことは無いはずだ。というか、寝坊なんてしてたら篠乃に叩き起こされるだろう。
その梅芽が、朝の支度をしに小鐘の部屋に来るのが日課であるはずだ。
首を傾げながら一人で着替えを終えると、小鐘は部屋を出て洗面所に向かった。
道中は誰ともすれ違わず、廊下は静まり返っている。
洗濯室の方からは声が聞こえるから、この世界から人が消えたなんて非現実的なことは起きていない様子だ。
小鐘が次に向かったのは居間だった。
ガラス戸を開けて、小鐘がまず驚いたのは、忠臣が席にいたことだ。
どこか不機嫌そうにも見える、けれども無表情にも見えるような顔で、黙々と食事を続ける。
母は……まあ、あまり変わっていないように見える。
兄は萎縮して、普段よりちまちまとご飯を食べている。
姉は更に酷く、萎縮して、怯えて、まともに食事が摂れていない。あの日見た光景のまま。
違和感のある風景だ。一度、母の思いつきで家族全員で食卓を囲ったときと同じような雰囲気によく似ている。
けれど何より見逃せない違和感は、他にある。
姉の隣の席に本来用意されているはずの小鐘の食事がなかった。
そもそもガラス戸を開けた時点から不自然だった。誰も小鐘の存在には気付いていないような様子だったから。
そこでようやく小鐘は、これが大潮命の見せる幻であることに気付いた。いや、幻というよりは、小鐘が願ったように、小鐘のいなかった世界線を見せられているのだろう。物に触れられて、それを人が気にしないのは、ご都合主義もいいところだ。さすが神様。
実体があり、ものにも触れられるのに、人に認知されないというのは、どうにも不思議で慣れない感覚だ。
人がいないことと、いまこの現状では、どちらが非現実的なのか。比べることでもないだろうか。
「鏡矢、報告」
「は、はい。昨日は山城株式会社との新商品の検討会があり、塩野商事と会談を行い、帰宅は午後八時頃でした。食事と風呂を済ませた後、一時間ほど読書をしてから就寝しました」
「そうか」
何だその返事は。もう一言くらい付け加えてやれば良いのに、と小鐘は心の中で悪態をつく。
この調子じゃどうせ姉への反応も同じだ。
「鈴音、報告」
大体『報告しなさい』とかもっと指示らしく言えないのか。
何故か家族全員に認識されていないことを逆手に取って、小鐘はバタバタと暴れ回る。
「さっ、昨日は、生徒会の仕事がなかったため、部活動を終え、午後六時に帰宅しました。先に課題と自主勉強を行い、その後風呂に入り、就寝しました」
「うむ。わかっているとは思うが、上守に入るための勉学も忘れるなよ」
「はっ、はい!」
上守は神の血筋であり、代々大潮神社の神主を務めている。当主には女性、その配偶者が神主を務めるようになっている。
その上守に入るとなると、覚えるべきことは多い。まして、当主候補ともなれば、それ以外とは比にもならないほどだ。
当主の重責に耐えかねているのか、はたまた忠臣に萎縮しきっているのか、鈴音は食事の味もまともにわからないような青い顔で、無理やり箸を進めていく。
食事を終えた忠臣は、あの日と同じように「ごちそうさま」と言うと、さっさと立ち上がって去っていってしまった。
その後も、小鐘がいないこと以外は、あの日の食事と概ね違いはなかった。
食事を終えると家族はそれぞれに支度をして、家を出る。
一人で家を出て、黙って歩く姉の後ろ姿を付いて歩くと、時折人とすれ違う。その殆どが山で農作業をする町民だった。榊原の家より上に家を構えるような人間はいないのだから、当たり前の話か。
山を下り、学校に近づくと、ようやく学校の生徒たちが現れる。誰もがどこか様子を伺うように、遠巻きに鈴音を見ていた。
小鐘の知る鈴音は、様子を伺われながらも、笑顔で挨拶を受ける人だ。
これらの違いはなんだろうと考えて、はたと気がついた。
姉の顔が違うのだ。
小鐘の知る姉は、人から慕われるような、優しい笑顔を浮かべていた。そうでなくとも、もっと穏やかな顔だった。
対して今の姉の顔は、無感情に近く、敢えて言えば少し怒っているような顔をしている。
これでは他の生徒も話しかけることは難しいだろう。学校内での姿も想像に難くない。
概ね小鐘が予想した通りに、姉は学校生活を過ごしていた。人から慕われることもなく、話しかけられたかと思えば業務連絡程度。
学校にいる間も、姉は常に何かに怯え、必要以上に気負っている。自分がなすべきことに、必死になっている。
帰路を歩む鈴音の顔は、家に近づくにつれてどんどんと暗くなる。緊張し、怯え、いつか逃げ出してしまうのではないのかと思えるほど、目に見えて歩く速度が落ちていく。
榊原の家から、外の世界に続くトンネルは数百メートルだ。逃げ出そうと思えば、きっと逃げ出せる。
けれど鈴音はまだ高校生だ。榊原に連れ戻され、忠臣に叱咤されるだろう。だから、逃げることなんてできないのだ。
いまここで、姉の手を引いて逃げ出すことができたらなんて、小鐘はぼんやりと思った。叶うはずもない夢。神子という肩書を背負った以上、小鐘がこの地を出ることはできない。
帰宅後、使用人らに出迎えられた姉は、黙って部屋に入ろうとしていた。そのとき兄が部屋から出てきた。兄は姉の姿を一瞥すると、不機嫌そうな顔を隠すこともなく、黙って姉の横をすれ違っていく。
二人の間には、挨拶の一つもない。
夕食には忠臣はいなかった。それほど仕事が忙しいらしい。母が不満げに漏らす。
兄と姉は少し安心した様子で食事を進める。兄はその変化が顕著で、箸の進みが早い。すぐに食事を終えると「ごちそうさま」と言って、さっさと居間を出ていった。その姿は、あの男によく似ている。
姉は少し箸の進みが早くなった程度だが、味の区別も付いていないような顔ではなくなっている。それは少し、小鐘を安心させた。
夜になり、風呂を終えた姉が廊下に出ると、ちょうど夜の鍛錬を終えた兄が廊下の角から現れた。
「あっ、お、お兄様。お疲れ様です。えっと…… お風呂、空いております」
「そんなものは見ればわかる。さっさと部屋に戻って勉強でもしていろ」
風呂場の目の前に立つ、明らかに風呂上がりの姉。確かに状況を見ればわかることだ。だからといって、あんな突き放す言い方をする必要はないだろう。
「どけ、俺も風呂に入る」
「は、はい。すみません」
扉の前に立っていた姉の肩をぐいと横に押し、兄は風呂場へと入っていった。
小鐘の知る鏡矢と鈴音の関係は、特段良くも悪くもないという印象だった。
談笑することはないが、日常会話を普通にして、兄はもっと柔らかい言葉を使っていただろう。
「鈴音」
背中からかけられた声に、鈴音はパッと慌てて振り返った。そこには怯えと緊張が見える。
小鐘は気配から忠臣が近づいてきていることこそ察知していたが、それでも驚きはあった。なぜなら、忠臣が姉の名を呼ぶところを殆ど見たことがなかったからだ。
「こんなところで何をしている」
「あっ、いえ、先程入浴を終えて……」
「それならば早く部屋に戻って勉強でもしていろ。学校の成績は常に頂点であれ。そうでなければ榊原ではない」
耳の奥に響く、忠臣の声。
「お前はいつか上守に入るのだから、作法やしきたりを学べ。この町においての榊原と上守の地位を理解しろ」
そう言うと、忠臣は大股で自室へ戻っていった。
噂に聞く厳格な父。恐ろしい父。
小鐘は、ようやくそれを見ることができた。あまり、気分の良いものではなかったが。
兄も含め、あんなものに囲まれていれば、今の姉の気弱さも納得がいく。
母は相変わらず自由に過ごしているようで、特段変わりはないように見える。しかし、今日たった一日でわかることなど少ないものだ。何かしら母からの影響は受けているだろう。
さて、今日一日、自分のいない家族を見た感想は、正直なところ最悪だった。
自分がいるメリットと、デメリット。
自分がいないメリットと、デメリット。
天秤にかけても秤は壊れてまともな結果は得られない。それは、この問題に答えがないことを示しているのかもしれない。
生まれてしまった以上、小鐘は小鐘の手の届く範囲で、できることをする。
もしもの話など無意味だと、神は示したのだろうか。
この夢は、いつ覚めるのだろう。
大潮命が満足するまで?
それとも、永遠に?
小鐘は不安になりながらも、いつもの時間に床についた。
いつもなら使用人がしてくれる全部を、突然自分がしなければならないのは大変だったな。
思いの外疲労の溜まっていた小鐘は、すぐに眠りについた。
**
次に目を覚ました時、小鐘は浅瀬で仰向けになって波に打たれていた。
柔らかに揺れる波は小鐘を飲み込むでもなく、そっと撫でては返ってゆく。
そこは幾度もなく小鐘を迎え、神との対話を行った、神の作り出した特別な空間だった。見覚えのある世界の中で小鐘はようやく、今日の全てが神の見せた幻だったことに確信が持てた。
近付いてくる気配も、小鐘のよく知る神様のものだ。
『お前のいない世界はどうだった?』
自分を見下ろしてそう問いかけた大潮命に、小鐘は笑ってこう答えた。
「最悪でした!」
大潮命が満足げに微笑むと同時に、小鐘を柔らかな波が飲み込んだ。
そうして小鐘の意識は闇の中に溶けていく。
自分が生まれたことで、今の家庭環境になったのなら、小鐘は生まれた意味があったのかもしれない。
私は、生まれてきて良かったんだ。
初めてそう思えた。
**
開かれた書物のページをめくる音、花のような優しい香り、後頭部に触れる温かな柔らかさ。
小鐘はゆっくりと目を開く。
「あら、おはよう、小鐘」
視界にはいつものように微笑む鈴音がいた。どうも居間の長椅子で、姉に膝枕をしてもらっているようだ。全く覚えはないが、常習犯なので意識してないだけかもしれない。
自分の頭を撫で、愛おしそうに目を細めた姉を見上げながら、小鐘は再び目を閉じた。
「うなされてたけど大丈夫?」
確かにそれは、悪夢のようなものだった。しかし、否定しがたい現実のようなものでもあった。きっと小鐘の生まれなかった榊原家は夢の中のように歪んでいたのだろう。
だから小鐘は、こう答えた。
「普通の夢、ですよ」と
もしかしたら、ありえた世界。
「ねえ、お姉様。私はここにいていいですか?」
どちらが良いのか、小鐘に決める権利は無い。
ただ、いま、この自分が、姉を苦しめる理由になり得る自分が、姉のそばにいてもいいのだろうか。
鈴音は、小鐘の問いをゆっくりと咀嚼し、自分の返すべき答えを考える。
小鐘のせいで傷ついてきたことはたくさんある。羨望や嫉妬の感情を抱いたこともある。あるいは、もしかしたら、無意識で、小鐘を憎んだこともあるかもしれない。
けれども、自信を持って言えることが一つだけある。そしてそれが、小鐘への答えだ。
「もちろん。あなたは私の、大切な妹だもの」




